5/36回 <人間>2 

いのちあるものと

旧約聖書 創世記 2:5−8

 地には、まだ一本の野の灌木もなく、まだ一本の野の草も芽を出していなかった。それは、神である主が地上に雨を降らせず、土地を耕す人もいなかったからである。ただ、霧が地から立ち上り、土地の全面を潤していた。その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。神である主は、東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。

新約聖書 ヨハネ 1:1−5

 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。

T 神さまの目的のために

 人間ということの2回目です。今、神さまに造られた人間を考えているのですが、前回は創世記1章からでした。1:26−27に「そして神は、『われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。』……」とあり、記者は人間の創造を2章にもう一度取り上げます。1章と2章は全く別のものと言う人もいますが、確かに別々の資料があったのでしょう。もともと口伝として伝わったものが断片的な記録になって残っていたということですから、同じような資料がいくつもあったとして構わないのです。創世記の記者はそれを取捨選択し、別々の資料だったものを重複することで互いに補足しあうものとしたのでしょう。これが1章であり、2章です。人間の創造も、1章だけでは片手落ちで、2章も見ていかなければならないのです。

 ここで見ていきたいのは、人間のいのちです。いのちとは何か。いのちと死と、昔からこれ以上重要な問題はなかったと言えるほどです。戦争と次第に凶悪になってゆく犯罪に、いのちの比重が軽くなっている現代ですが、私たちは今、特にこのいのちを問いかけていく必要があると思います。「死とは何か」もまた別に問い掛けなければならないことですが、今回は2章から人間のいのちを考えてゆきましょう。

 人間の創造には神さまの目的がありました。前回、その目的のひとつを考えてみたのですが、今回はもう一つのことを見てゆきたいと思います。神さまはこの世界に、人間に先立ってあらゆるものをお造りになりました。そして、その造られたすべてのものが、待って待って待ちぬいて人間の創造という順番が巡って来たと、人間の創造の記事、特にこの2章を読んでそう感じさせられます。今回、私たちに与えられたいのち、そこに込められた神さまの目的を考えていきたいのです。


U 土地のちりで

 7節が今回の中心箇所です。「その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きるものとなった」とあります。 人間の創造、ここから2つのことを見ていきたいのですが、第1は「土地のちりで人を形造り」です。人ということばは<アダム>で、これは「土から造られた者」の意味ですが、このアダムにはいわゆる定冠詞がついており、2:20以降はその定冠詞がとれて、固有名詞、つまり彼の名前になっています。7節ではまだ、「人間というもの」くらいの意味で用いられていて、現代の私たちもその中に含まれているのでしょう。土地のちりという言い方は地面のうわ土のことで、畑の肥えた土を意味しているのですが、1:24に「地は、その種類にしたがって……」とあり、動物(多分爬虫類と哺乳類のこと)もこの同じ土地のちりで造られているのです。神さまがこの材料を使って動物や人間を造られたことを、「有機的生命の標準類型」と呼ぶ人がいますが、うまい言い方だなと感心しました。問題は、動物と違って人間の場合には、神さまの特別な目的が加えられたということです。

 記事は5節から始まります。5〜6節には「地にはまだ1本の野の潅木もなく……」とあります。雨がなく、霧が立ち上って土地の全面を潤していた状態は、巨大なしだ類が生い茂っていたころの原始状態だったのでしょうか。その世界を管理、調和させる者もなく、まだ未完成のままであったと聞こえてきます。2章に動物も鳥も魚も全く出てこないのは、そこに神さまが望まれた生き生きとした輝くような<いのち>に欠けていたからではと思われます。

 そんな世界に人間の創造があります。すべてのものが神さまの目的に添って調和し、機能していくために、人間の創造が待たれていました。世界にいのちをもたらすためであったと、この2章の人間創造の記事は語っているようです。5〜6節の「土地」は、人の手が入って産物を生み出すのを待っている状態です。その土地のために、神さまは人間を造られました。彼もまた同じ土地から生まれた者でしたから、土にあこがれ、土の何たるかを思い、その土とともに労して生きていく者となり得たのでしょう。神さまは、彼のためにエデンの園をお造りになり、彼をそこに置かれました。そこにはたくさんの「種を持つ草、種を持って実を結ぶ木」(1:29)があり、それは神さまが彼のために用意されたものです。自然と不調和な現代にあって、私たちは、この最初の人間が、どれほど造られた神さまの手の中で生き生きしていたかを覚えたいと思います。


V いのちあるものと

 2番目のことですが、7節に「神である主は、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった」とあります。生きものという表現は面白くない。古い訳で「生きるもの」となっているのがありまして、そのほうが抵抗ないですね。まず、いのちの息ということですが、これは神さまの本質に属することを言っているようです。1:2に「神の霊が水の上を動いていた」とありますが、まだ世界が創造されていないときの、唯一のいのちが神さまの霊であるとの宣言が感じられます。その神さまのいのちが働いて、すべてのものが創造されていくのです。きっと、あらゆる生き物もその神さまのいのちをもらって生きるものになったのでしょう。しかし、他のものが単に「出よ」と言われたのに対し、人間の場合には「その鼻からいのちの息を吹き込まれた。それで生きるものとなった」と記述されていて、人間には特別に神さまの手がかけられていると、2章の記者はそれを感じつつ記したのでしょう。これは私の想像ですが、7節に人間の創造が2段階に分けて記されていることから、「土地のちりで人を形造り」で人間は生物のように生きている、つまり肉体が機能し、本能のままに活動する状態・つまり動物のように生きる機能が完成していたと考えるのです。今、人の死は脳死か心臓停止かという議論があるように、多くの人が考えるいのちはこれを指しているのでしょう。すると、後半の「その鼻にいのちの息を吹き込まれた」は、人間だけが神さまの特別なものを頂いて創造されたと考えることができるでしょう。それは「神さまの霊」であろうと考える人がいます。また、魂、或は霊魂と考える人もいます。そうかも知れません。しかし、私はもうひとつここに、2章の記者が感じている特別な思いがあると思うのです。それは神さまがしてくださったという認識です。つまり、神さまがそうしてくださったと認め、告白し、神さまの目的に向かって自分を従わせていく意思を、人間がはっきり認識したということでしょう。人間の創造の中で、この意思が、他の多くの生き物の中で際立って違う点ではなかろうかと思うのです。神さまという方はご自分の意思を貫かれるお方です。そのいのちを受け継いだ私たちもまた、神さまを認め、自分から進んで神さまを信じ、愛し、従おうとする意思を持つのです。その意思したところにしたがって、自分の分を心得ていく。土地を耕し、そこから収穫を得る働きに喜びを感じることができるのは、そのように意思するいのちの故であろうと思うのです。

 ヨハネ1:1−5は「はじめにことばがあった」と言って、その「ことば」がこの世界のすべてのものを、そして人間をも創造したと主張しています。これは「はじめに、神、天地を造り給えり」という創世記1:1に重なるのですが、つまり、ことばは神さまのご計画、意思そのものだったというのです。造られた私たちは、その意志を受け継いでいるのです。しかも、ヨハネは、そのことばがイエスさまであったと証言しました(1:14)。私たちが神さまを覚えるために信仰を必要とするのは、その意志をはっきりさせなければならないからでしょう。私たちが「生きるものとなった」という意味を、生まれながらの本能の者としてではなく、十字架のイエスさまを信じる信仰という意志の中で確かめていきたいと願うのです。