4/36回 <人間>1 

神さまのかたちに

旧約聖書 創世記1:26−27

 そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。

新約聖書 ピリピ2:6−8

 キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死に至るまで、実に十字架の死に至るまで従われたのです。

T 神さまの手によって

 神さまと人間、この関係は永遠の課題であり、人間の誕生以来ずっと考えられてきたことです。大昔に神さまが人間を造られたとする考えは、全人類共通の文化でした。世界中至るところに創造の民話や神話がありますが、現代人はそれを科学的知識がなかったために想像で考え出した宗教的、神話的な寓話であると済ませてきたのです。しかし、古代人共通のその意識は、果たして現代人が考えるほど間違っているのでしょうか。ここで創造論、進化論等むつかしい問題を取り上げるつもりはありませんが、きっとそんな単純なことではないでしょう。理屈抜きに考えると、創造という事実があって、それが全人類に共通の神話になったとするのが自然ではないかと思います。その神さまの手による人間というものを考えていきましょう。

 創世記は旧新約合わせて66巻ある聖書の最初の書物です。日本語の創世記というのは1章の「神、はじめに天と地を造り給えり。……」とある創造の記事によりますが、英語などのGenesis がもともとの表題で、2:4の「これは天と地が創造されたときの経緯である」の経緯ということばです。これはBC1400年以上も昔の記録ですが、そこには驚くほどの歴史意識があります。勿論、長い間の口伝が記録された断片の資料があって、それを書物として編集し記録したということですが、ヘブライ文化にとって、歴史とは連続した時間の経過を指し、その中にさまざまな発端、関連、結末などが複雑にからみあっているのです。創世記はこれを神さまと人間の歴史のつながりの経緯として記録したもので、神さまが人間を第6日目に創造されたとします。この第何日目という言い方にはいろいろ議論があり、不定のある期間であろうと考えられていますが、第6日目とは創造の業の一番最後に「人間が」と理解して良いかと思います。神さまは天地万物を創造され、最後にそれら一切のものを調和させ、管理させ、機能するようにと人間の創造に手をつけられた。そこに、神さまの人間に対する思い入れを聞いていきたいのです。


U 私たちの生き方の中に

 神さまが人間をどのように創造されたか、まず1章からです。本当はいくつもの見たいことがあるのですが、「神はこのように、人をご自身のかたちに創造された」と、神さまのかたちに的を絞って、2つのことを見ていきましょう。

 第1に、神さまのかたちとは私たち全人格の問題であるということです。26節に「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう」と人間創造の発端が記され、神さまはそのように人をご自身のかたちに創造されました。ここで神さまは唯一神なのに、どうして「われわれ」なのかと奇妙に感じるかも知れません。これは、高貴な人に向かって複数で呼びかけるという習慣が欧米文化に今も残っていて、それと同じ用法だろうと考えたり、複数形の中に三位一体の神さまが表現されていると考えたりしていますが、どうなのでしょうか。それはあとで触れることになりますが、まず人間のことです。

 神さまのかたちが人になりました。それが神さまの姿形という意味でないことは言うまでもありません。人ということばのアダムは土で造られた者という意味ですが、これは形が整えられただけの人形のような存在ということではなく、もっと自由に積極的な生き方をする者として造られました。つまり、義務からではなく、生き生きと喜んで、人格をもって創造主の神さまを思うことができる、そんな神さまのかたちとしての人間です。「御霊の実は愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」とガラテヤ5:23にありますが、神さまの中にあるこういったすばらしい性質を受け継いで造られた者、それが私たちなのです。そのすばらしいものを内に育てていくとき、私たちの中に神さまを思う思いが生まれ、真に神さまに造られた者であることが分かってくるのでしょう。神さまのかたちとは、第1に、神さまが持っておられるあらゆる良いものが注ぎ込まれて創造されたということです。そのことは、神さまが私たちに愛情を注いでくださったように、私たちも又、他の人に対してそのような在り方を志していくことで明らかになっていくではありませんか。私たちの生き方そのものに問われていることでもあるようです。


V 神さまに似た者と

 考えてみたいもう一つのことです。これは私の独断と偏見ですが、神さまの複数表現には、神さまが、ご自身だけが持つ弧高性<これこそ神さまである>を、私たちのために捨てられたことが隠されているように感じられるのです。これを捨てたことについては後に触れますが、「われわれに似るように」と言うことの中に、先に述べた神さまの属性を受け継がせることよりも、もっと深い思いがあったのではないかと思うのです。人間の創造には神さまの目的があり、神さまはその目的を私たちにも共有させようとしておられた。だから、人間の創造だけは他のものにくらべて詳しく、あたかも人間だけは細心の注意を払って創造したのだと言わんばかりの記事になっているのです。

 何を共有させたかったのでしょう。「男と女とに創造された」というところからです。不思議ですが、神さまが人を造られた順序が2章にあります。最初に造られた者はアダム、男性でした。そして女性は、その男性のあばら骨から造られたと創世記2章22節に記録されています。それなのに、この1章の人間創造の最初の記事で、「男と女とに彼らを創造された」と言われ、創世記の記者にとって、男と女はいっしょに造られたという意識があり、その中に男女の完全な平等、男女合わせて一人前の人間という主張が感じられるのです。これは、私にとって、徹底的に男尊女卑だったろうと想像してきた古代人の中に、思いがけない発見でした。この男女は互いに補い合う存在、つまり夫婦と考えていいでしょう。2章24節に「ふたりは一体となる」とあるのはその意味だろうと思われます。人間同士が互いに関係し合う最小の単位、しかも、最高の関係です。

 人が神さまのかたちに創造された第1の目的は、この関係という存在の中にあるのでしょう。私たちは神さまによって創造され、しかも、<神さまのかたちに創造された>のです。ここは「神さまのかたちに」、「わたしに」とはなっておらず、あくまでも「われわれに」です。その<われわれ>は、複数の神さまとか、儀礼上の表現とか、三位一体の神さまではなく、関わりを望んでおられる神さまということです。神さまはあくまでも唯一神ですから、関わりが神さまご自身の中にあるということではなく、その弧高な神さまが、人間を創造されたときに、その弧高性を捨てて、関わりという部分を、あたかもそれがご自分の本質であるかのように確立された、その思いを聞く気がするのです。関わりとは人間との関わりです。以前に、神さまは人間のための神さまであることを望んでおられると言いましたが、人を造ろうと計画されたときから、神さまはその人をどんなに愛しておられたかということです。お造りになる前からああしよう、こうしようとイメ−ジが膨らんで、エデンの園というパラダイスを造られたのもその愛の現れだったのでしょう。神さまが関わりの神さまであろうとされるのは、私たちへの愛ゆえです。愛するが故に私たちとの絆を望まれ、その絆こそ、「われわれ」となって私たちを男女に造りあげてくださった神さまの深い思いだったのではないでしょうか。そして、その愛ゆえに、人は神さまに近づくことができるのです。ピリピ2:6−8に「キリストは、神の御姿であられる方なのに……」とあり、神さまの関わり、神さまの最高の愛はイエスさまの十字架でした。神さまが再度その弧高性をお捨てになったのも、十字架です。その愛を受け留めるときに、私たちは互いを深く愛することができ、神さまに似た者になっていくことができるのです。どれほど似たものとなっているか、信仰とは、そんな神さまへの応答としての、自分自身への問い掛けではないでしょうか。