36/36回 <終末の時>4

神さまの御国に

旧約聖書 ダニエル 12:13

 あなたは終わりまで歩み、休みに入れ。あなたは時の終わりに、あなたの割り当ての地に立つ。


新約聖書 黙示録 21:1−7

 私は新しい天と新しい地とを見た。以前の天と地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら以前のものがもはや過ぎ去ったからである。」すると、御座に着いておられる方が言われた。「見よ。わたしはすべてを新しくする。」また言われた。「書き記せ。」これらのことばは信ずべきものであり、真実である。また言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。わたしは、渇く者にはいのちの水の泉から、価なしに飲ませる。

T 神さまの隠されたことを

 先回、ピリピ書から「私たちの国籍は天にある」とパウロの証言を聞きました。神さまがおられる御国に、最終的にイエスさまを信じる者たちが招かれる、それは終末のことです。そして、それはイエスさまの福音の最後を飾るものです。今回はその天国を取り上げて、長く続いたこのシリ−ズを終わりにしたいと思います。

 天国、父の国、御国といろいろな言い方がされますが、それは、弟子たちが「今こそ」と期待したイエスさまの王国でしょう。もう一度おいでになるイエスさまが建てられる王国を、終末という中で聞くのです。しかし、それが終末の、最終の輝きであるかというと、そうではありません。それは神さまとともに憩う永遠のいのちへの始まりであって、「終末は現代、すでに始まっている」と聞くなら、永遠のいのちへの道のりは、すでに私たちのイエスさまを信じる信仰の歩みの中に現実のものとなっていると、心に刻んで頂きたいのです。

 天国がどのようなところか、その確かな証言を聞きたいと思うなら、その様子を見た人から聞くことが一番でしょう。今回は、聖書の最後の書物である黙示録から見ていきたいと思います。それは使徒ヨハネが、島流しにされていたエ−ゲ海のパトモス島で、幻のうちに見、また聞いたことを、1世紀も終わりの90年代になって書き留めたもので、こうあります。「イエス・キリストの黙示。これはすぐに起こるはずの事をそのしもべたちに示すため、神がキリストにお与えになったものである。そしてキリストは、その御使いを遣わして、これをしもべヨハネにお告げになった」(1:1) ヨハネは天国の様子を見、神さまからこれを聞きました。これ以上確かな証言はないでしょう。黙示とは「隠されたことを明らかにする」という意味ですが、ヨハネは、隠された終末と天国の様子を神さまから教えられ、それを後の信仰者のために記録として残したのです。神さまのことばとしての証言から聞いていきたいと思います。


U 十字架の主を通してのみ

 旧約には「神の国」という言葉はありません。恐らく、その意識がないからではなく、イスラエル自体が神さまの国であるとの誇りをもっていたため、改めて言う必要がなかったのでしょう。しかし、彼らが祭司の国であり、だから愛に満ちたすばらしいパラダイスであったかというと、そうではなく、反対に、神の国とは似ても似つかぬ、争い、反逆、欲望の渦巻いた国でした。だからでしょうか。エデンの園のような天国を夢見るようになるのです。ダニエル書に、「あなたは終わりまで歩み、休みに入れ。あなたは時の終わりにあなたの割り当ての地に立つ」(12:13) とあります。この預言は紀元前540年頃のものですが、イエスさまの時代に近づくにつれ、次第に終末が意識に上りはじめました。現実のイエスラエルが、余りにも神さまの国から離れた罪多い歩みであったために、終末のパラダイスを見つめ始めたのです。国とは支配を表すことばです。その意味で、イスラエルは不完全ながらも神さまの国であったと言えるでしょう。ただ、彼らは神さまの支配を受けようとはせず、神さまに逆らって罪を犯し続けました。それは、現代の私たちも同じでしょう。そのような罪多き者たちのために、イエスさまが十字架にかかってくださったのです。彼らは、イエスさま(メシヤ)を通して、神さまの御国に招かれると聞いたのです。預言者も途絶えた紀元前400年からの中間時代に、イスラエルにメシヤ信仰が一気に燃え上がったのは、彼らがパラダイスへの招きを思い出したからではないかと思われます。ダニエルが「あなたは終わりまで歩み、休みに入れ……」と預言したのは、罪のイスラエルへの切ないまでの期待だったのかも知れません。ただ、彼らはイエスさまがそのメシヤ・救い主であるとはどうしても信じられず、イエスさまを十字架につけてしまうのです。


V 神さまの御国に

 十字架の証言を黙示録から紹介しましょう。「見よ。彼が雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。しかり。ア−メン」(1:7) イエスさまを突き刺した者は、ロ−マ兵やユダヤ人だけではありません。神さまに向かって罪を犯した私たち全員が、その罪をもってイエスさまを十字架につけたのです。その死からよみがえられたイエスさまが、雲に乗って私たちのところに来られるとき、きっと、罪赦された者もそうではない者も、世界中の人たちが、再臨のイエスさまを目撃するのでしょう。その時になって、信じておけば良かったと言っても遅いのです。

 黙示録の大半は、人間の神さまに対する醜いまでの葛藤、反抗です。そこには、サタンの暗躍や、神さまの審判さえあります。終末の、サタンとイエスさまとの戦いは、まことにすさまじいものだろうと想像します。そして、輝かしい勝利が得られるまでに流される、聖徒たちのたくさんの血のことも、ヨハネは隠していません。私たちはイエスさまにお会いするまでに、どれほどの苦難を通り、忍耐しつつ信仰を守り通していかなければならないのでしょう。しかし、断固、罪に誘ざなう者を十字架に退けられた主が、御国に私たちを迎えてくださる時がやって来るのです。19章には「小羊の婚姻」と表現され、私たちは花嫁にたとえられています。「花嫁は光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行いである」 私など、聖徒と呼ばれることにいつも躊躇を感じます。それは、罪を赦されたと聞いても、なお自分が悪に感染し、同意していると感じるからです。しかし、そんな者のために、主が十字架にかかって罪を赦してくださった。それだから、私のような者も正しさの衣をまとうことが出来ると言われる。そして、それが花嫁として天国に迎えられる私たちの正装であると、今からわくわくするのです。

 ヨハネの証言を聞いてみましょう。「また私は、新しい天と地とを見た。以前の天と地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て天から下って来るのを見た。……神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものがもはや過ぎ去ったからである」(21:1−4) 海は悪の象徴でしょうか。十字架の主が、あらゆる悪に打ち勝って建て上げられた、神さまの御国ということなのでしょう。不安も悲しみも苦しみも一切が解消し、喜びと愛に満ちた永遠の営みが、私たち信仰者の現実になる約束であると聞こえてきます。

 新しい聖なる都がどのようなものであるか、その記述を聞いてみましょう。「都には神の栄光があった。その輝きは高価な宝石に似ており、透き通った碧玉のようであった。都には大きな高い城壁と十二の門があって……」(21:11−) こう読んでも、その都がどんなにすばらしいものか、私たちには想像することができませんし、ヨハネもこれを十分に書き留めることができなかったのではないでしょうか。ごく稀にですが、天国の夢を見ることがあります。美しい緑に包まれたなだらかな丘を、白い衣をまとったたくさんの人たちが賛美しながら上っていきます。まだ一度も味わったことがない嬉しさや楽しさ、穏やかな気持ちが全身に溢れています。とりとめもない夢ですが、イエスさまのお顔を拝しながらの新しい歩みが待っていると思うと、嬉しくてたまらなくなります。

 聖書の最後を飾ることばを聞いて、このシリーズを終わりたいと思います。「これらのことをあかしする方がこう言われる。『しかり。わたしはすぐに来る』ア−メン。主イスよ、来てください。主イエスの恵みがすべての者とともにあるように」(黙示録22:20−21) マラナタ(主よ。来てください)は、歴代の教会が信仰の合い言葉としてきたことばです。私たちも、先輩クリスチャンたちと同じ希望の信仰にしっかりと立って、マラナタと、私たちの信仰の歩みを続けていこうではありませんか。