35/36回 <終末の時>3

主にお会い出来る日を

旧約聖書 イザヤ 62:10−12

 通れ、通れ、城門を。この民の道を整え、盛り上げ、土を盛り上げ、大路を造れ。石を取り除いて国々の民の上に旗を揚げよ。見よ。主は、地の果てまで聞こえるように仰せられた。「シオンの娘に言え。『見よ。あなたの救いが来る。見よ。その報いは主とともにあり、その報酬は主の前にある』と。彼らは聖なる民、主に贖われた者と呼ばれ、あなたは、尋ね求められる者、見捨てられない町と呼ばれる。」


新約聖書 ピリピ 3:18−21

 私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから、主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御方によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。

T 今の生き方を通して

 終末を現在のことと考え、現在を終末の時代として生きるよう勧められています。確かに現代は、終末の時代であるといっておかしくないでしょう。政治、社会、教育、経済、宗教等、あらゆる方面で混乱が生じ、特に、人々の愛が冷えていくと言われた終末の著しい特色が、現代に浮彫りにされているように感じられます。愛とは、自分のことより他の人のことを先にするものですが、しかし現代、自分を先にしようとすることばかりが目立ち、確かに愛が失われている時代なのでしょう。人間の愚かしさと罪が、神さまの目に飽和状態となって届いていて、すでに神さまの中で終末が起こり始めていると感じられてなりません。いつ終末が来てもおかしくない、そのような現代に、イエスさまの十字架と赦しの愛を伝え、「あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見い出そう」(伝道者の書11:1)という生き方を、自分を後回しにし、弱り、悲しみ、苦しんでいる人々の隣人となって生きることを、大切にしなければならないと教えられます。

 イスラエルの古い諺に、「たとえ明日世の終わりが来ようとも、今日私はオリ−ブの木を植える」というのがあります。終末が来ることは確実であると聖書は証言しています。刻々と終末が近づいている現代、その終末を希望と喜びをもって迎えるために、現在の私たちの今をどう生きるか、自分自身に問い掛ける必要があるようです。私たちの神さまは死んだ者の神さまではなく、生きて今も働き、苦闘しつつ現在を生きている私たちの神さまであると受け止めて、私たちの今の生き方を通して、神さまと関わりをはっきりさせていきたいのです。

 終末のことを次回もう一度(最終回)お話ししたいと思いますが、今回は、聖書が語る終末の中心メッセージである、イエスさまの再臨を見ていきましょう。文字通り、イエスさまがもう一度私たちのところにおいでになるということを、聖書は確実であると何度も証言しています。その再臨の出来事を、私たちがどのように聞いていけばいいのか、イエスさま再臨の目的、その中心のメッセ−ジを考えていきたいと思います。


U 終末の出来事

 大まかにですが、終末の出来事を聞いてみましょう。終末が近づくにつれて、聖書はこれを苦難の時代と呼んでいますが、いろいろな方面で、かつてないほどの大混乱が起きると語っています。まず、経済的な不況が起きます。世界中を巻き込む経済的不況はすでに始まっていますが、恐らく、こんな程度ではすまないでしょう。そして、地球規模の環境汚染はますます深刻になり、エイズのような恐ろしい、新しい病気が人の心と身体を蝕んでいくと指摘されています。ありとあらゆる犯罪が多発し、大型化していくのでしょう。国同士、人同士の反目、戦争、地震、飢饉……、そして、愛が冷え、離婚が増えて家族はばらばらに。すでにその兆候が現れていますね。更に、不思議な奇跡を行う宗教家たちが「自分こそ救い主だ」と現れ、多くの人たちが彼らについていくと聖書は語っています。実は、余り知られていませんが、オ−ム真理教など、救い主を自認するカルトと呼ばれる宗教がすでにたくさん出始めています。恐らく、これからもっと増えていくでしょう。このように考えますと、今、まさにその時代に差しかかっているのではと思えますが、それでも、まだ終末ではありません。もっともっとひどい状態になっていくのでしょう。

 イエスさまが話されました。「だが、これらの日の苦難に続いてすぐに、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。そのとき、人の子のしるしが天に現われます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです」(マタイ24:29−30)。<地上のあらゆる種族は悲しみながら>再臨のイエスさまを見ると言われます。終末が神さまの裁きという一面を持っているからでしょう。聖書が証言する終末の出来事は、不法の人の活躍、空中携挙といったことも含めて、まだまだたくさんありますが、耐え難い苦難が襲ってくることは確実でしょう。そして、その苦難の時代に続く、あらゆるものの滅亡という決定的瞬間に、イエスさまが来られるのです。それが終末の中心であると、聖書の証言を重く重く受け止めて頂きたいのです。しかし、イエスさまが十字架におかかりになる前に、弟子たちに言われた希望を聞いてください。「あなたがたのために場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです」(ヨハネ14:3)


V 主にお会い出来る日を

 終末が、苦難の時代から始まる、神さまの裁きという一面を持つことを覚えなければなりません。しかし、終末が、人類や地球の滅亡という絶望だけかというと、そうではありません。ヨハネ14:3にイエスさまが言われている「場所を備えに」とは、私たちの最終の希望を示すものでしょう。その希望に向かって、イエスさまの再臨が約束されているのです。今回、私の大好きな箇所をテキストに選びました。「けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます」(ピリピ3:20)

 イエスさまの再臨は必ずあると覚えなければなりません。残念ながら証明はできませんが、聖書はそれを必ず起こる事実として記録しています。聖書が事実と語り、私たちはそれを事実と受け止めるのです。そこに立つかどうかを、聖書信仰は問いかけています。たとえ私たちに分からないことであっても、神さまのことばは確実です。神さまの約束であるイエスさまの十字架とよみがえりの出来事はすでに成りました。再臨も同じように実現する神さまの約束なのです。たくさんの数えきれない先輩クリスチャンたちがそれを待ち望み、2000年たっても実現しないのに、まだ信じるのかと不思議に思うでしょうか。しかし私たちは、先輩たちがその2000年間を、神さまの恵みの中で歩み続けたことを知っていますし、約束された神さまが真実なお方であることを、いくつものことを通して経験してきました。神さまの約束があって、先輩たちが待ち続け、私たちもまた待ち続けるのです。それが、誠実な信仰の歩みでしょう。「私たちの国籍は天にある。そこからイエスさまが救い主としておいでになる」と証言するパウロにこの約束を伝えた神さまが、同じ希望の信仰に私たちを招いておられるのです。

 「国籍は天にある」、「天国の市民権」という言い方ですが、昔、アテネの市民が自分の町に非常な誇りを持ち、その都市の市民であることを絶対の安心、喜びと感じていました。つまり、市民権は生きる力そのものだったのです。やがて彼らは、アテネそのものを失い、市民権ばかりか、安静や生きる目的まで失ってしまいました。アトラキシンという精神安定剤をご存じでしょう。人はアトラキシア(ギリシャ語・安静)を失って、薬で安静を取り戻そうとするのでしょうか。現代は、薬どころか、原爆などという恐ろしい兵器で、そのアトラキシアを取り戻そうとしているようです。私たちが失った安静を、それは本当に与えてくれるのでしょうか。「いいえ」、答えは幼児でも分かることです。本物の安静を与えてくださる方は、唯一の神さまだけです。私たちが安静を失ったのは、神さまに罪を犯したからではありませんか。失ったアテネとも言えるところは神さまとともに憩ったパラダイスであり、イエスさまの十字架は、そのパラダイス喪失の原因である罪を赦し、私たちを神さまと和解させてくださることなのです。その主にお会いする日が近づいている終末を、喜びと期待をもって待ち望もうではありませんか。