33/36回 <終末の時>1

目を覚まして主を

旧約聖書 マラキ 4:5−6

 見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は父の心を子に向けさせ、子の心を父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。

新約聖書 マタイ 24:45ー51

 主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食事をきちんとあたえるような忠実な思慮深いしもべとは、いったいだれでしょうか。主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。(45-46)

T 終末の時代に

 イエスさまが十字架にかかり、私たちの罪のために死んでくださったという福音をお話して今回で33回になります。聖書から聞いていくことは、どんな小さなこともみなイエスさまの福音につながっているのですが、系統立ったシリ−ズとしてはこのあたりで終了したいと思います。最後に、「終末」を取り上げましょう。

 現代は終末の時であると言われます。そのように言われ始めたのは、特にノストラダムスの1999年の7の月に世の終わりがやって来るなどときわものが紹介され、ちょうど、地球温暖化、エネルギ−危機、核の問題といった事柄がからみあって、30年ほど前から一気に人々の意識にのぼり出したのですが、それとは別に、クリスチャンたちはずっと「現在は終末の時代である」という緊張感の中で信仰の歩みを続けてきました。世間一般の終末意識については別の機会に取り上げるつもりですが、今回は、初期の弟子たちの中に生まれ育てられてきた終末意識を、現代の私たちへの遺産として聞いていきたいと思います。

 まず旧約聖書最後のマラキ書からです。「見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす」(4:5)とあります。預言者エリヤは、旧約聖書が死なずに天に上げられたと名前を記録している、三人の中のひとりです。どういう状況であったかはともかく、マラキはエリヤの名を終末におけるユダヤ人の希望として掲げています。マラキ以後の、旧約と新約の中間時代と呼ばれる4百年間は、国がなくなってしまうかもしれないというユダヤ人たちの危機的意識の中で、エリヤの出現が待ち望まれ、メシヤ信仰が一気に膨れ上がった時代でした。このエリヤが誰を指しているのか分かりませんが、エリヤについてイエスさまが弟子たちに言われたことがあります。「エリヤはすでに来たのです」 弟子たちはそれをバプテスマのヨハネと理解しました。バプテスマのヨハネとイエスさま、マラキはその時代をひとつの時代と見て、それこそ終末への幕開けと証言したのでしょう。終末がどんなことかはいずれ取り上げますが、イエスさまが来られたことで、私たちは確実に終末の時代へ歩み始めたのです。その終末に向けて私たちが今、どのような歩みをしていくのかが問われています。


U 二つの生き方から

 イエスさまが来られた終末への幕開けについて、もう少し正確にお話しましょう。十字架にかかって私たちの罪のために死に、よみがえられて後、イエスさまは弟子たちにひとつの約束を残して、天に帰って行かれました。本来の栄光の座に着かれたのです。約束は「わたしはもう一度あなたがたのところに来る」というものでした。これは終末という一連の出来事の中心で、イエスさまの再臨と呼ばれ、クリスチャンたちが最も待ち望んでいることです。このことは別にお話ししたいと思いますが、今の時代は、いつイエスさまが来られてもおかしくないほど、終末へのいろいろな条件が整っていると思われてなりません。私たちがまだイエスさまにお会い出来ないのは、救われる者たちのために、ほんの少し時間が伸ばされているということなのでしょう。しかし、確実にその時が近づいていると覚えて頂きたいのです。

 十字架におかかりになる数日前に、イエスさまは徹夜で終末のことを弟子たちに話されました。お話しも終わりに近づいたころ、「だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです」(マタイ24:42)と言われました。イエスさまは弟子たちに、どのように終末を迎えようとするのかと問いかけられています。「主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らにきちんと食事を与えるような忠実な思慮深いしもべとは、いったいだれでしょうか。……」(45−51)これはたとえ話しですが、実際にそんなことがあったのでしょう。

 少し説明が必要でしょうか。この主人は、二人のしもべに留守を任せて遠いところに旅立っていきました。非常に簡潔に言われていますが、ひとりは忠実な者、「主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。その主人は彼に自分の全財産を任せるようになります」と言われるしもべ(恐らく奴隷)です。もうひとりは、主人がまだまだ帰るまいと思い、喧嘩したり、飲んだり食べたりで大騒ぎをしています。そして、「主人は思いがけない日の思わぬ時間に帰ってきます。そして、彼をきびしく罰して、その報いを偽善者たちと同じにするに違いありません。しもべはそこで泣いて歯ぎしりするのです」と言われるのです。

 二人にそれほどの違いはないと思われるのですが、後者のしもべは非常に悪く言われます。ずっと真面目にやってきたのに、ただその緊張が続かず、一瞬油断しただけのことではないでしょうか。そんなことは私たちにもよくあることです。そうでもなければ、主人は彼に大切な仕事を任せはしなかったでしょう。しかし、注意しなければなりません。彼は「主人がまだ帰るまい」と決めつけ、自分の都合を優先させてしまったのです。先のしもべが「忠実な」と言われるのは、主人の言い付けを大切にしたからです。勿論、奴隷でしたから当然かもしれませんが、それでもこんなに開きが出てくるのは、中心とするものの違いではないでしょうか。ほとんど変わらないようであっても、実は天と地ほどの開きが出て来るのです。生き方で、何が大切にされているかが問われています。恩師の老牧師がよく言っていましたが、「人はその求めるところのものによって価値が決まる」と、本当にその通りでしょうね。終末にこの二人のどちらとされるかは、現在、私たちがどのような価値観を持って生きているかに左右されると、このたとえ話から聞こえてきます。


V 目を覚まして主を

 「忠実な」ということをもう少し考えてみましょう。後のしもべが「その仲間を打ちたたき、酒飲みたちと飲んだり食べたりし始めていると」と並べられていますので、この「忠実な」は、「食事時には彼らに食事をきちんと与えるような」忠実を言うのでしょう。ところで、酒飲み仲間と一緒に飲んだり食べたりということは、現代の私たちにも珍しいことではありません。友人と一緒に会社の帰りにチョット一杯というのはごく普通のことです。接待はする方もされる方も、それが甲斐性だと言われています。まっすぐ家に帰って、家で食事をするなど出世コ−スから外れるよと警告されかねません。終電の中でいい機嫌でふらふらしているサラリ−マンを見掛けると思わずにやりとしてしまうのは、彼らが頑張っているなと感じるからでしょう。それは放蕩ではなく、苦労のはけ口、ストレス解消かも知れませんが、どちらにしても、「きちんと食事をさせる」ことも、「ほんのちょっと気をゆるめた」ことも、いわば私たちの日常の生活と言えます。その日常の生活で、なぜ片方が褒められ、片方が裁かれるのでしょうか。地味で面白くもない人の世話をする日常に、ひとりは自分をそっちのけに一生懸命でした。忠実なとは、そこに鍵があると思われます。主人からその人のことを任された彼は、どうやって主人に喜んで頂こうかと、ご主人のことを考えていました。そこには、自分のことを後回しにした、地味ですが、与えられた責任を全うしようとする彼の姿勢が感じられます。それは、何よりも主人が彼に望んだことでした。彼は主人の意志に従いました。ことの起こりはご主人から出ているのです。「主人が帰ってきたときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです」と言われ、言い付けた方が彼を見ていました。彼はご主人を見ていたのでしょうが、本当は主人が彼を見ていたのです。後のしもべが祝福を受けられなかったのは、主人に見られていることを感じない、彼の生き方にあると言えるのでしょう。

 それは信仰の問題です。忠実ということばは信仰と同じものですが、ヘブル書から聞いてみましょう。「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです」(11:1) ここから、イエスさまを信じる信仰は、見えるものに忠実なだけではなく、見えないもの、見えないお方にも忠実であることを教えられます。現代という豊かな物質の時代に生きて物ばかりに囲まれていると、見えないお方の目を見失ってしまい兼ねません。信仰の目をしっかりと覚まし、見つめてくださる主を、私たちも忠実に見つめていきたいと願います。