32/36回 〈礼拝〉3

イエスさまと共に

旧約聖書 U列王記 5:14

 そこでナアマンは下って行き、神の人の言ったとおりに、ヨルダン川に7たび身を浸した。すると彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなった。


新約聖書 ロマ 6:3−4

 それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。
T 礼拝としての聖礼典から

 今回は洗礼のことを考えてみたいと思います。教会がイエスさまのご命令として受け継いだ2つのことを聖礼典として、聖餐式とバプテスマをまとめて取り扱うつもりでしたが、先回、〈礼拝〉の中で聖餐式を取り上げましたので、同じ〈礼拝〉の中でバプテスマ・洗礼のことも考えてみたいと思います。イエスさまの十字架の救いという神さまのことばが、見える形で受け留められるのが聖餐式であり、その聖餐式が礼拝の中心であると聞いたのですが、そこにバプテスマも含めた聖礼典が、礼拝の重要な信仰告白であると理解して頂きたいのです。聖餐式も洗礼も、そこで私たちの信仰を神さまに献げていくのです。今回は、クリスチャンになることと洗礼を受けることがどうつながっていくのか、そのあたりのことを考え、洗礼を自分自身の問題として考えて頂きたいと思うのです。


U 神さまのことばを中心に

 洗礼はキリスト教入門の儀式であると、それくらいしかご存じない方もあるでしょう。実は、最初に教会がエルサレムに誕生したとき、洗礼もイエスさまを信じた印として始められました。クリスチャンになる証が、なぜ、この2000年の教会の歴史を通して、1度の例外なく洗礼だったのでしょうか。そのところを考えていきたいと思います。

 洗礼、ギリシャ語ではバプテスマですが、旧約聖書にはバプテスマに該当することばがなく、それに近い意識で読まれるところがU列王5:14と思われます。らい病にかかっていたシリヤの蒋軍ナアマンが、預言者エリシャのことばに従ってヨルダン川に7度身を浸して癒されたという記事ですが、ここからも想像されるように、古代のいろいろな宗教には、バプテスマのような入門儀式はそれほど珍しいことではなかったようです。ただ、それらのほとんどは悪魔よけの呪術という性格であり、信仰告白としてのバプテスマは、おそらく旧約と新約の中間時代、ユダヤ教に改宗しようとした異邦人が、割礼・バプテスマ・供え物を献げるという3つの儀式を通ったことから来ていると考えられています。もっとも、ユダヤ教への改宗の印は割礼であり、バプテスマは「清め」という意味を持っていたようですが、バプテスマのヨハネが出たエッセネ派では、これを信仰生活の中心と考えていたようです。だからヨハネは、「悔い改めのバプテスマを」と叫んだのでしょう。イエスさまは、そのヨハネから洗礼を受けて十字架に続く3年間の公生涯に入られました。

 もちろん、罪なきお方イエスさまが、悔い改めのバプテスマを受けられたのではありません。弟子たち、そして現代の私たちのために、先弁をつけられたのでしょう。天に帰られるとき、弟子たちにバプテスマを委ねて言われました。「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授けなさい」(マタイ28:19) ここで第1に覚えて頂きたいのは、洗礼はイエスさまのご命令によって行われるものであると言うことです。つまり、洗礼はイエスさまのことばから出てきたものであり、イエスさまに基盤に行われるものであるということです。前回、聖餐が神さまのことばの具体化であると聞きましたが、その意味で、洗礼もまた神さまのことばを中心に行われるものです。私たちは、イエスさまの十字架の救いのことばを聞き、それを信じ受け入れて洗礼を受けるのですが、それは、イエスさまを信じる信仰の告白を、目に見える形に現わしていく私たちの証であり、イエスさまの教会に招かれた私たちの信仰の応答なのです。そして、これこそ礼拝そのものと言えましょう。決して単なる儀式ではなく、まして悪魔はらいの呪術とか清めでもありません。信じたしるしにたった一度だけ受けるものです。聖餐式も、毎週行うところは少ないですね。しかし、礼拝が神さまに向かって行われるとき、聖餐式がなく、洗礼式が行われなくても、そこに聖餐式があり、あなたの洗礼式が行われているように、私たちの告白としての信仰が神さまに献げられていると覚えて頂きたいのです。


V イエスさまと共に

 もうひとつのことを考えてみたいのですが、洗礼・バプテスマの意味です。なぜ洗礼を受けることがイエスさまを信じる信仰の告白であり、その告白がバプテスマでなければならないのかという点です。これは、私たちの信仰の中心点ではないかと思うのです。

 ところで洗礼は、バプテスマの訳語ではありません。バプテスマと言うのが正しいのです。バプテスマは水に浸すということばで、新約聖書にある用法はこれでしょう。全身を水に浸すところから、こだわる人たちは浸礼と呼びますが、12世紀頃から水をふりかける形の滴礼や潅水礼が加わり、総称して洗礼と呼ばれて一般的になりました。海や川のようなところで行う浸礼がバプテスマの実感が込もっているようで私は好きですが、どちらもイエスさまを信じる信仰の告白に変わりありません。

 ロマ書6章に、「キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか」(3)とあります。イエスさまの死とは、いうまでもなく、私たちの罪の身代わりとして十字架に死んでくださったことを言うのでしょう。アダム以来、「罪を犯した者は死ななければならない」というのが、聖なる神さまの絶対基準でした。本当は私たちが死ぬべきだったのです。しかし、繰り返しますが、死ぬべき私たちの身代わりとして、イエスさまが十字架に死んでくださったのです。その贖いこそ私たちの救いであり、新しいいのちに生きることができる、神さまの赦し、恵みの道でした。イエスさまの十字架を私のためであったと信じ、告白する者は、死から解放されているのです。肉体の死はやって来ますが、その先に、神さまとともに憩う天国の新しいいのちが約束されているのです。聖書が永遠のいのちと約束しているものです。そのことばを私たちはイエスさまの十字架とよみがえりの事実の中で聞き、聞き続けているのです。

 聖餐に預かり、礼拝を守り続けていくことは、その事実を「しかり」と聞き続ける私たちの信仰告白で、洗礼もその告白に重なります。水に入ってイエスさまの死にならう者となり、水から上がってよみがえりを聞いていく。「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです」(4)とあります。もちろん、水そのものに力があるわけではなく、これはシンボルです。しかし、もう1度言いますが、単なる形だけの儀式ではないのです。イエスさまが十字架に死んで、よみがえってくださったという事実が、私たちの告白を支えるのです。水に入ったから実際に死ぬということではありませんが、イエスさまを信じたことが、バプテスマを通して私たちの中に、十字架とよみがえりの主がともに居てくださるのだと、古い自分が死に、新しい主の弟子として生かされた告白になっていくのです。私自身、何十年も前の雪の夜受けた洗礼を忘れることができません。北海道で見慣れた筈の雪の白色が、輝いて見えました。

 洗礼のことをあれこれと話しても、それは単なる説明にすぎません。これまでお話した意味での、イエスさまを信じますという方たちの、洗礼への決心を聞きたいと願います。イエスさまの十字架が「私の罪のためであったと信じます。洗礼を希望します」と聞くなら、嬉しいですね。イエスさまと共に歩む神さまの御国への道が、そこから始まるのですから。必ずしも平坦ではないかも知れませんが、祈りつつ、励まし合いながら信仰の道を歩き続けようではありませんか。イエスさまがあなたの主になってくださる人生を選び取ってください。