30/36回 <礼拝>1

喜びとともに主を

旧約聖書 創世記 35:1−3

 神はヤコブに仰せられた。「立ってベテルに上り、そこに住みなさい。そしてそこに、あなたが兄エサウからのがれていたとき、あなたに現われた神のために祭壇を築きなさい。」そこでヤコブは自分の家族と、自分といっしょにいるすべて者とに言った。「あなたがたの中にある異国の神々を取り除き、身をきよめ、着物を着替えなさい。そうして私たちは立って、ベテルに上って行こう。私はそこで、私の苦難の日に私に答え、私の歩いた道に、いつも私とともにおられた神に祭壇を築こう。」

新約聖書 マタイ 2:11

 そしてその家にはいって、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。
T 主日礼拝を

 これまで、神さまが私たちをどんなに愛してくださったかを、それはイエスさまが私たちの罪の贖いとして十字架上に死んでくださったことであり、死からよみがえって新しいいのちに生きる希望になってくださったことであり、そして、信じる者たちをご自分の御国に招いてくださるという約束であると聞いてきました。そして教会は、御国・天国と私たちとをつなぐ信仰の場所であり、祈りは私たちを兄弟姉妹という交わりに整え、育て、広げていくものであるのです。しかしここで、イエスさまが私たちにしてくださったことだけを取り上げるのは、福音を受け止める側として片手落ちではないでしょうか。イエスさまが私たちにして下さった救いの出来事に、私たちがどう応え、感謝し、その信仰の歩みを続けていこうとするのかが問われています。祈りはそのひとつの応答であると考えて良いでしょう。そして、私たちの応答には、もうひとつ、礼拝があります。

 教会に行く、教会生活をする、祈りに行く、いろいろな言い方がありますが、それらをすべてをひっくるめて、私たちは「礼拝を守る」と言ってきました。イエスさまを信じる信仰、信仰者の交わり、希望が示す中心は、教会がこの2千年間守り続けてきた日曜日の礼拝にあると言えましょう。現代人は、「教会もいいけれど、毎週日曜日に行かなくてはならないというのは……」とためらいますが、そのように日曜礼拝(聖日礼拝)が守られてきたから、教会はいのちを失うことなく、イエスさまを信じる信仰の証人となることが出来たのです。その礼拝をしばらく考えていきましょう。


U 素朴な信仰をもって

 まず最初に、礼拝のルーツ、その最も基本的な姿勢と思われる創世記35章のヤコブの礼拝から見ていきましょう。「神はヤコブに仰せられた。『立ってベテルに上り、そこに住みなさい。そしてそこにあなたが兄エサウからのがれていたとき、あなたに現れた神のために祭壇を築きなさい』 それでヤコブは自分の家族と、自分といっしょにいるすべての者とに言った。『あなたがたの中にある異国の神々を取り除き、身をきよめ、着物を着替えなさい。そうして私たちは立ってベテルに上って行こう。私はそこで、私の苦難の日に私に答え、私の歩いた道に、いつも私とともにおられた神に祭壇を築こう」(1−3)とあります。

 このような「祭壇を築く」礼拝の仕方は非常に古く、恐らくアダムの昔にさかのぼることができるでしょう。最初は石を立てただけの素朴なものでしたが、石を重ねてその上に羊など犠牲をささげるようになり、やがて、天幕など聖所での祭儀礼拝に移行し、次第に神殿礼拝という形に近づいて来ました。これが現代の一部キリスト教会に受け継がれる礼拝様式です。

 最も原始的な礼拝は<祭壇を築く>ことでした。それは、目に見えない神さまを、祭壇を築くことで、実在の方として具体的に認めることなのでしょう。それが、次第にごてごてときらびやかな飾りを持つようになり、人間の悲しい一面かも知れません。しかし、その装飾を取り除くと、そこには本当の神さまへの思いが浮かび上がってきます。ヤコブが「私の苦難の日に私に答え、私の歩いた道に、いつも私とともにおられた神さまに祭壇を」と言ったその信仰こそ学ばなければならないものでしょう。祭壇を築くという単純な礼拝には、現代人が陥りがちな理屈っぽい礼拝など入る余地もありません。素朴な神信仰だけがその祭壇になるのでしょう。礼拝の中で私たちが覚えなければならないのは、そのような素朴な信仰ではないでしょうか。

 教会には、祭壇を築くことではない、もうひとつの礼拝が、特にプロテスタント教会に受け継がれて来ました。それは、イスラエルのバビロン捕囚以来の会堂礼拝を踏襲したものです。エルサレムから遠く離れて神殿に詣でることができない彼らが、神さまのことばを聞き、祈り、賛美をすることで神さまを拝んだのがその始まりと言えるでしょう。そして、その礼拝の仕方は、イスラム教徒たちがメッカに向って何回も何回もひれ伏す姿にも引き継がれたと思われますが、現在では彼らの方がずっと素朴な礼拝を守っていると言えそうです。
 彼らとは大きく違いますが、素朴な信仰が溢れる礼拝を志したいものです。


V 喜びとともに主を

 イエスさまご降誕の折り、東方(パルティア)の博士たちが訪ねてきた、その記事にこうあります。「そしてその家にはいって、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物をしてささげた」(マタイ2:11) ルカが記したイエスさまご降誕の記事には、羊飼いたちがベツレヘムの馬小屋に駆け登り、幼な子にお会いする様子がありますが、そこには、彼らの「ひれ伏して拝んだ」という礼拝行為が見られません。ご降誕の記事で、イエスさまに礼拝の行為を行った最初の記事が博士たちです。だからでしょうか。マタイはここに、礼拝の基本的ないくつかの要素を、非常に注意深く記録しています。整理しながら一つ一つを考えてみましょう。

 1、第一は、ひれ伏して拝んだことです。祭壇を立てて礼拝を行ったヤコブの記事から見た通りですが、礼拝の最も大切なことは、神さまに向かって頭を下げること、拝むことです。その意味で、現代のプロテスタント教会の礼拝室は学校の教室のようで、それはそれなりに意味はありますが、ひれ伏して拝むという礼拝には若干適しくないのではとも考えられます。もっとも、礼拝は形のことではなく、心のことだと言われればその通りなのですが……。しかし、心を形に示すことも大切かも知れません。礼拝室については別の機会に取り上げましょう。

 2、「母マリヤとともにおられる幼子を見」とあるところです。ひれ伏して拝む相手をきっちりと特定し、「見て、拝む」のです。あらゆることに極めて合理的な筈の現代人でさえ、宗教というと何か神秘的な「神」を想像するのでしょうか。拝むべき方を見つめることがないまま、漠然としたものへの礼拝行為になっていることが多いようです。しかし、私たちは、主と認めたお方の前に伏して拝むのです。礼拝するとは、私たち人生の一切を注ぎ込んで、その時には、そのお方にだけささげるものですから、そのお方をしっかり見つめつつ礼拝をしていくべきではないでしょうか。イエスさまは十字架にかかって私たちを罪から救ってくださったお方です。そして、今も生きて私たちを見ておられるお方です。その方を見つめつつ礼拝したいものです。

 3、「宝の箱をあけて黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた」ところからですが、贈り物の内容はともかく、宝の箱をあけてそれを取り出し献げたところに、礼拝のもう一つの面が見えてきます。それは、礼拝が神さまへの献身であり、仕えるという信仰の姿勢が「ささげる」ことを必然的に伴うということです。礼拝には、拝むことと、仕えるという2つの面があることを、マタイははっきりさせたかったのでしょう。実在の神さまです。そのお方を喜ばせるために私たちのありったけを注ぎ出す。私たちの心が現れる礼拝を志したいものです。

 4、10節に「彼らはこの上もなく喜んだ」とあります。喜びが礼拝全体に溢れていく、そのような礼拝こそ、真の礼拝と言えるでしょう。神さまに献げるものは、私たちの心なのです。悲しみや苦しみの中での礼拝もあるでしょうが、それでも、神さまの前に立つときに、他の一切を忘れて神さまとともにあることを喜ぶことです。礼拝するとは、その喜びを神さまに献げることではないでしょうか。私たちの信仰の歩みが、そのような喜びの溢れるものでありたいと願います。