3/36回 <神さま>3 

呼び給う神さま

旧約聖書 出エジプト3:1−6

 モーセはミデヤンの祭司で彼のしゅうとイテロの羊を飼っていた。彼はその群れを荒野の西側に追って行き、神の山ホレブにやって来た。すると主の使いが彼に現われた。柴の中の火の炎の中であった。よく見ると、火で燃えていたのに柴は焼け尽きなかった。モーセは言った。「なぜ柴が燃えていかないのか、あちらへ行ってこの大いなる光景を見ることにしよう。」主は彼が横切って見に来るのをご覧になった。神は柴の中から彼を呼び、「モーセ、モーセ。」と仰せられた。彼は「はい。ここにおります。」と答えた。神は仰せられた。「ここに近づいてはならない。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は聖なる地である。」また仰せられた。「わたしは、あなたの父の神アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは神を仰ぎ見ることを恐れて、顔を隠した。

新約聖書 ヨハネ15:16

 あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。

T 私たちの神さま

 <神さま>のことを考えていますが、出エジプト記3章からこれまでに2回、13−15節、27−12節と見てきました。今回は遡って1−6節です。最初に2回を簡単に繰り返しておきますと、第1に、神さまは実在の神さまであるということです。その神さまご自身がイエス・キリストとなって私たちにご自分を現してくださった。ですから、神さまを信じるとは、イエスさまを信じることだと理解して頂きたいのです。第2に、神さまは私たち人間にとって恵みの神さまであるということです。生きているというだけでさまざまな問題を抱えている現代、そのストレスの溜りようはすさまじいものでしょう。その苦しみや痛みに、神さまは「あなたの悩みを見、叫びを聞き、痛みを知っている」と言われるのです。ただ知っているよと言うだけでなく、苦しみや悲しみの解決、慰め、救いの手を備えつつ待っていてくださるのです。

 そこでこの2つをもう少し煮詰めてみたいのですが、神さまは私たちにとってどのようなお方なのでしょう。神さまの最も本質的な部分、神さまは元来どのようなお方かを考えてみたいと思います。端的に言いますと、神さまは他に誰がいなくてもただおひとりだけで神さまです。神さまのことを考えるとき、この絶対、唯一、ただ神さまだけが持っておられる崇高性を受け止めなければなりません。それは私たち人間が踏み入ることの出来ない部分であって、それ故に神さまと呼ばれるお方なのです。このことをわきまえた上で、2つのことを考えてみたいと思います。

 第1に、先の2つに通じることですが、神さまが私たちに近づいて下さったことです。そこに、ご自分の絶対・崇高な存在を犠牲にしてまでも、私たちを優先してくださった神さまのご恩寵が感じられます。それは、ご自分が、ご自身が造られた人間にとっての神であると、徹底的に主張しておられることです。私たちを抜きにして、神さまは神さまであることを欲しておられないのです。ですから、私たちのために独り子イエスさまを十字架につけ、しかも現代に至るまで私たちのために働き、祈りを聞き、あらゆる恵みを行使していてくださるのです。その私たちへの熱い思いを思わなければ、神さまのことは知り得ないと覚えて頂きたいのです。その神さまの熱い思いを聖書から聞いてみましょう。


U 呼び給う神さま

 出エジプト記3章、モ−セが神さまからイスラエルの指導者として召し出された記事の、最初の部分です。ここにはいくつものメッセージがありますが、細かなことは省いて、中心と思われることを見ていきたいと思います。4節です。「神は柴の中から彼を呼び、『モ−セ、モ−セ』と仰せられた」とあります。神さまが彼を呼んだのです。神と人間が接触する現象は、いろいろな宗教にもある神体験と言えましょう。神が乗り移ったとは山岳宗教(シャーマニズム)の重要な特徴です。

 しかし、ここでのモ−セの神体験は、そのような神秘的神体験とは違っていました。モ−セが羊を放牧しながら神の山ホレブにやって来ますと、彼はそこに、燃えているのに焼けていない柴の木を見つけます。不思議に思って近づいていくと、神さまの声が聞こえてきます。「モ−セ、モ−セ」、「はい。ここにおります」、「ここに近づいてはならない。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である」 神さまが臨在するところだから、その地が聖なる場所であると言われたのでしょう。柴が燃えているとは、神さまの聖なることを現わしています。聖とは、清いことではなく、区別されているというもともとの意味であって、神さまが聖なる方であるとは、先に触れたように、唯一絶対の神さまであるという主張です。つまり神さまは他のどんなことからも束縛されない全く別の存在なのです。そんな、私たち人間とは根本的に異なるお方がモ−セに呼びかけられた。神さまのほうからモ−セに近づいて来られたとお分かり頂けるでしょう。

 宗教でいう神体験は、人間の側から神に呼び掛ける、修業を積んで神体験を求めることで、特別な感覚を持つシャ−マンというケースが多いわけですが、神を呼び出すことに変わりありません。つまり、人間から神に近づいて行く、神を引き寄せると考えてもいいかも知れません。しかし、聖書の主張は、神さまは人間から近づいていくことは出来ないお方、断じてそのような存在ではないのです。他の宗教で呼び出される神々とは異なる明確な一線を画していて、神さまが私たちに近づいてくださるのです。それは神さまの犠牲、あわれみ、恵みであって、神さまのその意志に人間はいささかも関わることはないのです。モ−セに呼びかけられたのは、神さまの恩寵であり、神さまがお選びになった選民イスラエルをエジプトの手から救い出そうとする恩寵でした。エジプトは人間の醜い部分、罪を象徴していると考えて良いでしょう。神さまは私たちを罪の奴隷から解放しようと、イエス・キリストとなって私たちに近づき、「あなたはわたしの恵みを信じるか」と呼びかけておられるのです。


V ひざまづいて神さまを

 2番目のことです。モーセは神さまの呼びかけに「はい。ここにおります」と答えました。信仰とは応答です。日本人の神さまに対する考え方は、神棚に祭って崇めるだけのもの、近づいて名前を呼んでくださる神さまを恐れ、どうか危害を加えずどこぞに鎮座ましましてと願うのは見当違いもはなはだしいのではないでしょうか。いかにも神さまを信じているようで、しかし、「私はあなたと関係を持ちたくありません」という態度に思えます。そのくせ困ったときには鐘や太鼓で、あたかも眠りこけている神さまを起こし、呼び出して自分の役に立てようとしている。これでは神さまは人間の召使い、そこに神さまの恵みや愛などかけらも存在しないでしょう。しかし、神さまは一方的な愛をもって、犠牲を払って私たちに近づいてくださいました。私たちの罪を赦そうとイエスさまが進んで十字架にかかり、いのちを投げ出してくださったのです。罪ある私たちが死ななければならなかったのに、身代わりとしてイエスさまが死んでくださった。これが神さまの犠牲です。その神さまの愛に応えていく誠実を私たちも示さなければなりません。モ−セへの呼びかけに、私たちへの愛が重なってくるではありませんか。

 ところで、モ−セが答えた応答のことばから2つのことが浮かんできます。「はい。ここにいます」とは実に含蓄ある応答でした。1つは、神さまの前に立っているという信仰の告白です。彼は神さまを認め、その神さまに向かって、「はい」という返事だけでなく、「ごらんの通り、私はあなたの前であなたのことばを待っています」という姿勢を明らかにしました。これは現代の私たちにとっても、神さまに向かう基本的な姿勢ではないでしょうか。神さまとの関係の第1は、神さまの語りかけを聞くことです。その聞く姿勢を、現代人はかなり失っている気がしてならないのです……。現代のさまざまな問題は、そこに深い根があると感じられてなりません。もう1つは、神さまへの応答として、モ−セは自分のいる場所をわきまえたということです。神さまを信じるとは、修道院のような「聖所」に入って、悟りを開いた超越人間になることではありません。神さまの前にひざまづきながら、自分の場所に立ち続け、そこで神さまが呼んでくださった理由、目的のために備えていくことです。「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それはあなたがたが行って実を結ぶためである」(ヨハネ15:16)と新約聖書にありますが、神さまが求められる「実を結ぶ者」となるように、そのような備えも含めての応答です。モ−セを呼んだ神さまが、私たちにも「わたしの役に立つ者となりなさい」と呼びかけていてくださるのです。その神さまに信仰をもって応えていきたいですね。