28/36回 <祈り>2

主の贖いの故に

旧約聖書 出エジプト記

 イスラエル人は労苦にうめき、わめいた。彼らの労役の叫びは神に届いた。神は彼らの嘆きを聞かれ、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。神はイスラエル人をご覧になった、神はみこころを留められた。(2:23−25)
主は仰せられた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている。」(3:7

新約聖書 ルカ 11:1−4

 イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終わると、弟子のひとりが、イエスに言った。「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」そこでイエスは彼らに言われた。「祈るときには、こう言いなさい。
 『父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。日ごとの糧を毎日お与えください。
私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します。
私たちを試みに会わせないでください。』」

T 魂の叫びを神さまに向かって

 祈りは神さまへの信頼に裏打ちされた神さまへの呼びかけであると、詩篇121篇の記者の、叫びやうめきにも似た思いの中から聞いてきました。そこには「神さま助けてください」という魂の飢え渇きが聞こえてくるような気がするのです。丁度このメッセ−ジの準備をしていた土曜日の夜、ある兄弟から電話がありました。「先生。仕事がなくなりました」と、これから先どうしたらいいのか分からないと、絶望した彼の声が胸に響きました。しばらく話した後、一緒に祈りました。祈り終わって、彼の声が幾分か明るく聞こえてホッとしましたが、それは仕事がなくなったというだけではない、いのちへの絶望のようなものが伝わってきたからです。彼の叫びが祈りになり、神さまの耳に届いていくように心から願います。出エジプト記2章に、エジプトに寄留して奴隷となった、イスラエルの労苦の叫びが神さまに届いたという記事があります。「イスラエル人は労苦にうめき、わめいた。彼らの労役の叫びは神に届いた。神は彼らの嘆きを聞かれ、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。神はイスラエル人をご覧になった、神はみこころを留められた」(2:23−24)  そして神さまは繰り返し言われます。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている」(3:7−9)

 このような祈りを聞きますと、現代の私たちの祈りが、何か底の浅いものに感じられてきます。私自身しばしば、ことばだけを並べて、神さまと向き合わないところで祈っている自分を感じています。そんな不完全燃焼のような祈りに不安を抱いているのは、私だけでしょうか。祈りばかりではない。生きていることに、叫びやうめきがないわけではないのに、叫びもしなければうめきもしない。悩みなどありませんといった顔をして自分をごまかして生きている、そんな私たちがいるのです。それは、イエスさまの祈りを聞いた弟子たちにも当てはまることではないでしょうか。今回、弟子たちが「私たちにも祈りを教えてください」と願い、イエスさまが「祈るときには、こう言いなさい」と教えられた、その祈りを聞いてみたいのです。


U 近くにおられる神さま

 ルカ11章、マタイ6章の主の祈りと似てはいますが、ルカの方がだいぶ後になってからのものと思われます。多分、イエスさまは、弟子たちにこの祈りを何回も教えられたのでしょう。「祈りはね……」と、イエスさまの気持ちが伝わって来るところです。

 弟子たちはどうして「祈りを教えてください」と願ったのでしょうか。イスラエルでは朝の祈り、昼の祈り、夕べの祈りと1日に3回神殿に向かって、或は神殿に行って祈る習慣がありました。使徒3章には、ペテロとヨハネが「午後3時の祈りの時間に宮に上って行った」とあります。弟子たちが祈りを知らなかったわけではありません。にもかかわらず、彼らは祈りを教えてくださいと願うのです。イエスさまの祈りを聞いて、自分たちの祈りがまだ本物でないと感じたからではないでしょうか。ルカの福音書は他のものに比べ、特にイエスさまがひとりで祈っていたという記事が多いのですが、彼はこのイエスさまの祈りに関心を向けていたのでしょう。弟子たちが「教えてください」と願ったその願いは、ルカの願いでもあったと思うのです。イエスさまは丁寧に教えられました。「父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。……」今回、この祈りの全てではありませんが、中心になる一つを見てゆきたいと思います。

 この祈りの冒頭にある「父よ」ということばからです。マタイの方は「天にいます私たちの父よ」ですので、「父よ」とはいかにも簡単で、単純明快な呼び掛けと感じますが、本当は「天にいます私たちの父よ」というところを、もう以前に教えたことだからと省略して「父よ」と簡単に済ませてしまったのかというと、どうも、そうではないようです。簡潔に言ったのは、それなりの理由があったからでしょう。

 父というのは神さまのこと。神さまはイスラエル人にとって、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」でしたから、私たち日本人とは違って、彼らにはずいぶん近い存在だったと思うのですが、意外とそうではなかったようです。天におられるとは、神さまがご自分の御国におられるということであって、それは、「聖なる聖なる聖なるお方」であると聞こえたことでしょう。どんなに彼らが神さまの選びの民であると自慢しても、彼らのいる場所は地上で、そこには醜い欲望、妬み、憎しみが渦巻いています。それに彼らは、始祖アダムが罪を犯したためにエデンの園(まさに神さまの御国だったでしょう)を追い出されたことを忘れることができません。彼らは、アダムよりなお一層神さまから遠く離れた者でした。ですから、神さまを「天にいます」と呼ぶことはあっても、「私たちの父」と呼び掛けることは、ずいぶん大胆なことだったと思われます。

 ところが、イエスさまの祈りを聞いて、イエスさまの呼びかけられる神さまが、本当に身近に感じられたのでしょう。それで弟子たちは、そのような祈りを私たちも覚えたいと願ったのだろうと思います。そんな彼らにイエスさまは、「天にいます私たちの父」よりもっともっと身近なお方として、「父よ」と呼び掛けることを教えられたのです。祈りを聞いてくださる神さまは、私たちのすぐそばにいてくださる、本当に身近なお方であると、弟子たちとともに覚えていきたいですね。


V 主の贖いの故に

 しかし、実際のところ、私たちと神さまの距離は遠く遠く離れています。その神さまが私たちの祈りを聞いてくださると、それだけでも驚くべきことなのに、神さまはその私たちの祈りを、じっと耳を澄ませて聞いておられるというのです。なんと素晴らしい恵みではありませんか。祈りは、その神さまの恵みに信頼するところから始まるのです。弟子たちに、「父よ」との呼び掛けを教えられたことも、その神さまの恵みを覚えながら言われたことであって、ここに、イエスさまが弟子たちに教えようとされた何よりも大切なことがひそんでいると思うのです。

 ルカ11章は、ガリラヤ地方を離れ、エルサレムに向かう途中の出来事のようですが、もう十字架の時期が迫っています。弟子たちへの教えは19章まで続くのですが、そのことごとくが弟子たちへの愛情に満ちているようです。祈りについても、すぐ近くに居て私たちを守り、聞いてくださる、恵み溢れる神さまへの祈りだと教えられるのですが、実は、その神さまの恵みこそ、イエスさまの十字架を通して現わされたことなのです。十字架の恵みということをもう一度聞いておきたいのです。罪を犯した者は死ななければならないと、これが、アダム以来の人間の宿命でした。しかもなお私たちは、魂の憩いのために修業による善行を重ねようと、又、哲学やいろいろな宗教に救いを求めています。死の根本原因である罪を、過去にさかのぼって消してしまいたいと願うのですが、どうにもならないのです。イスラエルの人たちは、神さまの戒めを守ることで罪から離れ、神さまに近づくことができると教えられましたが、どうしてもそれを守ることができないのです。そこで神さまは、ご自分から私たち人間に近づいて来られ、ご自分が十字架にかかるという身代わりの犠牲を払うことで、私たちへの愛を示されたのです。神さまの恵みは、イエスさまの十字架という出来事に凝縮されているのです。ルカはギリシャ語を使う海外移住のユダヤ人でしたから、カナン在住のヘブル語を使うユダヤ人よりも神さまから遠く、それだけもっと神さまの恵みに頼らなければならないと感じていたのでしょう。私たち日本人は、そういう意味で、ルカよりもっと神さまから遠い存在ではないでしょうか。しかし、イエスさまが十字架にかかってくださいましたから、私たちは、遠く離れた神さまに向かって、「父よ」と祈ることが出来ますし、「私の父よ」と愛を込めて祈り、その祈りが聞かれたことを実感することができるのです。祈りとはまさに、イエスさまの十字架の赦しを、私のためであると信じ、その主に信頼するところから始まるのだと覚えたいですね。