27/36回 <祈り>1

主への信頼を

旧約聖書 詩篇 121:1−8

 私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。私の助けは、天地を造られた主から来る。主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない。見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。
 主はあなたを守る方。主はあなたの右の手をおおう陰。昼も日があなたを打つことがなく、夜も月があなたを打つことはない。主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。主は、あなたの、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。

新約聖書 エペソ 3:14−19

 私はひざをかかめて、天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります。どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力をもつようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。

T 主への祈りを

 祈りは、「魂の叫び」といったメンタルな部分からにじみ出てくるものとして、格別説明など必要ないでしょうが、それまでにもイスラエル人として祈ることが多かった弟子たちが、イエスさまに「祈ることを教えてください」と願い出ました。ここに、イエスさまを信じる信仰ではっきりさせておかなければならないことがありますので、私たちの祈りを育てていくという意味で、しばらく祈りについて考えていきたいと思います。これは、祈りの理解の問題であり、ここから具体的にどう祈ったらいいかを学んでいきたいのです。祈りは知識ではなく、自分で祈って納得するものですから、祈りとは何か、祈りの対象は? などと取り上げるのはどうかと思いますが、「祈りの学び」として聞いて頂き、そこからイエスさまへの信仰に思いを馳せていただけたらと願います。祈りは、イエスさまの福音の中で理解し、育てていくものだからです。


U 我が助けはどこから

 祈りのことは、旧・新約聖書にいづれもたくさん記されていますが、今回は私の好きな詩篇 121篇を取り上げました。ここから、旧約時代のイスラエルの祈り心といったものを見ていきたいのです。この詩篇には「都上りの歌」と表題がついていますが、それは、国が滅び、国外居住をやむなくされたバビロン捕囚時代のユダヤ人たちが、祖国・エルサレムの神殿に詣でることを夢見て歌ったところからつけられたもののようです。私がエルサレムを旅行した時にも、エルサレムの、ソロモンが建てた神殿の西壁、巾50m高さ18mの「嘆きの壁」の前で、たくさんのユダヤ人が涙を流しながら祈っていました。聞いていますと、エルサレムが滅亡したことを嘆き、その回復が早く神さまから来るようにという祈りなんですね。それは、まさにこの詩篇の祈りだと思うのですが、現代、イスラエル共和国が誕生して50年にもなるのに、彼らは未だに涙を流しながらそのような祈りを続けているのです。エルサレムの神殿域がアラブ領土だからでしょうか。

 私は山に向かって目を上げる、とこの詩篇は始まります。山とはエルサレムの東にある山々(オリーブ山方面)のことで、それはエルサレムを守る自然要塞になっています。しかし、エルサレムは何度もその山を越えた外国軍隊からの侵略の危機に合い、実際、アッシリヤの軍隊はエルサレムを包囲し(西方からですが)、バビロンの軍隊はついにエルサレムを陥してしまいました。この詩篇の記者が遠いバビロンの地で神さまのことを思い、あのエルサレムの美しい神殿に詣でて、思いっきり神さまを礼拝することが出来たらどんなにいいだろうと恋いこがれているのです。あの山を越えて敵がやってきたことを彼は忘れていないのです。ああ、あれが敵ではなく神さまの助けだったら良かったのに。いや私の助けは必ず神さまから来る。「私の助けは、どこからくるのであろうか。私の助けは、天地を造られた主から来る」と彼は歌います。彼が実際にエルサレム神殿に詣でる巡礼者であったかどうかは分かりませんが、たとえバビロンにいて心だけがエルサレムに飛んでいたとしても、彼の思いの中には、神さまを礼拝し、神さまとともに過ごしたあのエルサレムで、すぐそばに見上げた山々に目を向けて祈った信仰者の姿がありました。彼が見ているものは山ではなく、主の助けなのです。この詩篇は間違いなく祈りの詩篇と言うことができましょう。

 この詩篇を読むと、決まってある姉妹のことを思い出します。40年近くも昔のことですが、九州・宮崎の結核療養所に10年も入院していた若い姉妹がいました。毎週、日曜日の礼拝を終えてから、何人かのグループで病院や老人ホームを訪問していたのですが、訪ねていくと、この詩篇を読んでくださいとせがまれます。この詩篇が大好きな方でした。20才そこそこで天に召されたのですが、ベッドの上でよく祈り、その祈りの中から神さまの慰めを頂いていたからでしょう。自分が短いいのちだというのに、いつも自分のことよりもあの人、この人のことを思い、心配したり、喜んだりしていました。教会からの訪問をいつでも嬉しそうに歓迎してくれて、一緒に祈る中で私たちが励まされ、慰められたものです。「私は寝ぼすけだからよく眠るの。だけど私が眠っているときも、神さまは眠らないで私を守ってくださるというのは本当にすごいことだと思うわ」と言っていたことを思い出します。結核の重症患者でしたから、どんなに寒いときでも窓を開け放しているのですが、その窓際のベッドから、いつも近くの山を見ていました。この詩篇を思い、彼女の魂は神さまの御国である天のエルサレムを目指す巡礼者だったと思い出します。祈りが彼女の力だったのでしょう。エルサレムの山々を思い浮かべながら神さまの救いを思った詩篇の記者のように。祈りは、その姉妹の、詩篇の記者の、魂の叫びだったのです。私たちも、そんな祈りの中で神さまとともに歩む者でありたいと願わされます。


V 主への信頼を

 この詩篇の後半には、記者が恋慕う神さまの様子が描かれています。「あなたを」というのはきっと自分のこと。彼は遠い異国バビロンにあってずいぶんと苦しい悲しい経験をしたのでしょう。バビロンのどこか分かりませんが、今のイラク・イランの辺り、北の高原地帯ではと思うのですが……。砂漠が広がって、美しいイスラエルとは何から何まで違っていました。バビロン捕囚からエルサレムの神殿の再建までは約70年ですから、彼はバビロン移住の1世である可能性が高いのですが、それだけに一層神さまへの思いが強かったのでしょう。彼らがイスラエルの国を思う思いは、神さまへの思いと堅く結びついているのです。NHKの素人のど自慢でブラジルからの放送を見ました。日本語を全く知らない3世、4世もいましたが、彼らは日本の歌を心から、誇りを持って歌っていたようです。聞いている人たちが涙を流して……、祖国を離れたイスラエル人たちの思いが伝わってくるようでした。イスラエルに旅行したときのことを思い出します。テル・アビブの空港に飛行機が着陸したとたん、機内にいたのはほとんどユダヤ人だったようですが、歓声と大きな拍手が起こったことが忘れられません。

 主は、あなたを守る方。
 主は、あなたの右の手をおおう陰。
 昼も、日が、あなたを打つことがなく、夜も、月が、あなたを打つことはない。
 主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。
 主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。

 神さまがこのようなお方であることを、詩篇の記者はバビロン捕囚の期間に経験したのでしょう。それは神さまへの限りない信頼となって、彼の内面に積み重ねられていたものと思われます。彼の祈りはもはや、「あれをしてください」、「これをお願いします」ではなく、神さまは彼のすべてを、心の中まで見通し、知っておられるのです。砂漠地帯で日中の熱さは想像を超え、夜の寒さも尋常ではないのです。日本のような穏やかな気候の国では分からないのでしょう。しかも、エルサレムの気候は意外と日本に近いのです。その彼が「昼は日、汝を打つことなく、夜は月、汝を打つことなし」と言ったのは如何にも実感がこもって聞こえてきます。「行くにも帰るにも」とあります。彼はエルサレム帰還を夢見ていたのですが、もしかしたら、叶わないかも知れないと感じていました。しかし、それでも彼は神さまへの信頼を失いませんでした。祈りは第1に、神さまへの信頼に裏打ちされた神さまへの呼びかけであると覚えて、その神さまの広さ、長さ、高さ、深さに思いを駆せたいと願います。