25/36回 <教会>3

天国への鍵を

旧約聖書 ミカ  4:1−2

 終わりの日に、主の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、国々の民はそこに流れて来る。多くの異邦の民が来て言う。「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。」

新約聖書 マタイ 16:18

 では、わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。
T 愛の溢れるところとして

 <教会>の3回目ですが、1回目と2回目を少し繰り返しておきましょう。第1に、現代は聖霊なる神さまが働いておられる時代であり、その時代を聖書は特別に「教会の時代」と意識しています。それは教会が、その誕生から現代に至るまで、イエスさまの十字架とよみがえりを救いの出来事として証言し続け、神さまの力・聖霊なる神さまがこの教会を支えてくださったからです。聖霊なる神さまは、教会を中心に働いておられ、現代、私たちがイエスさまを信じているのは、その証言を守り通した教会あってのことなのです。イエスさまは、イエスさまを信じる信仰への導きを教会に委ねられたのです。そして第2に、教会はイエスさまを信じた者たちの交わりの場所であるということです。それは、地域に建てられた教会を意味しています。私たちはその教会で神さまに祈り、賛美し、みことばを聞き、神さまからの恵みを頂くのです。その恵みを私たちは、イエスさまが私たちを愛して十字架に死んでくださった、だから、「あなたがたも互いに愛し合いなさい」と聞いてゆくのです。教会を支配するものは愛でなければなりません。その愛は自然に生まれるものではなく、イエスさまを信じた者たちが時間をかけながら築いてゆく、自分よりも先に人を思いやり、そして、徹底的に赦していく……、愛とはそのように意思的なものであり、私たちの信仰から生まれる実であると覚えたいのです。教会は、イエスさまがそうであったように、愛することを求めながら築き上げていく愛の場所であり、それは、教会の外にいる人たちに対しても示されていくものでしょう。


U この岩の上にわたしの教会を

 そして、もう一つ大切なことを見ていきたいと思います。イエスさまの教会ということです。
 マタイ16:13−20からですが、ここはイエスさまがガリラヤを離れて十字架への道を歩み始めた第1歩と考えられています。その頃、多くの弟子たちが、いつまでもメシヤとして剣を取らないイエスさまに失望し、群衆ともに離れて行きました。パリサイ人、祭司、長老たち、反対者たちの画策が功を奏したのかも知れません。時が近づいたと感じられたのでしょうか、12弟子と他にほんのわずかな弟子たちを連れて、イエスさまはガリラヤを離れます。それはエルサレムへの道であり、十字架への道でしたが、どうしたわけかイエスさまは、最初にイスラエル北端に近いピリポ・カイザリヤへの道をたどります。十字架の出来事はそれから半年以上も経ってからですが、その期間をイエスさまは弟子たちの訓練に費したようです。福音を弟子たちに委ねるためだったのでしょう。ピリポ・カイザリヤへの道はその発端でした。ここで彼ら弟子たちの、新約聖書中極めて重要な信仰告白があります。「人々はわたしのことをだれだと言っていますか」、「バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もあります。またほかの人たちはエレミヤだとか、また預言者のひとりだとも言っています」、「(それでは)あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」、「あなたは生ける神の御子キリストです」 ピリポ・カイザリヤは古くからギリシャの牧羊神パンの神殿があってパニアスと呼ばれていました。ここにテラコニテの領主ピリポが皇帝崇拝のための神殿を建て、名前を改めたのですが、パンといい、皇帝崇拝といい、この町は異教の神々を崇めるメッカのようなところでした。そこで、「あなたこそ生けるまことの神の御子キリストです」という信仰告白がなされたのは、これからの弟子たちの働きを考えると、非常に重要なことだったのでしょう。この信仰告白をした弟子たちだったから、イエスさまは福音を委ねようとされたのかも知れません。

 「この岩の上にわたしの教会を建てる」と言われます。岩とはペトラ、これがペテロであろうとされ、ローマ教会では、ペテロの後継者として教皇がその土台であると考えますが、福音主義信仰は、ペトラと女性形が用いられているところから、これはペテロが代表して言った信仰告白を指していると理解しています。もっと突き詰めて言うなら、その信仰告白をお受けになったイエスさまこそまことの岩、教会の土台であると言った方がいいでしょう。教会は唯一イエスさまだけが満ち満ちているところ、イエス・キリストの教会なのです。間違っても「何々牧師の教会」などと、人の名前で呼ばれるようなことがあってはなりません。


V 天国への鍵を

 ところで、いろいろな方から「教派って何ですか?」と質問されます。教派は一つの信条や規則を共有する教会の群れのことですが、キリスト教会も2千年の歴史を持ちますと、日本だけでも140以上も数えるほど、その数も半端ではありません。聖書解釈の違いや育った文化の違いなどからたくさんの分派が生まれ、違う宗教のように互いに警戒し、過去多くの争いを起こして来ました。キリスト教嫌いの人たちの中には、結構これを障害と感じている方が多いようです。しかし、イエスさまがいくつもの違う教えを教えられたのではなく、教派は人間の問題です。人間の問題とするなら、キリスト教も仏教も他の宗教も大差ありません。人間は争いを好むのです。そして、それが宗教がらみになると、憎しみも一層膨れ上がるということでしょうか。「真理は我にあり」と正義感が引くことを嫌うのかも知れません。しかし、イエスさまが「わたしの教会」といわれるのはただひとつ、世界中のあらゆる教会を組み入れた一つの教会があるだけです。

 教会がイエスさまの教会として立ち続けていくために、イエスさまの証人として十字架とよみがえりの信仰をしっかり継承し、それを次代に伝えようとしているか、更に、愛ある場所として立とうとしているかが問われています。他にも考えなければならないことがあるでしょうが、教会がイエスさまの教会であるという中に、「天国への鍵」が託されていることも忘れてはなりません。イエスさまは「わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天において解かれています」(19)と言われました。つなぐとは神さまの禁止事項、解くとは神さまの許可事項を言うことばですが、そこからこれは、神さまから与えられた教会の権威であるとされてきました。教会が権威のために建てられたのかというと、それはちょっと問題ですが、現実に、教会は権威をかさに人を裁き、迫害し、処刑してきた歴史を持っています。歴史ばかりではなく、現在の教会にも、愛し合うより裁き合うことのほうが多いのではと思われるほどの問題が見えていることも事実です。人間の弱さがそうさせているのですが、イエスさまが十字架の赦しに招かれたのは、愛を覚えるためであって、裁き合うためではありません。教会は、イエスさまの愛が満ちているから、天国への鍵を持つことが出来るのです。しかし、愛あるところにも問題はなくならないでしょう。禁止したり許可したりと、教会自身が試行錯誤を繰り返しながら、これまで天国に続く愛と赦しの道を歩み続けて来ましたし、これからもその道を歩んで行くのでしょう。そのように天国への道として建てられたのが教会だからです。ご一緒に天国への鍵を捜し、育てていく者となろうではありませんか。