24/36回 <教会>2

ひとつの交わりに

旧約聖書 エレミヤ 31:31−33

 見よ。その日が来る。主の御告げ。その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。主の御告げ。彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。主の御告げ。わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる

新約聖書 エペソ  1:22−2

 また神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす力の満ち満ちおられるところです。

T 愛あるところとして

 前回、教会が最初にエルサレムに誕生したときのことを使徒2章から見ましたが、「彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた」(2:42)とあり、教会は、イエスさまを信じた者たちの、愛の交わりとして出来上がったと理解しました。前回も読んだヨハネ13:34にこうあります。「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」 これは、十字架直前のイエスさまが弟子たちに語られたものです。新しい戒めとは、十字架を言っているのでしょう。イエスさまが十字架に罪の身代わりとなったほど私たちを愛してくださったのだから、「あなたがたも互いに愛し合いなさい」と教えられたのです。その新しい戒めを、弟子たちはどこで実践しようとしたのでしょうか。勿論それは、弟子たちの人間性の中に問われるものですが、その人間性は、福音を委ねようとしている弟子たちの群れ、教会の中で育てていくものであり、それが愛の交わりだと言っているようです。

 キリスト教は愛の宗教であると誰もがそう思っています。キリスト教と言いましたが、教会と言って良いでしょう。キリスト教は教会なのです。そして、「教会は愛あるところ」なのです。しかし、愛のない自分が分かるだけに、「本当にそうだろうか」と言ってしまいたいのですが、イエスさまの十字架を考えると、本当にその通りだと思うのです。信じることを「愛すること」と置き換えることができるほど、イエスさまは私たちを愛してくださいました。また、自分を犠牲に愛を貫いた先輩方もたくさんおられるのです。事実、この2千年の歴史の中で、多くの教会が愛を実践し、教会は愛あるところと証言してきました。その意味で、イエスさまを信じる信仰は愛の宗教であると言っていいでしょう。私たちの教会も、愛あるところになっていきたいと願います。その「愛あるところ」を、もう一歩進んで考えてみたいのです。


U 十字架に裏打ちされた愛の場所として

 新しい戒めと聞きました。新しいというからには古い戒めもある。そこから始めましょう。 教会を、イエスさまを信じた者たちの群れと考えると、群れとしての古い形はイスラエル民族を指し、古い戒めは彼らが重んじた律法を指すものと思われます。今回の聖書エレミヤ31:33に、「彼らの時代に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。・・主の御告げ。・・わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」から考えてみましょう。イスラエルはずっとその律法にこだわって、それを守り、行なうことに挑戦し、そして、失敗しました。だからでしょうか。彼らは、守るべき律法の、解釈という抜け穴探しに奔走するのです。たとえば、十戒の中に「あなたの父と母を敬え」(出エジプト20:12)とあります。しかし、「これはコルバン(神さまへの供え物)です」と言えば、年老いた父母のためにその用意したものも差し出さなくてもよいと、イエスさまより少し前の時代に、パリサイ派の人たちが協議して決めました。解釈という抜け道の典型的なものでしょう。しかしそれは、どんなに取り繕おうと律法違反であり、他の人がどう言おうと、自分自身に対して「これは神さまへの罪である」と感じているのです。だから彼らにとって、神さまは罪を裁く怖いお方であり、近づくことの断じて叶わぬお方だったのでしょう。

 「古い」とは、そこに神さまのあわれみ、愛、恵みが忘れられていたということでしょう。彼らイスラエルは、神さまの愛をいっぱいに受けて誕生した民族だった筈です。それなのに、神さまに近づこうとして神さまではなく、文字としての律法を見て、そこに生じた自分たちの罪しか見えなくなってしまったのです。しかし、神さまは愛の、あわれみの、恵みの神さまですから、私たちが弱っているときに励まし、苦しんでいるときに案じ、夜も眠らず私たちを守り、祈りを聞いて、必要なものを与えてくださるお方です。そんな神さまが、その愛をただ一点に凝縮して現してくださったのがイエスさまの十字架です。十字架という神さまご自身の犠牲の愛こそ、ここに言われる新しい戒めなのです。その新しい戒めを与えられた教会は、単なる信じた者たちが集まっている場所や建物ではなく、イエスさまの十字架の愛によってこの世から贖い出された神さまの民であると言っていいでしょう。そこにある愛は、イエスさまの愛でなければなりません。この愛を忘れると、ただ仲良くしていることが愛であると感違いしてしまうことになるでしょう。もちろん愛には仲良しというところもあるでしょうが、そこにもうひとつ、教会でなければならない愛の姿が問われていると気付いてほしいのです。教会は、イエスさまの十字架に裏打ちされた愛の場所であると、徹底的に覚える必要がありそうです。


V ひとつの交わりに

 教会は愛の場所、もう一歩突っ込んで、エペソ1章23節です。「教会はキリストのからだであり……」とあります。からだとは有機的結合体で、小指が怪我をしても全身が痛みます。クリスチャンの交わりは、しばしば信仰共同体と呼ばれ、同じ信仰の兄弟姉妹だから、その喜びも悲しみも痛みも自分のもののように感じ、誰かが傷つくと、自分のからだが傷ついたように痛むのです。教会とは、そのように兄弟姉妹が一つ思いになっていくところです。

 しかも、このエペソ1:23の「からだ」は単数です。ひとつのからだ、イエスさまを頭(かしら)とするひとつのからだ、それが教会であると言われるのです。教会は世界中に何百万、何十万とあります。クリスチャン人口は20億と言われていますが、時間を超えるとどれくらいになるのでしょうか。それが「ひとつ」と言われるのです。そこには争いの元凶のように言われる教派や教団も影をひそめてしまうでしょう。教派や教団は人間のものでしかありませんが、イエスさまはただおひとりです。そのイエスさまが、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と言われました。イエスさまを信じる信仰の告白の上に教会が建てられるのです。その信仰は、イエスさまの十字架の愛に結びついていなければなりません。イエスさまを救い主と信じたとき、私たちはどんなに身勝手な、罪ある、愛なき者であったことでしょう。それでも十字架の愛に生かされ、その愛に生きる者と呼ばれるようになりました。イスラエルを旅行したとき、園の墓と呼ばれるところで旅行中のアメリカ青年といっしょに聖書を読み、祈ったことがあります。また、イギリスから来た方とも親しくなりました。韓国、中国、ロシヤ、そしてイスラエルの人たちやどこの国か分からない人とも、イエスさまを信じているというだけで親しくなり、ことばが通じないことなど全く弊害となりませんでした。一つの交わりにつながっているとはそのようなことでしょう。イエスさまを信じる信仰の愛のすばらしいところは、人間的な規制や限界を簡単に超えてしまうということです。「互いに愛し合いなさい」と懸命に思い出さなくても、同じ信仰者であるというだけで、本物の兄弟か姉妹のように仲良くなれるのです。

 私たちの教会が本当に愛の群れであるか、愛の実践の場所であるかが問われているようです。本当にイエスさまの十字架の愛に生かされているか、自分自身に問いかけていく必要がありそうですね。その愛はイエスさまの十字架から流れ出て、すべての聖徒たちをひとつに結びつけ、御国の交わりに加えてくださるものだからです。