23/36回 <教会>1

教会の誕生

旧約聖書 イザヤ 61:1−3

 神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油を注ぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現わす主の植木と呼ばれる。

新約聖書 使徒  2:1−4

 五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。

T 福音ということは

 福音の全容をお伝えしたいといろいろお話してきましたが、イエスさまをどのように信じるかが明らかになるために、この辺で少し振り返ってみましょう。@神さま、A人間・罪、B聖書、Cイエス・キリスト、D聖霊なる神さま、E信仰。そして7番目に、今回から取り上げていく教会です。

 私たち人間は、神さまに創造されたというのが最初の出発でした。ですから、神さまは人間より先に存在されたのであり、「神は存在するか否か」と私たちからの議論は、思い上がりもはなはだしいと言えるでしょう。その思い上がりこそ、神さまをないがしろにする罪であって、そこから欲望、高慢、憎しみなど、重大な問題が浮上してくるのです。しかし、神さまはそんな私たち人間を惜しみ、愛し、離れてしまったパラダイスに呼び戻そうと、犠牲を踏まえた救いを計画されました。イエスさまの十字架です。それは、全く神さまの一方的なあわれみと恵みによる救いのご計画でした。そして、イエスさまが十字架に死んでよみがえられて後も、それが神さまからの救いの招きであると信じることの出来ない私たちのために、神さま自ら私たちのところに来て、私たちの奥深くに内住し、「イエスさまを信じる信仰」に導こうとされたのです。現代はその神さまが聖霊としてお働きになっておられる時代であると覚えたいですね。「万物の霊長」などと思い上がって、神さまのことを忘れ、人間こそ第1とうそぶいている現代ですが、第1の方は神さまであると謙遜になることから、愛のある、善なる、誠実な者になってゆくことができるのです。そうしてはじめて、現代が陥っているさまざまなひずみ、歪みを矯正していくことができるのではないでしょうか。

 さて、その聖霊なる神さまがお働きになっておられる時代に私たちは生きています。聖書は特別にその時代を「教会の時代」と意識していますが、それは、イエスさまが天に帰られた直後から始まりました。現代はそれから2千年も経っているのですが、それでも、なお聖霊がお働きになっている教会の時代という点では、弟子たちと同じ状況であると言えるでしょう。聖書のことばが2千年を経て、今なお新しいのはそのためです。その教会の時代、教会誕生から今回のみことばを聞いていきたいと思います。


U 教会の誕生

 教会の誕生の記事は使徒1〜2章にあります。特に2章のペンテコステ(五旬節)の日に起こった不思議な出来事から、エルサレム最初のキリスト教会が誕生しました。

 五旬節はギリシャ語で50を意味するペンテコステと呼ばれ、日本ではほとんど知られていないのですが、クリスマスやイ−スタ−と並んで教会の3大祭に数えられています。もともとユダヤ人の祭りのひとつでしたが、50とはユダヤ最大の祭りで、イエスさまが十字架にかかられた過越の祭り、イエスさまがよみがえられてから、それはちょうど、50日目でもありました。よみがえりのイエスさまが天に帰られるとき、弟子たちに言われました。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい」(使徒1:4) 弟子たちはエルサレムの、多分、最後の晩餐をしたあの部屋で「みな心を合わせ、祈りに専念して」(1:14)、イエスさまとの約束を待っていました。そしてペンテコステの日を迎えます。彼らはこの時、イエスさまが彼らのところから居なくなるなどとは考えもしませんでした。十字架に死なれたときには絶望するのですが、よみがえりのイエスさまにお会いして、今度こそ、ずっとイエスさまと一緒に居ることができると思ったのでしょう。それがわずか40日で、またイエスさまと別れることになりますが、イエスさまの約束を信じて待ちはじめました。

 五旬節の日になって、みながひとつところに集まっていたとき、「突然激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった」(2:2)とあります。全員が聖霊に満たされました。これがどのようなことだったのか、現在の私たちには想像する以外にありませんが、聖霊とは神さまのご人格のひとつです。今、聖霊なる神さまが私たちに内住してくださると聞いていますが、現象として、それとは少し違っていたでしょう。この不思議は神さまの特別な出来事であって、その時の弟子たちだけが体験したものです。うまく説明出来ませんが、一つのことだけ、それは「風」なのです。その風はアダムの鼻から吹き込まれた神さまの息(創世記2:7)のことです。イエスさまの新しいいのちの息が、待ち続けていた弟子たちに吹き込まれたと理解していいのではないかと思います。

 教会の誕生は、イエスさまの新しいいのちを頂いて、弟子たちが生き生きと主の十字架とよみがえりの証人として立ち上がった出来事です。そして、その教会に連なった私たちもまた聖霊の助けを頂きながら、弟子たちと同じように、生き生きと主の証人になっていく者とされたのです。


V 愛の交わりを

 ペンテコステのときの面白いエピソ−ドですが、聖霊に満たされた弟子たちが他国のことばを話し出すと、大勢の人たちが集まって驚いて言います。「どうでしょう。いま話しているこの人たちはみなガリラヤの人ではありませんか」 田舎の無学な者が外国語などを話せるわけがない。それで人々は、「彼らは甘いぶどう酒に酔っているのだ」(2:12)と、これが神さまの不思議であると認めないままに、合理的な説明をつけて自分たちを納得させようとします。私たちはこれを笑うことができるでしょうか。現代の私たちも又、同じことをしているのではないでしょうか。他のことでは人の話しを聞くことが出来る人も、こと神さまのことになると、ただ自分がどう思うかだけで判断し、「神さまなど存在しない」、「教会に行ってもいいが、のめり込んではだめ」などと言ってしまうのです。

 誤解を解こうとペテロが立ち上がり、「ユダヤの人々、ならびにエルサレムに住むすべての人々。あなたがたに知っていただきたいことがあります。どうか私のことばに耳を貸してください」と、彼はこの使徒行伝で始めてイエスさまの証人として立ちました。イエスさまが、あなたがた不法な手で十字架につけられたこと、しかし、神さまがその方を死の苦しみから解き放ってよみがえらせたこと、罪を悔い改めるべきこと、そして、それぞれ罪を赦して頂くためにイエス・キリストの名によってバプテスマを受けるようにと勧めたのです。バプテスマとは信じて受ける洗礼のことです。41節には「そこで彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、3千人ほどが弟子に加えられた」とあります。教会の誕生でした。

 教会になった弟子たち最初の群れは、「使徒たちの教えを守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた」(2:42)と、教会生活を始めました。ここで「交わり」ということを覚えて頂きたいのですが、宗教改革の頃、ロ−マ・カトリック教会からもプロテスタント教会からも迫害された群れに、フリ−・チャ−チというのがありました。当時、教会というと各国の公認となった国教会を指していましたが、異端視されながらも「交わり」と呼ばれたほど、信仰には愛の暖かさが大切と考えた群れです。初代の教会が一時期、信仰共同体と呼ばれたほど、兄弟姉妹との交わりを大切にしたことを記憶にとめておきたいのです。交わりの中心は愛です。ヨハネ13:34にも、詩篇133:1−3にも愛の交わりが勧められています。教会の中心がイエスさまの十字架の愛であったことを覚え、私たちもまた互いに愛する交わりを造り上げていきたいと願います。