22/36回 <信仰>3

イエスさまの愛が

旧約聖書 申命記 10:12−13

 イスラエルよ。今、あなたの神、主が、あなたに求めておられることは何か。それは、ただ、あなたの神、主を恐れ、主のすべての道に歩み、主を愛し、心を尽くし、精神を尽くしてあなたの神、主に仕え、あなたのしあわせのために、私が、きょう、あなたに命じる主の命令と主のおきてとを守ることである。

新約聖書 Tヨハネ 4:15−16

 私たちは、御父が御子を世の救い主として遣わされたのを見て、今そのあかしをしています。だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。

T 信仰と愛と

 イエスさまを信じる信仰のことを見てきましたが、どうしても伝えておかなければならないもうひとつのことがあります。それは<信仰と愛>です。

 若い頃、クリスチャンだということで、「ア−メン、ソ−メン、冷やソ−メン」とよく冷やかされたものです。そのころ「ア−メン」は、誰かが祈った後に、「私も同じように祈ります」という思いを込めて祈りの相槌をするということしか知りませんでしたが、とにかく、一生懸命説明したことを思い出します。それはともかく、「クリスチャンとア−メン」は、クリスチャン以外の人からもそう指摘されるほど、密接な関係があります。

 ア−メンとは「その通りです」という意味ですが、他に<立つ>とか<真実>と同じ語源を持ち、同じ内容を含んでいます。ですから「その通りです」とは、真実に踏まえて同意する意志であるとはっきりするでしょう。祈りにおける真実は、神さまに向かって「本当にそう祈ります」と、私たちの真心を表明することですが、祈りを聞いてくださるのは真実な神さまですから、私たちが真実を持って神さま前に立っているかどうかが問われているのです。そしてもう一つ、「立つ」ということですが、紀元前700年頃に、シリヤ・エフライム戦争のとき、予言者イザヤがイスラエルの王アハズに言いました。「もしあなたが信じないならば、立つことはできない」(イザヤ7:9) イスラエルには何ものよりもまず信仰が問われていました。神さまの前に「立つ」信仰が彼らの生きる道であり、彼らの生き方そのものでした。このように見てきますと、立つことも真実なことも、私たちのすべてが問われていることであり、それが信仰なのです。そして、その生き方としての信仰に、愛ある生き方が問われているのです。


U あなたを愛してます

 今年の標語聖句、「神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます」(ヨハネ第1の手紙4:16)を思い浮かべます。神さまが愛であるとは、罪の真っ直中にある私たちのために、神さまご自身がともに苦しみ、イエスさまの十字架となって、慰めと救いをくださったということです。これが神さまの愛でした。イエスさまの十字架は神さまの一部分ではなく、全ご人格が注ぎ込まれた出来事であり、私たちの罪を赦そうと、神さまの徹底的な自己犠牲であったと覚えて頂きたいのです。その神さまの愛を見つめたヨハネは、「愛の使徒」と呼ばれるほど、愛と格闘し、その思いを煮詰めた人でした。ですからヨハネ第一の手紙は、愛の人ヨハネの思いが溢れていると言えましょう。紀元90何年か、非常に遅く書かれた手紙ですが、そのころ、教会は異端と迫害の苦難の時代に入っており、兄弟姉妹の中にもぎすぎすしたものが生じかねない状況だったと思われます。愛の信仰に立ち帰ることが急務だったのです。

 今回のテキストの少し前にこうあります。「愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。ここに神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです」(4:7−)「神は愛です。……」は、この続きとして言われているのです。イエスさまの十字架こそ神さまの愛の現れだったと覚えなければ、「神さまが愛である」と理解することは出来ないでしょう。そしてもう一つ、私たちが互いに愛し合い、愛することを覚えなければ、「神さまの愛」は決して分からないということも……。神さまが愛であることを知らなければ、愛することも、そして、イエスさまのことも分からないままになってしまうのではないでしょうか。

 神さまに対するものが信仰であると、どなたもそう思っているし、他の宗教でも同じでしょう。しかしヨハネは、そこに愛ということばを当てはめるのです。15節には「だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます」とあり、16節になると「愛のうちにいる者は……」となります。信仰と愛とはヨハネの中で切り離すことのできないものだったのでしょう。最近、神さまを信じているということが、私の中にどれほどの実体を持っているかとつくづくと考えさせられるのですが、この信仰ということばを、「あなたを愛してます」に置き換えるとはっきりするのではないでしょうか。イエスさまのそばに早く行きたいし、イエスさまの声を聞きたい。イエスさまのそばでそのお顔を拝することができるなら最高です。愛するとは具体的にそういうことなのでしょう。いつも恋人のそばにいたいのと同じです。そんなふうに愛するという信仰を覚えたいと思います。


V イエスさまの愛が

 もう少し信仰と愛のことに踏み込んでみましょう。申命記からですが、イスラエルがエジプトを脱出してようやく約束の地カナンに入ろうとするとき、指導者モ−セが、その地を目前に、神さまに召されようとします。エジプトを出て40年、彼は神さまとともに歩んだ信仰の人でした。きっと神さまは、彼に安息を与えようとしておられたのでしょう。イスラエルはここカナンの地に彼らの国を打ち建てようとしていますが、今、モ−セは、彼らに覚えてもらわねばなぬことを伝える必要を感じているのです。全イスラエルを集めて最後の教えを語ろうとする、その説教集が申命記です。その中心ともいうべき6章 4−5節、「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」 「心を尽くして……」とは、私たちの信仰であると聞きました。申命記にこれが9回も出て来ますが、それが誠実であり、忠実であることなのです。そのように信仰は、生活に根付いたものでなければならないと聞いたのです。

 しかし、もう一つの肝心なことが残っています。「愛する」ということです。神さまのことばを聞くことから信仰が始まるとして、心を尽くすことも誠実なことも忠実なことも確かに重要な信仰の中身であり、それが私たちの真実であろうと思いますが、更に勝って、心を尽くして「主を愛せよ」と言われることを聞きたいのです。愛することの方に重点が置かれていると注目しなければなりまません。ですから、申命記が聞きなさいというとき、「主を愛しなさい」とまず聞かなければならないのです。今回のテキスト10章12−13節もその一つですが、そこには「あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。それはただ、あなたの神、主を恐れ、主のすべての道に歩み、主を愛し、心を尽くし……」とあり、<主を恐れ、主の道に歩み、主を愛し、主に仕え、主の命令を守る>と5つのことが並べて語られています。それは、主への信仰を別の言い方にしたものですが、<愛する>ことは<信じる>ことの言い換えです。ヨハネははっきりと、信じるという代わりに愛すると言っているのです。ヨハネの気持ちには、そのほうがぴったりしていたのでしょう。信仰ということで先にロマ書3:20を見ました。「イエス・キリストを信じる信仰」とありましたが、実はこれは、所有格の信仰と呼ばれ、原文では「イエス・キリストの信仰」となっています。イエスさまの信仰? と妙に思われるかも知れませんが、信仰を愛に言い換えてみると、その意味がはっきりするだろうと思います。まず、イエスさまが私たちを愛してくださった、そこから私たちの中に、イエスさまを愛する思い、イエスさまを信じる信仰が生まれたのです。イエスさまを信じる信仰は、イエスさまの愛が私たちに注がれたことから始まり、その愛を私たちが受け継いでいくことだと受け留めて頂きたいのです。