21/36回 <信仰>2

心を尽くして主を

旧約聖書 申命記 30:2−4

 あなたの神、主に立ち返り、きょう、私があなたに命じるとおりに、あなたも、あなたの子どもたちも、心を尽くし、精神を尽くして御前に聞き従うなら、あなたの神、主は、あなたを捕らわれの身から帰らせ、あなたをあわれみ、あなたの神、主がそこへ散したすべての国々の民の中から、あなたを再び、集める。とい、あなたが、天の果てに追いやられていても、あなたの神、主は、そこからあなたを集め、そこからあなたを連れ戻す。

新約聖書 ロマ書 10:17

 
そのように、信仰は聞くことから始まり、
聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。

T 人格形成とともに

 前回、イエスさまを信じる信仰は、すべてを傾けて私たちを愛してくださった神さまに応えつつ、信仰者として人格形成していくことであると理解してきました。今回はその続きです。信仰が、「私たちの人格を神さまに似たものに築き上げる過程である」ということを、もう少し考えていきたいと思います。

 私たちが立っている信仰は、16世紀の宗教改革以来受け継がれてきた福音主義信仰と呼ばれるもので、旧新約聖書66巻を一字一句誤りのない神さまのことばであると聞き、イエスさまの十字架とよみがえりを私たちの救いであると受け止める信仰です。しばしばそれは、原理主義(根本主義)であり、頑固で時代遅れであると言われながら、私たち自身も、その頑固なところに立っていることをむしろ誇りとしているのです。それ自体、決して非難されるものではありませんが、しかし、そのような頑固な福音主義も、どうかすると、時間とともに固定化されていく危険性を有しているようです。つまり、信仰の奥深い部分に目を向けず、聖書解釈の巾が狭くなって、牧師や先輩に教えられたものを数学の公式のように繰り返し、「イエスさまの十字架とよみがえり」がまるでお題目でも唱えるようになってしまうといった問題が生じやすいのです。それ自体、間違いではなく、多くはないのですが、そのような信仰の動脈硬化を起こす危険性があることも事実でしょう。イエスさまの十字架は、私たちを罪から救い出す世界唯一の出来事ですが、人、ひとりひとり違う人格であるように、人によって罪の性質も違ってきます。極端な例ですが、殺人、姦淫、盗みでさえ人それぞれの動機があり、裁きも、刑法に定められた判決で十分とは言い難いところもあるでしょう。罪、それは人間そのものであるからです。同じように、ひとりひとりの罪に対応してくださるイエスさまの救いもまた、そのひとりひとりに語られ、そのひとりひとりを招かれていることを忘れてはなりません。十字架には、教理という冷たい宗教意識では言い尽くせない、たくさんのメッセ−ジが込められていると知って頂きたいのです。イエスさまを信じる信仰は、一律に固定化された観念ではなく、私たちの人格とともに総合的に形成されていくものであると覚えて頂きたいのです。そのことを覚えて頂いた上で、今回は信仰の原点とも言えるところを探ってみたいと思います。


U 聞くことから

 第1に、信仰が聞くことから始まります。ロマ書の10章には、「そのように信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによる」(17)とあります。異邦人の使徒と呼ばれたパウロのことばですが、最初に、パウロのイエスさまとの出会いを見てゆきましょう。

 パウロは、小アジヤの付け根、東のアテネと言われた学問の町キリキヤのタルソの出身ですが、その町で、律法に厳格なパリサイ人の家庭に生まれ、最高の教育を受けました。そして彼は、アテネではなくエルサレムに留学します。アテネに留学していれば、当代最高の知識人としてロ−マ社会に手厚く迎えられたことでしょう。しかし、彼はエルサレムに留学しました。ユダヤ人であり、パリサイ人であることに誇りを持ち、だからこそ当時、異端とされていたイエスさまを信じる信仰に徹底的な敵意を抱き、強烈なクリスチャン迫害者として聖書に登場してきます。ところが彼は、イエスさまに出会いました。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起き上がって自分の足で立ちなさい。わたしがあなたに現れたのは、あなたが見たこと、また、これからわたしがあなたに現れて示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人に任命するためである」(使徒26:15−16) 彼は地面に打ち倒されて目が見えなくなりましたが、イエスさまの声を聞いて信じ、バプテスマを受けます。するとその時、目からうろこのようなものが落ち、再び見えるようになって、彼は異邦人の使徒としての生涯を送るようになります。迫害者だったときの彼は、クリスチャンたちの言い分など聞く耳を持ちませんでしたが、イエスさまとの出会いは彼に、信仰とは聞くことから始まると教えてくれたのです。当代一流の知識人であるパウロが、「私は、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心した」(Tコリント2:2)とまで言っています。

 まず聞くことから始まるのです。それは信仰のことだけではなく、人間性の原点と言っていいでしょう。最近の風潮でしょうか、聞くことより、話すことだけで目立ちたい人が多いような気がしてなりません。初めに自分の主張があり、それに他の人を屈服させていく。それは暴力であって、信仰とは対極にあるものではないでしょうか。神さまの前で自分だけを主張することが罪に発展していったことを考えなければならないでしょう。パウロが迫害者になったのは、耳をふさいでしまったからです。イエスさまを信じる信仰は、自分の主張を通すことではなく、キリストについてのみことば、神さまのことばである聖書に聞くことから始まると覚えて頂きたいのです。


V 心を尽くして主を

 聞くということが、少なくともイエスさまを信じる信仰の始まりであり、それは私たちの人格を形成していく過程であると、いくらか感じ取って頂けたでしょうか。

 ところで信じるということばは、他に説明しようもない基本語と言っていい言葉です。愛するなどもそうですが、それ以上の説明する代わりの言葉を持たないもののことです。人間の本能に備わっている感覚みたいなもので、神さまに造られたとき以来ずっと持ち続けてきたものなのでしょう。ですから私たちは、本当に愛しているのか、信じているのかを直感することができるのだと思うのです。私たちにとって、愛の意味、どう信じているのかなど、問いかけるまでもないことでしょう。ただ、現代、あらゆる事柄に対しての意識、価値観の混乱の中で、信仰ということばが何を意味しているのか、判断の材料にもなると思いますので、ひとつことを取り上げましょう。ユダヤ人の信仰意識のことです。

 信仰ということを旧約聖書の時代に、「心を尽くし、精神を尽くして神さまのことばに聞き従う」(申命記30:2−3他)ことであるとする理解がありました。聞くことと信仰が結びついていたのです。ところで「心を尽くして」と言われます。「精神を尽くして」もほぼ同じことの反復ですが、私たちが誰かの話しを聞く時に、誠実にその話を受け止めようとするなら、聞き耳を立てて一所懸命聞き漏らすまいとし、そして、聞いたことを忠実に守ろうとするでしょう。それが「心を尽くして」の意味なのです。実は、この誠実とか忠実は、信仰と同じところからきた言葉です。信仰は、言葉だけのふわふわしたものではなく、生活に根づいた私たちの人格が現れる生き方そのものであると、明らかになってくるではありませんか。イエスさまを信じる信仰は、私たちのあらゆる生活に於いて、ひとつひとつ誠実に、忠実に行なっていく歩みであると聞かなければなりません。愛することにも聞くことにも、誠実と忠実を尽くしてはじめて、イエスさまを信じることがどういうことなのか腑に落ちて来るのではないかと思います。イエスさまを信じる信仰は、神さまと隣人に誠実で忠実であることを要求しています。自分のことを考えてみました。先日、イエスさまを信じて42年にもなると気づいたのですが、その間、どれだけ神さまにも人にも不誠実、不忠実であったことでしょう。恥ずかしいかぎりです。しかし、この42年間、神さまは一度も不誠実ではありませんでした。その誠実な神さまが私たちの神さまなのです。そのような神さまのあわれみを頂いて、私たちも又、誠実で忠実な生き方を願うことが出来るのです。