20/36回 <信仰>1

ただ信仰のみ

旧約聖書 詩篇 23:1−6

 
主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯はあふれています。まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。

新約聖書 ロマ 3:21−26

 しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物とし、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。

T 誤解からの出発ではなく

 このシリ−ズで、福音の中心は、神さまの私たちに対する愛であると、だんだんと明らかになってきたのではと思います。神さまに造られたにもかかわらず、罪を犯して神さまから離れた私たちを愛し、その罪を赦そうと、十字架という犠牲になってくださった神さまのことを聞いてきました。前回、その神さまが同じ愛の故に、私たちと共にあることを望み、私たちの内に奥深く入ってくださったと聞きました。その内住の聖霊なるお方は、私たちを「神さまの似姿」に戻そうと働いておられるのです。そんなにも深く私たちを愛してくださる神さまに、私たちがどう応えようとするのか、信仰の問題に入っていきます。このシリーズの一つの結論でもありましょう。

 最初に、否定的なことを言うようで申し訳けありませんが、信仰について陥りやすい誤解がありますので、それを解いておきましょう。一つは日本人の信仰意識の問題です。端的に言いますと、日本人には、原則として、信仰という意識はなかったのではと思います。あったのは信心であって、信仰とは区別されるべきものでしょう。信仰、特にイエスさまを信じる信仰については後に触れますが、まず、信心から考えていくことに致します。

 信心とはその対象のいかんに関わらず、信心する心が大切とされてきました。古くからの信心は、極めて心情的で、嵐が来れば風の神を恐れ、洪水が起これば川の神や山の神にいけにえをささげて怒りを静めようと、そこに信心が生まれてきたと考えられます。もともと人格を持たない自然や偶像に向かってのものでしたから、対象からの応答を期待するより、一生懸命に信心するという自分だけの一方通行ですが、結果が期待通りだと、「あなたの信心は見上げたもの」となり、期待はずれだと、「まだまだ信心が足りない」となってしまいます。これは、「イワシの頭も信心から」と、どんなものでも心の持ちようで神になるという汎神論に基づくものと言えそうです。代表的な日本人の宗教意識でしょう。そしてこの意識は、さまざまなしきたりを伴い、沢山の飾りの付いた祭壇とか細かな規定と結びついて、造り上げた飾り、規定とともに、<自分の中に>神のイメージを造り上げてしまうことになりました。これは日本ばかりではなく、仏教、ヒンズー教、ユダヤ教、イスラム教……などなど、世界中の汎神論や多神教、いや唯一神教にさえ、それに似た意識がつきまとっているようです。中世のキリスト教信仰にも似たところがありました。高い尖塔がいかにも荘厳な「大聖堂」に行くと、心が洗われるような気がすると、敬虔な気持ちを信仰と勘違いしてきたのです。そのような信心は、しばしば狂信的な自己満足に陥りますが、それは熱心が信心を支える原動力だからでしょう。


U 神さまが全人格を傾けて

 しかし、私たちが聖書に基づく「信仰」を告白しようとするならば、そのような「信心」とは徹底的に区別しておかなくてはならないことがあります。

 信仰ということで、ひとつのことを見ておかなければなりません。信仰とは、広辞苑に「信じたっとぶこと」とありますが、編集者の意図を想像しますと、信仰の中心は人格神に対する敬い恐れであると聞こえてきます。聖書が語る信仰も、その点を大切にしています。クリスチャンにとって人格神とは、私たちを愛するが故に十字架のイエスさまとなり、また現代、私たちとともに歩んでくださる聖霊なる神さまです。私たちの信仰は、そのように全人格を傾けて私たちを愛してくださる神さまに対する信仰と言っていいでしょう。ヘブル書の記者が「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです」(11:6)と証言していますが、これが聖書の主張する信仰姿勢です。信仰こそ、神さまと私たちとを結ぶ唯一の帯ですから。

 私たちの信仰が、実在の神さまへの信仰と理解することはとても大切ですが、それだけではまだ観念の域を出ません。私たちの信仰は、その実在の神さまが、私たちと共に喜び、悩み、私たちの成長に一喜一憂し、私たちの人格を「イエスさまを信じる信仰」によって磨き上げようとしておられる、そのような神さまと共に築いていく私たちの人格形成の歩みであると覚える必要がありましょう。そして、私たちの信仰が、そのように全人格を傾けて私たちを愛してくださった方に対するものであるなら、そのお方のご人格に見合うよう、私たちも成長していきたいと願うのは自然なことです。ペテロはこう言っています。「神さまが聖であるように、あなたがたも聖なる者とされなさい」(1:15−16)「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋なみことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです」(2:2)
 聞いていきたいものです。


V ただ信仰のみ

 ところで、クリスチャンは、唯一の創造者、全能の神さまを信じています。もっと具体的に言うなら、救い主イエスさまを信じることにより、全能の神さまに全幅の信頼を置いています。これまで何回も言ってきたことですが、神さまの私たちに対する愛がイエスさまの十字架になって現われたので、神さまとイエスさまの別々の神さまがいるわけではありません。「わたしを見た者は父を見たのである」と言われ、肉体をとり、人となられたイエスさまこそ、唯一の創造者、全能の神さまを覚えさせてくださるお方です。私たちの信仰は、イエスさまの十字架とよみがえりを私たちの救いであると信じることであるとはっきりさせておきたいのです。

 信仰が、なぜ私たちの全人格と関わるのでしょうか。今回の新約聖書の箇所、「イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ……」(ロマ3:22)からです。

 義とは神さまの正しさのことです。善悪の基準、私たちが自分の罪を罪と認めていくときの物差しです。私たちがイエスさまの十字架と出会うのは、自分の罪を認め、その罪を背負い、十字架上で私たちの身代わりとして死んでくださった、イエスさまが私の罪を赦してくださると聞いたときです。自分の罪を認める。それは、神さまの義に触れて分かることでしょう。そこから信仰者としての歩みが始まります。パウロが「もし私たちがキリストとともに死んだのなら、キリストとともに生きることになる」(ロマ6:8)と言っているとおり、イエスさまを信じることは、私たちの死といのちの問題でもあるのです。イエスさまが私たちに代わって死ななければならないほど、私たちの人格には罪という問題があったと覚えなければなりません。その私たちの人格に、神さまが関わろうとしてくださるのです。いのちとは、新しく神さまから与えられる、やがて神さまの御国に招かれていく永遠のいのちです。私たちは依然としてこの世界に生きているのですが、それでも神さまは私たちの名前をご自分の御国に登録してくださるのです。新しい天国の住民としてのいのちです。そこに新しい生き方が生まれ、それが信仰の歩みであり、私たちの全人格の成長の歩みになっていくのです。

 先輩クリスチャンたちに、「ただ信仰のみ」という旗印が生き生きと息ずいたときがありました。16世紀の宗教改革の時代です。彼ら改革者たちは、イエスさまを信じる信仰によってのみ生きようとしていました。全人格を傾けてキリスト者としての生き方を築き上げたのです。その生き方が今の私たちの模範になっています。「主は私の羊飼い…」と詩篇23篇を読みましたが、そこに、神さまのもとで憩う者の幸いが歌われています。私たちの生き方もこの羊のようでありたい、また、「ただ信仰のみ」と謳った大先輩たちの生き方にならうものでありたいと願ってやみません。