2/36回 <神さま>2

知り給う神さま

旧約聖書 出エジプト 3:7−14

 主は仰せられた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い払う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている。わたしが下って来たのは、彼らをエジプトの手から救い出し、その地から、良い地、乳と蜜の流れる地、カナン人、ヘテ人、エモリ人、ヒビ人、エブス人のいる所に彼らを上らせるためだ。見よ。今こそ、イスラエル人の叫びはわたしに届いた。わたしはまた、エジプトが彼らをしいたげているそのしいたげを見た。今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ。」モーセは神に申し上げた。「私はいったい何者なのでしょう。パロのもとに行ってイスラエル人をエジプトから連れ出さなければならないとは。」神は仰せられた。「わたしはあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである。わたしがあなたを遣わすのだ。あなたが民をエジプトから導き出すとき、あなたがたは、この山で、神に仕えなければならない。」

新約聖書 Tペテロ5:7

 あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。



T 実在の神さまへの信仰は

 「神さま」を見ているのですが、最初に、神さまは本当にいらっしゃるのかということから始めました。前回、出エジプト記3:14から、神さまご自身が「『わたしはある』という者である」と、その存在を主張される、実在の神さまであると見てきました。そして、もうひとつ、「神さまはどのように実在しておられるか」という問いかけをしたいのです。実在をどのようにというのもおかしなことですが、見ることの出来ない、人間とは全くかけ離れた絶対の存在ですから、どのようにという問い掛けも必要になってくるのでしょう。答えは、神さまご自身でありながら十字架かかり、私たちの罪を赦してくださった、イエス・キリストにおいて実在しているということです。そこで私たちと神さまとの関わりが生まれ、その関わりの中で、私たちは神さまを信じますと告白していくのです。神さまを信じるということは、ただ神さまの実在を信じることではなく、その実在の神さまが私たちとどのように関わってくださったか(イエス・キリストの十字架において)を信じるのですから、この告白には重大な意味があります。これこそ神さまを信じる最も大切なことであると覚えて頂きたいのです。

 以上のことをモ−セの記事(出エジプト記3:13−15)から見てきたのですが、モ−セの召命の記事は3章1節から始まっていますので、順次さかのぼって、今回は7−12節、神さまと私たちの関わりのもう1つを見ていきたいと思います。


U 私たちの悩み、叫び、痛みは

 まず、モ−セが神さまから召し出されたときのことですが、シナイ半島、シナイ山のふもとで主の使いが彼に現れます。そして、「エジプトに寄留している私の民イスラエルが奴隷として苦しんでいる。彼らをエジプトから助け出し、約束の地カナンに導いていきなさい。その指導者としてわたしがあなたを選んだ」と言われます。王の命令によって、生後3か月でナイル川に流されたモ−セですが、エジプトの王女に拾われ、彼女の養子として育てられました。しかし、成長して自分がヘブル人であることを知り、同胞を苦しめているエジプト人を殺したことからイスラエル人とエジプト人のどちらからも疎外され、岩と乾いた土だけの不毛の地シナイ半島へ逃げ出します。そのモ−セを、神さまはイスラエルの指導者に選び、召し出されました。出エジプト記3章はその召命の記事ですが、1〜6節は次回見ることにして、今回は、「なぜ神さまはモ−セを彼らに遣わそうとされるのか」を見ていきたいと思います。前回、神さまのことを2つの面から見ていく必要があると言いました。人間の視点と神さまの視点です。今回はその両面から神さまのことを考えていきましょう。

 7節に「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている」とあります。その時イスラエルは、2章23節に「イスラエル人は労役にうめき、わめいた。彼らの労役の叫びは神に届いた」とあるように、奴隷の労役に苦しんでいました。奴隷としてエジプトに来たイスラエルではなかったのに、新しい王朝になり、寄留者イスラエルの人口が増え強大な民族になることを恐れた王が、彼らを労役に使い始めたのです。この時、エジプトに寄留して450年も経っていました。エジプトでの重労働は外国人の仕事となっていて、その労役は非常にきついものだったようです。ところが不思議なことに、これまでにも辛く悲しいことがたくさんあったと思うのですが、ここに来て始めてイスラエルは神さまに向かって叫び始めるのです。他国に寄留して450年、神さまのことを思い出さなかった。忘れてしまったのか、遠い存在になってしまったのか……。 ところが、これ以上はないという苦しみに直面して、神さまを思い出し、叫び声をあげました。困ったときの神頼み、進退窮まった彼らの苦しみを感じます。

 同じことが現代の私たちにも言えるのではないでしょうか。現代の人間関係は、当時とは比べものにならないほど複雑になっているかも知れません。悩みなんかないよという顔をして苦しむことを避け、その場限りを生きているように見える現代ですが、自分でも気づいていないその内面は、なぜ神さまに叫び声を上げないのかと不思議に思われるほど、悩み、叫び、痛みに満ちているように思われます。そのことを私たち自身がどれだけ理解しているか、自分の内に問い掛けてみる必要がありそうです。痛み、苦しんでいることを、うめき、叫んで神さまに訴えていくことのない現代、神さまがいないのだと実感します。神さまに向かって叫び声を上げるほどに、自分の問題と正面から向き合って、苦しむことを覚えたいと思うのです。現代にそれが欠けていると思われてなりません。


V 知り給う神さま

 そしてもうひとつ、神さまの目からどうかということです。
 モ−セはこの神さまの見た、聞いた、知っているというメッセ−ジを聞いて遣わされます。彼がイスラエルのところに行った理由の第1は、勿論、神さまが彼を遣わされたからですが、更に言うなら、この神さまのメッセ−ジに彼が動かされたからではないかと感じるのです。この見る、聞く、知るが神さまの一体何であるのかを考えてみたいのです。

 第1に、この見る、聞く、知るは非常に現実的な感覚であり、これがユダヤ人の日常感覚になっていきました。現代人はこの見る、聞く、知るを多分にギリシャ風、思弁的なところで理解し、心理学とか社会科学などを持ち出して判断しようとしますが、ユダヤ人の、ヘブライ文化と呼ばれる思考方法は極めて実際的で、見たとはその見たもの、聞いたとはそのことばや叫びや祈りなんです。知っているとは、体験したという意味にまで限定されたことばであって、神さまはイスラエルの苦悩をご自分の苦悩として覚えられたということです。極めて単純明快な宣言と言えましょう。

 第2に神さまは、見た、聞いた、知っていると言っているだけではないのです。神さまが覚えてくださったということは、そこに救いの手を延べるという、断固たる決意と聞かなければなりません。この決意がモ−セの召命となり、「わたしはあなたの神である」という宣言になったのです。私たちが、「わたしはあなたの神」と聞くとき、それは私たちの祈りを聞き、問題を解決し、時宜にかなって助け、慰め、救いを与えてくださる、恵みの神さまと聞いていいのです。私たちが本心から神さまに叫ぶなら、それは祈りですが、神さまは必ず私たちの心の思いを聞いて下さいます。そして、その救いのために必要な手段を講じて下さるのです。ここはその約束であって、神さまは見て、聞いて、知ってくださる方であると覚えて頂きたいのです。

 現代の問題を少し考えてみましょう。神戸のあの少年殺害事件ですが、時間が経つにつれて少年の犯行に及んだ動機などそれらしいことが同級生や先生たちにポツリポツリと話されていたと明らかにされ始めています。きっとそれは彼のサインだったのでしょう。子どもも大人も追い詰められている現代、何らかの形で助けを求める信号を出していると専門家は指摘しています。そのサインを見抜き、受け止めることができるかと問われています。しかし現代の問題は、受け止める者が少ない、いないということ、また、そのサインを聞いても、どうしていいか分からないと言うのが現状でしょう。しかし、私たちのサインを見て、聞いて、知っているよと正しく受け止め、それに応えてくださる神さまがいらっしゃるのです。神さまは現代の私たちの問題に重要な鍵を握る存在、実在であると覚えて頂きたいのです。Tペテロ5:7に、「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださる」とあります。神さまがあなたのことを心配してくださって、あなたのすぐそばにいっらしゃるのです。その方にあなたの信仰・信頼を捧げてゆかれませんか。