19/36回 <聖霊なる神さま>2

愛の証人として

旧約聖書 ゼカリヤ 2:8
 主の栄光が、あなたがたを略奪した国々に私を遣わして後、万軍の主はこう仰せられる。
「あなたがたに触れる者は、わたしのひとみに触れる者だ」

新約聖書 Tヨハネ 3:23−24
 
神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。神の命令を守る者は神のうちにおり、神もまたその人のうちにおられます。神が私たちのうちにおられるということは、神が私たちに与えてくださった御霊によって知るのです。

T 愛することで

 前回、聖霊なる神さま、三位一体・第三位格の神さまのことを考えました。聖霊なる神さまとはどのようなお方か、一つのことがはっきりしたのではないかと思います。世の始めから私たちを惜しみ愛してくださった神さまは、十字架という犠牲の中でその愛を現され、イエスさまが天に帰られた後、私たちのすぐ側に居て私たちを守り、助け、パラダイスに帰る道を忘れてしまった私たちを、ご自分のもとに導こうとされたということです。「私たちのすぐ側に」、それこそ、神さまが聖霊というご人格となって私たちの中に内住されたことですが、それは、私たちへの愛からでした。現代における神さまの愛の現れが聖霊であったということです。

 繰り返しますと、神さまの愛は、イエスさまの十字架と私たちへの助け手・導き手としての聖霊の働きになって現れました。十字架の愛と聖霊の愛は少しも変わることのない神さまの愛です。その神さまの愛の証人が聖霊です。私たちはあの人、この人を愛したいと願い、愛せないと苦しんでいます。そんな私たちを奥深いところで見て、理解してくださるのは聖霊なるお方です。そして、そのお方は、神さまがどんなに私たちを愛してくださっているかの証人でもあります。今回、その愛の証人としての聖霊なる神さまのことを覚えたいと思います。愛することは、具体的に誰かを愛さなければ決して分からないし、その愛も大きく深いものに育っていくことはないでしょう。どんなに聖霊という方のことを調べ尽くしても、それで私たちが愛ある者となっていくわけではないし、そのお方が私たちの内に居てくださっても、愛のない者には見えてこないのです。愛と聖霊なる神さまは深く結びついていて、聖霊なる神さまの第1の特質は愛だということを、すぐ近くにいる人を愛することで体験していきたいと思います。


U 祈りの導き手として

 現代は、愛は行為になって現れなければ本物ではないと、19世紀以来積み重ねられた物質主義、功利主義的な価値観だけに縛られているようです。愛する者のそばにいたいと思うのは私たちの本能ですし、離れていればその人のことをずっと思って、その人が喜んでいれば嬉しいし、不幸な目に会っているとたまらなく悲しくなります。愛の一番大切なところは私たちの心の中にあり、愛が本当に現れてくるのは祈りの中においてでしょう。前回、祈りこそ私たちを誰かと結びつけていく愛の帯であると聞きましたが、その祈りを助けてくださるお方、聖霊のお働きを考えてみたいのです。

 ロマ書に「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます」(ロマ8:26)とあります。聖霊なる神さまが私たちに祈りを教えてくださる。しかしそれは、「言いようもない深いうめきによって」なのです。それは、どう祈ったらいいのか分からないほど弱って、傷つき痛み、神さまから遠く離れ、祈っても聞かれないのではと感じて、誰かとの間に負い切れない問題を抱えている時かも知れません。「弱い私たち」、痛んでいるところを誰かに分かってもらいたいと、苦しみ悩んだことがおありでしょうか。そんな時、神さまご自身が共に苦しんでくださるのです。聖霊の「うめき」はそのことを指しているのでしょう。

 カウンセラーがカウンセリングするとき、同じ痛みをカウンセラ−自身も背負うと指摘されています。カウンセラ−自身が同じ病気になってしまう、チョット違うかも知れませんが、似たところがあるようです。人間とは根本的に異なるお方、創造者である神さまご自身が、こともあろうにご自分の作品(私たち)の中に住み、私たちとほとんど一体となって、私たち自身も知らない私たちの奥深いところでじっと見つめ、同じ喜び、同じ悲しみを共有してくださるのです。それが深いうめきになってということなのでしょうか。聖霊なる神さまは、私たちの愛の証人となり、愛を教え、育ててくださる方です。そして、祈りこそその接点でしょう。祈り執りなして、その祈りが深くなればなるほど、愛もまた大きく育っていく、聖霊のお働きあってのことです。聖霊の導きのもと、祈りを育て、愛を育てていきたいですね。


V 愛の証人として

 愛と祈りを私たちの中に育ててくださるのは、聖霊なる神さまの私たちへの愛からであるとお分かり頂けたでしょうか。旧約聖書、ゼカリヤ2:8 にこうあります。「あなたがたに触れる者は、わたしのひとみに触れる者だ」 瞳とは、よくぞ言って下さったと思いますね。中学生のころ、友達とチャンバラをして、右目に棒っきれを突っ込まれたことがあります。今でもまぶたの上にその傷跡が残っていますが、痛いなんてものではない、目がつぶれたと思いましたね。それでも叱られると思うから誰にも何も言わずに我慢して……、でも、やんちゃは収まらなかったですね。神さまは、私たちを苦しめる者はその瞳に触れる者だと言われます。私たちの目のことではない、神さまご自身の瞳のことを言っているのです。神さまが私たちの中に居てくださるから、私たちに手を上げる者は神さまに向かって手を上げるのだと、比喩ではなしに、ここのところをしっかりと見極めて頂きたいのです。私たちの苦しみは、私たちの中におられる聖霊なる神さまの苦しみであると言って下さるのです。このお方は、それほどの愛をもって私たちを育てて下さろうとしておられる。愛も祈りもこの神さまに育てられて本物になっていくとお分かり頂きたいのです。

 誰も分かってくれないと、私たちはひとりで悩んだり苦しんだりしています。それほど重いものを抱えての人生、でも、内なる聖霊なる神さまは分かっていてくださいます。神さまが育ててくださろうとするのは、愛や祈りだけではなく、私たちの中に住んで、ほとんど一体になってくださった神さまですから、私たちの全人格をあらゆる面に渡って見守り、成長させてくださるのです。ペテロがこう言います。「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです」(Tペテロ2:2) 私たちが愛に祈りに成長していくことは、神さまの大きな望みであり、喜びでしょう。神さまが人間を創造されたとき、人間は「神さまの似姿に」造られました。しかも、神さまは人を形造られた後、ご自分の「愛の」息をその鼻から吹き込まれました。残念ながら、それは私たちの思い上がりのため失われてしまったのですが……。神さまは、わたしたちをその似姿に戻そうとしておられるのでしょう。今回のヨハネのことばに、「神さまの命令とは、私たちが互いに愛し合うことです」とありました。愛し合うことこそ、造られた最初の姿に戻っていく、おそらく唯一の道ではないかと思います。聖霊は神さまの愛の証人でした。私たちもイエスさまを信じ、互いに愛することで、神さまが私たちを愛してくださっていることの証人になっていきたいですね。