18/36回 <聖霊なる神さま>1

主の恵みの時代に生きて

旧約聖書 イザヤ 55:6

主を求めよ。お会いできる間に。
近くにおられるうちに、叫び求めよ。
新約聖書 使徒  1:8

 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。

T イエスさまにお会いするまで

 イエスさまが私たちのところにもう一度おいでになると聞きました。終末はイエスさまとお会いすることでクライマックスを迎えると聖書の証言でしたが、きっとその通りだろうと思います。今は終末の時代であると、みんな目の色を変えています。30年ほど前から、特に地球物理専門の科学者たちが、地球規模のいろいろな危機を指摘し警告し始めてからのことと記憶していますが、その端緒に、「成長の限界」(ローマクラブ)という本の出版がありました。少し前に京都で行われた地球温暖化防止に関する国際会議、この議定書が日の目を見るのはなかなか難しいようですが、これもそうした問題意識のひとつです。終末がそう簡単に来るわけではないと思いますが、確かに現代、破滅としての終末をいつ迎えてもおかしくないほど問題が山積していると、これは間違いないことでしょう。しかし、だからと言って、終末が人類滅亡という破滅だけかというと、そうではありません。聖書はそこに、イエスさまにお会いして、神さまの御国に招き入れられる、最終的な救いの希望があると主張しています。

 前回、その希望を聞いてきました。
 ところで、やがてイエスさまにお会いするまでの期間を、私たちがどう理解し、どのように過ごしたらいいのか、考えてみたいのです。現代の私たちは創造の神さまを見ることも出来なければ、その声を聞くこともありません。イエスさまのことも同じでしょう。時々、「神さまの声を聞いた」と言う人が現れますが、それは極めて問題ですね。神さまを見ることの出来ない時代は、イエスさまを天に送った直後から始まっているのですが、現代に至るまでの時代、実は神さまの第三位格と呼ばれる聖霊なる神さまのお働きの時代と言われています。三位一体という言葉をお聞きになったことがあるでしょうが、父なる神さま、子なる神さま、そして聖霊なる神さまという唯一の神さまに備わる三つの位格(ご人格)のことです。今回はその中の、現代もなお私たちのところで働いておられる聖霊なる神さまのことを考えていきたいと思います。


U 神さまの力と愛が注がれて

 「聖霊汝らの上に臨むとき、汝ら力を受けん。しかしてエルサレム、ユダヤ全国、サマリヤ、及び地の果てにまで我が証人とならん」(使徒1:8・文語訳) これは、私が伝道者に召されたとき、神さまからのことばとして聞いた特別な思いの残るところです。最初に、聖霊なる神さまがどのようなお方かを考えていきましょう。

 第1に、聖霊なる神さまは神さまの力です。使徒行伝と同じ記者ルカが記したルカ24章にこうあります。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、3日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。あなたがたはこれらのことの証人です。さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい」(24:46−49) 最後に「いと高きところから力を着せられる」とありますが、同じルカの手による使徒1:8には「聖霊が臨むとき、力を受ける」となっています。同じことを言ったのでしょう。「神さまの約束とは聖霊のことであって、それは神さまの力である」 ルカの証言をそう受け止めていいでしょう。私たちが頂いているものは、走っても疲れない神さまの力なのです。

 第2に、聖霊なる神さまは助け主です。イエスさまの約束を見てみましょう。「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主あなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです」(ヨハネ14:16)  助け主、これは神さまの「聖霊」というご人格です。前に、私たちを愛するが故に神さまは、ご自身の栄光を捨て、十字架にかかるために私たちのところに来てくださった、それが子なる神さま・イエスさまであると聞きました。聖霊なる方も神さまの愛の現れです。最初の弟子たちのようにイエスさまの声を聞き、触ることの出来ない私たちが、神さまを身近に感じることができるようにとのご配慮が、私たちの内に宿ってくださった聖霊なる神さまであると受け留めていいでしょう。神さまは十字架の愛を注いでくださっただけでなく、聖霊という神さまが内住してくださる形で、私たちにその愛を継続してくださったのです。聖霊が私たちを愛してくださるその愛は、十字架の愛となんら変わりありません。むしろ、聖霊なる神さまが私たちの内におられることで、十字架の愛が過去の出来事ではなく、現在の私たちへの愛であり、罪の赦しであり、イエスさまを信じる信仰への導きであると、理屈抜きで理解していくことが出来るのです。私たちの信仰も理性も感性すら助けてくださるお方、それが聖霊なる神さまであると覚えて頂けるなら素晴らしいことです。旧約聖書イザヤ55:6に「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ」とあります。私たちを招くことに、神さまがどんなに心を砕いておられるか、お分かり頂きたいのです。もし、聖霊なる神さまのお働きがなければ、私たちは十字架も分からず、神さまの御国に招かれている希望も喜びも知らないままになっていくことでしょう。

 繰り返します。神さまは、愛する私たちのために、十字架による罪の赦しを計画、実行し、その赦しと救いの中に招き入れてくださいました。そのことを受け止めることが出来るのは、聖霊なる方となって私たち愛してくださるお方によることを忘れてはなりません。その愛を受け留め、その愛の中で生きていくとき、私たちの中に本物の愛が育っていくのです。その愛のある生き方こそ、イエスさまを信じる信仰の中身であり、告白ではないでしょうか。


V 主の恵みの時代に生きて

 神さまの愛がそんなにも注がれていることを考えて頂きたいのです。その愛が現代、私たちの中で急激に冷え始めているようです。今、終末の時代を迎え、いろいろと複雑な社会現象や環境問題が注目されていますが、本当の問題は、人の愛が蝕まれていることではないでしょうか。終末のことをお話しになったイエスさまは、そのとき人々の愛が冷えると言われました。今まさに始まろうとしている終末は、私たちの愛の欠乏から始まるのでしょうか。もしかしたら、私たちの目の黒いうちに、そんな終末が現実になるかも知れません。神さまが私たちを愛してくださるその愛を見つめていく。今、それが何よりも考えなければならない急務ではないかと思うのです。

 ペテロの証言から聞きましょう。「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」(Uペテロ3:9−10) イエスさま再臨のことですが、すぐにおいでになると初代教会からずっと待たれていたのに、21世紀の今まで引き伸ばされてきたのは、すべての人が罪を悔い改めてイエスさまを信じ、救われるために時間をくださってのことであると聞こえてきます。だからこそ、「聖霊汝らの上に臨むとき、汝ら力を受けん……」とクリスチャンたちが主の証人として世界中に出て行き、福音を宣べ伝える勤めを主から託されました。教会が建てられていくのもその勤めからです。それは、決して義務ではありません。私たちに注がれた聖霊なる神さまの愛が私たちを揺り動かし、その神さまの愛に応え、誰かがその愛を覚えていくよう伝えていきたいのです。聖霊体験とは特別な激しい感動を伴う出来事、神秘的な神がかり状態・エクスタシーになることを意味してはいません。聖霊なる神さまの中心は、神さまの愛なのです。その愛を、救いの恵みを頂いているこの時代に、私たちが生きていることを理解して頂きたいのです。そして、その愛に応えていく生き方を志して欲しいのです。何よりも私たちの内にあって私たちを変え、感動させ、動かしてくださる聖霊なる神さまの助けにあなたご自身を委ねて頂きたいと思います。そこに祈りが生まれ、その心からの祈りはきっと神さまに届いていくでしょう。祈りこそ、私たちと誰かとを結びつけていく第1の愛の帯です。愛が冷えていく時代だから、神さまに向かって祈ることを覚えましょう