17/36回 <イエス・キリスト>8

再び来たり給う主に

旧約聖書 イザヤ 2:10−11

 
岩の間にはいり、ちりの中に身を隠せ。主の恐るべき御顔を避け、そのご威光の輝きを避けて。その日には、高ぶる者の目も低くされ、高慢な者もかがめられ、主おひとりだけが高められる。

新約聖書 ピリピ 3:18−21

 私たちはしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいます。彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。

T 天に帰られた主は

 今回がイエスさまに関する最後ですが、これまでに7回、イエスさまのことは神さまの愛のご計画であったと、ご降誕、十字架、よみがえりを見て来て、はっきりしたことがあります。イエスさまの十字架は、神さまが私たちを愛してくださったために、ご自分を低く低くされ、私たちの罪の身代わりになられたということ、そして、私たちの罪を背負って死んでくださったイエスさまは、死の彼方に滅びたままではなかったということです。

 私たちは、イエスさまが死からよみがえって、輝かしい栄光に入られたと聞きました。しかし今、私たちはよみがえられたイエスさまにお会いすることができません。ここに、イエスさまを信じる信仰は、イエスさまの出来事、つまり過去の出来事だけに依存しているのではないかという疑問が残るかも知れません。日本のほとんどの人たちがそう思っているようですが、聖書の証言には、その続きがあるのです。

 よみがえられた後、イエスさまは40日に渡って弟子たちに現われ、その後、弟子たちと一緒にエルサレム郊外にあるオリ−ブ山に行き、そこから天に昇って行かれました。それは使徒1章に記されています。今そこに主の昇天教会と呼ばれる一群の記念教会が並んでいますが、オリ−ブ山のホテルの庭からそれを見て、感動したことを思い出します。イエスさまが雲に包まれて見えなくなっていくのを見ていた弟子たちに、天使が現れて言いました。「なぜあなたがたは、天を見上げて立っているのですか、あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります」(1:11) よみがえって、天に上って行かれたイエスさまが、もう一度おいでになるという約束を聞いて頂きたいのです。イエスさまの再臨と呼ばれ、それは終末に必ずあると聖書は語っています。炭酸ガスの温室効果、オゾン層破壊など、破滅としての終末を間近に迎えているのではないかと不安をかき立てられている現代、イエスさまにいつかお会いできるという希望を見い出して頂きたいと、イエスさま最後の項をお聞きください。


U 主の再臨の約束と証言を

 イエスさまがこの世界に再びおいでになるという約束は、イエスさまご自身が何度も言われたことでした。そのいくつかを聞いてみましょう。「あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行ってあなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです」(ヨハネ14:2−3) これは終末のことであると言われるところから、「これらの日の苦難に続いてすぐに、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。そのとき、人の子のしるしが天に現れます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです」(マタイ24:29−30) 「わたしは、それ(キリスト)です。人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見るはずです」(マルコ14:62)

 もう1か処、90年代と遅くなって、幻のうちにその声を聞いたヨハネの証言、神さまからインスピレイションを受けて書かれたヨハネの黙示録からです。「見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る」(22:12)

 イエスさまの再臨には2つの目的があるようです。1つは裁きのため。上記イザヤ書など旧約聖書の証言のほとんどがそのことに言及していますが、終末時の苦難と審判は避けられないのでしょう。けれども、もう1つのことがあります。それは、私たちを御国に連れて行ってくださるという希望の約束です。その分かれ道がどこであるのかを考えていきたいのです。

 最初に、ペテロなど弟子たちがイエスさまの再臨をどう受け止めていたかを考えてみましょう。イエスさまと一緒にガリラヤのあちこちをまわりながら、イエスさまからいろいろなことを、十字架のことも、よみがえりのことも、再臨のことまでも弟子たちは聞いていましたが、彼らはそれらをほとんど理解していませんでした。イエスさまがユダヤ人たちにいのちを狙われるようになって、初めて十字架のことがかすかに記憶に残るようになりました。ところが、実際によみがえりのイエスさまにお会いし、その後イエスさまの証人として働き、教会が建てられ、彼らはその全容を悟ったのでしょう。

 それは人間の理解というより、聖霊なる神さまのお働きと思われるのですが、イエスさまを信じる者にとって、イエスさま再臨の希望は、十字架による罪の赦しと共にきわめて重要なものとなってきました。再臨のイエスさまにお会いして後の、神さまの御国に憩う永遠のいのちこそが、クリスチャンたちの最終的な救いであると聞いたからです。弟子たちが証言するイエスさま再臨の約束をいくつか聞いてみましょう。「主は、号令と御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます」(Tテサロニケ4:16)、「キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、2度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです」(ヘブル9:28) そして、もう一度黙示録から。「これらのことをあかしする方がこう言われる。『しかり。わたしはすぐに来る』ア−メン。主イエスよ、来てください」(22:20)

 「来てください」マラナタと呼ばれるこのことばは、その後2千年を通して、クリスチャンたちの信仰と希望と祈りの合言葉になりました。私たちもこの希望の信仰を受け継ぎ、祈りの中にこれを覚えていきたいと願います。


V 再び来たり給う主に

 聖書からいくつもの証言を聞きました。イエスさま再臨についてまだまだたくさんの証言がありますが、これだけでも、イエスさまがもう一度おいでになるとの約束が真実であって、必ず実現するとお聞き頂けたことでしょう。それがいつ、どのようにしてかは分かりませんが、世の終わりに「天の雲に乗って」などと言われることは、私たちには分からなくていいことでしょう。それよりも、イエスさまがおいでになることは間違いないと確信して頂くことの方がはるかに大切です。それも、あまり遠くない未来に。

 私は数年に一度、天国の夢を見るんですね。そんなにはっきりしたものではなく、あれが天国だろうなと目が覚めてから思うような淡い夢ですが……。その夢の中で、たいてい白い衣を着た聖徒たちがゆるやかな丘を讃美歌を歌いながら登っていきます。そして、その目指す頂上が神さまの玉座らしいのです。「あそこに行けば主にお会いできる」と嬉しくなって来るのです。どうかすると、夢には何の景色もなく、ただ現実には味わったことのない満ち足りた喜びや幸せな気持ちだけというものですが……。ふるさと北海道に13年ぶりに帰省したことがあります。帰ろうと決心すると、なつかしい風景が目の前にチラチラして、矢も立てもたまらなくなったものです。天国に登っていくときの気持ちは、夢の中でもいくらかそれに似ていました。いや、もっともっと懐かしさがこみ上げていたような気がします。

 黙示録に「神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。以前のものが、もはや過ぎ去ったからである」(21:3−4)とあるそんな天国です。その天国から、イエスさまが、私たちを迎えに来てくださいます。再臨とは、そんなワクワクするような光景が現実のものとなる出来事なのです。今回読んだピリピ書で、パウロは「私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます」(3:20)と証言しました。罪が赦されただけでも嬉しいことですが、イエスさまの救いは、もっともっと私たちにすばらしい恵みを用意してくださるのです。ご自身が迎えに来て天国に連れていってくださる。そこに私たちの住む永遠の場所が用意されているのです。一生かかって家を一軒建てるのが人生最高の目標であるような私たちに、神さまのこの祝福はなんと桁外れにすばらしいことでしょう。神さまのそばで過ごす永遠の喜びを、愛する人たちと共有することが出来るのですから。

 私たちの信仰には目標があり、希望があり、幸いな結末を確かめることができるのです。再び来たり給う主にお会いすることができるという約束を望み見て、ともにイエスさまを信じ続けていこうではありませんか。