16/36回  〈イエス・キリスト〉7 

よみがえりの主とともに

旧約聖書  詩篇 16:10−11

 まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。
新約聖書 ロマ 6:4−8

 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。死んでしまった者は罪から解放されているのです。もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなると信じます。

T 滅びたままでなく

 イエスさまのことで、「十字架」を見てきましたが、神さまがどんなに私たち愛しておられるか、十字架はその愛の現れであると、その深い思いを感じてきました。<私たちを愛してご自身が変わってくださった>のがイエスさまであり、イエスさまの十字架だったのです。そして、それこそ福音の中心であると聞いてきました。しかし、十字架の出来事は、イエスさまの死で終わるものではありませんでした。礼拝で用いている使徒信条はこう告白しています。「主は十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、3日目に死人のうちよりよみがえり……」 十字架とは罪に死ぬことであり、徹底的に死の苦しみを受ける姿であり、それが私たちなら、当然、罪ある私たち自身がそうなるところでしたが、もう先に希望はありません。捨てられ、滅びたままになってしまうのです。けれども、これはイエスさまの出来事であり、「よみがえり」にまで続いて、私たちの希望となるのです。

 これから、イエスさまの「よみがえり」を見ていきます。第1に覚えて頂きたいのは、十字架のイエスさまは、死んだままではなかったということです。パウロも「もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしい」(Tコリント15:17) とまで言ったように、イエスさまの十字架が私たちの罪のためであったとどれほど聞いても、死んだままであったら、それは全く説得力を持たないでしょう。しかし、神さまの救いのご計画は、十字架で終わってしまうものではありませんでした。パウロはこうも証言します。「キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しない」(ロマ6:8)  詩篇16:10にもこうあります。「まことにあなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません」 イエスさまのことです。私たちの救い主は私たちに代わって十字架に死んでくださいましたが、そのまま滅びてしまったのではありません。それは、私たちが滅びてしまわないためでした。そこにこそ、疑いのない確かな救いがあるのです。


U 私たちの信仰は空想ではない

 「イエスさまがよみがえった」、言葉にしてしまえば簡単で、神話か物語のように聞くなら何の疑問もないでしょう。しかしこれは、当時の弟子たちにさえ信じられない出来事でした。実際、弟子たちはよみがえりのイエスさまに何回もお会いするのですが、それでも信じられるようになるまでにはずいぶん時間がかかりました。まして科学的合理至上の現代、真面目に取り組むなら、そんなことは万が一にもあり得ないと考えて決して不思議はありません。そこで、現代人の合理性に合うように、古くからいろいろな解決法が考えられてきました。主なものをご紹介しましょう。

1、イエスさまは仮死状態だった。よみがえりとは蘇生のことである。
2、弟子たちはイエスさまの霊(幽霊か幻影?)を見て、よみがえったと思った。
3、弟子たちがそう言っているだけで、事実ではないのに事実のように伝わった。
4、よみがえりは純粋に信仰の問題である。だからそう信じることが大切であって、それが事実かどうかは問う必要はない。

 こう見てきますと、まるで私たちの気持ちを代弁しているようですね。
 けれども聖書は、これが第2に覚えて頂きたいことですが、イエスさまのよみがえりはまぎれもない事実であったと、反対者の証言も含めて、信頼に足るたくさんの証人を立てて主張しているのです。本来、神さまのことばである聖書は、それだけで十分に確かなことですから、人間の証言など必要ありません。しかし、それにもかかわらず、聖書にはいくつもの注意深い証言が記録されています。それは証言を必要とする私たち人間のためでしょう。今回は、最も古い記録と見られるパウロの手紙からの証言をご紹介しましょう。

 「私があなたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは聖書の示すとおりに、私たちの罪ために死なれたこと、また葬られたこと、また、聖書に従って3日目によみがえられたこと、またケパに現れ、それから12弟子に現れたことです。その後、キリストは500人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。その後、キリストはヤコブに現れ、それから使徒たち全部に現れました。そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現れてくださいました」(Tコリント15:3−8)

 問題は、私たちの理性がそれを受け入れないということです。しかし、死もいのちも神さまの領域であると考えるなら、神さまの出来事としてのよみがえりがあったことも納得出来るのではないでしょうか……。まず、私たちのイエスさまを信じる信仰は、事実の上に成立していると、初期の弟子たちとともに告白したいのです。イエスさまが来られたことも、十字架に死なれたことも、そしてよみがえられたことも、神さまのなさった事実です。そして、その事実は、神さまが今も生きて働いておられることを明らかにしているのです。


V よみがえりの主とともに

 第3のことです。イエスさまのよみがえりは私たちの救いのためですが、私たち人間はそのことに全く関与しておらず、これは、あくまでも神さまだけの出来事であったということです。ご自分の主権を示されるのに、神さまはこんなにも不思議なことをなさるお方です。けれども、イエスさまのよみがえりは、私たち人間のためだったのです。イエスさまのよみがえりは、私たちのためになされた、私たちの聞くべき神さまからのメッセ−ジです。

 イエスさまのよみがえりは十字架の完成でした。ロマ書6章にこうあります。「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それはキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです」(4) イエスさまを信じる信仰は「イエスさまは私の罪のために身代わりとして十字架にかかって死んでくださった。しかも私の救いと希望のためによみがえってくださった」と告白していくことです。罪の赦しは、十字架とよみがえりのイエスさまによるのだと、私たちの中にはっきりさせておかなければなりません。ペテロは、これ以上はないというほど明確に証言しました。「あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたイエス・キリスト……以外にはだれによっても救いはありません」(使徒4:10−12) パウロが「いのちにあって新しい歩みをする」と言い、ロマ6:8に「キリストとともに生きる」とあるのは、よみがえりのイエスさまとともに歩むことを言っているのでしょう。それは、神さまのくださる新しい希望のいのちに生きること、新しい希望を見つめながら生きることであると覚えていただきたいのです。

 何か新しい歩みを志した方にはお分かりだろうと思いますが、そこには何らかの希望があったはずです。まして、イエスさまとともに歩む新しい歩みは、あなたを必ず神さまの幸い、罪の赦しと御国への招きにあずからせてくださいます。あなたのこれからの人生が救い主に祝福されたものとなり、新しい希望に向かうものであるよう心から願います。