15/36回 <イエス・キリスト>6  

十字架の上で

旧約聖書 イザヤ  53:4−6、10−12

 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。
 しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためにいけにえとするなら、彼は末長く子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。彼は自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。それゆえわたしは、多くの人々を彼に分かち与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。
新約聖書 Tペテロ  2:21−25

 あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられてもののしり返さず、苦しめられてもおどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたはいやされたのです。あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。
T 罪に陥れば陥るほど憐れみを

 前回、イエスさまの十字架は、旧約聖書時代に祭壇に羊などの犠牲をささげることで罪赦されるとしたことが、シンボルではなく、遂に本物となった出来事であると見てきました。「自分の犯した罪のために、本当はあなたがたが死ななければならないのだ。しかし、あなたがたの代わりに獣を祭壇にささげ、その血を流すならば、その犠牲をわたしは受け入れよう。そして、あなたがたの罪を赦す」これが旧約時代の神さまの約束でした。けれども、その祭犠礼拝はいつの間にか形式的な宗教行事になってしまいました。選民と言われるイスラエルからしてそんなふうでしたから、現代の異邦人たる私たちにとって、神さまの「あなたの罪を赦す」ということばなど、聞く耳持たずということなのでしょうか。

 ここ数年、人の心が変わってしまったのではと指摘されています。以前では考えられなかった凶悪犯罪がごく普通の、「真面目でとても良い人」の中からどんどん起っています。また、犯罪者の低年齢化も進んで、以前は苦笑で終わっていたことが、思いがけない大きな犯罪に結びついています。人間の神さまを見失った在り方は、善悪の判断を大きく狂わせてしまい、年を経るほど大きなものになっているようです。神さまの救いがなければ、私たちはどうなっていくのでしょう。現代にはもう十分過ぎるほど悪が満ちていると、今では誰も疑いません。これより悪くなってしまうなら、私たちはどこに希望を見出すことが出来るでしょう。もう手遅れなのでしょうか。イエスさまの十字架は、そんな現代の罪にまみれた私たちのためでもあるのです。罪に陥れば陥るほど憐れんでくださる神さまの思いを、イエスさまの十字架に見ていきたいのです。そのところを、新約聖書の中で最も単純、明瞭に証言しているペテロの第1の手紙から見ていきたいと思います。


U 十字架の救いは

 ペテロはイエスさまの一番弟子として知られています。誰よりも早くイエスさまの弟子になり、弟子たちの中で重要な信仰告白をしたのも彼です。十字架の事件ではイエスさまを知らないと否定して逃げ出した彼ですが、それだけに、イエスさまの十字架の悲しみと意味を誰よりも重く受け留めたのでしょう。イエスさまを天に送った後、誕生した初期の教会で、最も重んじられた指導者でした。

 この第1の手紙は、ペテロから小アジヤ(現在のトルコ東部地域)にあるいくつもの教会に宛て、紀元62〜3年頃、ロ−マから書き送られたようです。当時、小アジヤの諸教会は、ロ−マの退役軍人によって建設された植民都市に建てられていましたが、そこに住むロ−マ人たちは、快楽的な生き方を、それこそローマの価値観でしたが、当然のこととしていました。ところが、彼らの中から生まれたクリスチャンたちは、全く違う価値観を持ち始めました。ロ−マ人たちは彼らの生き方を見て、自分たちの生き方が否定されたと感じたのでしょう。迫害が始まります。そんなローマ人を主人に持つ奴隷たちの中からと思いますが、殉教という犠牲者が出ます。次第にエスカレ−トしていく迫害の中で、クリスチャンたちが、どのように信仰を守り、教会を純粋に保つことが出来るのか、ロ−マの大先輩ペテロに相談したのでしょう。ペテロからの励ましがこの手紙になって届きました。そんな事情からでしょうか、この手紙は非常に思いやりに満ちたものになっています。ペテロは痛み、苦しんでいる彼らをいたわりながら、イエスさまに信頼し委ねなさいと薦めます。特に24節ですが、「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたはいやされたのです」とあります。ここから大切な3つのことを考えてみたいのです。

 第1に、聖書には、イエスさまが十字架に死んでくださったことによって私たちが救われたと、鮮明に主張されていることです。「私たちの罪をその身に負われた」とは、<身代わり>です。これまで何回も言ってきたことですが、本当は、罪を犯した私たちが死ななければならないのです。しかし神さまは、イエスさまが身代わりに死んでくださったから、イエスさまのあなたに対する弁護を受け入れようと言われるのです。これは神さまご自身が立てられた救いの計画でした。

 第2に、十字架は、イエスさまが死んでくださったことだけが強調されているようですが、そこに死に伴う苦しみがあったことも忘れてはなりません。「打ち傷」という言い方に、大祭司の庭で鞭打たれ、十字架の上で血を流すイエスさまを、離れたところからずっと見ていたペテロの痛みが伝わってくるようです。<イエスさまはこんな私の罪のために苦しみ抜いてくださった>と、これはペテロの実感だったでしょう。イエスさまは、あらん限りの力を込めて、私たちの罪と戦われたと伝わってきます。だからこそ十字架は、罪への勝利になったのです。ヘブル書に「あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません」(12:4)とありますが、罪ある私たちが戦わなければならなかったその戦いを、私たちに代わって血を流し、いのちを犠牲にするまで戦ってくださった。十字架の死には、それほどまでのイエスさまの愛が込められていると覚えて頂きたいのです。


V 十字架の上で

 第3に、「自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました」とありますが、「ご自分から進んで」とはペテロの証言です。十字架のもう1つの中心です。「主のしもべの苦難」を描いている旧約聖書のイザヤ書53章に、「彼は自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する」(11)とありました。

 <主のしもべ>とはイエスさまのこと、ここに言われる「満足」とはイエスさまの喜びです。驚くことに、神さまご自身であるイエスさまが、私たちの罪のために死ぬことを喜びとしてくださったと言われるのです。永遠から永遠に存在し給う神さまにとって、死ぬということはあり得ません。ところが、死ぬことのないお方が、その死を喜んで受け入れてくださった。神さまがどんなに私たちを愛し、惜しんでくださったか、<喜んで>とあるそこに、わが子への愛、どんな犠牲もいとわない神さまのお心が見えるようではありませんか。阪神・淡路大震災の記念日を迎え、倒壊した家屋の中で、自らが犠牲になってまで子どもを助けたといったニュースがいくつもいくつも伝えられています。それがその人の精一杯の愛情だったと疑う人はいないでしょう。それなのに、イエスさまのことは疑うのです。イエスさまは、私のため、あなたのため、重大な罪を重ねた者のために、ご自分のいのちを投げ出し、十字架にかかってくださったのです。その犠牲の愛をどうして疑うのでしょう。十字架の上で、ご自分を十字架につけた者たちのために「彼らをお赦しください」と祈ったイエスさまこそ、信じるに足るお方ではないでしょうか。