14/36回  <イエス・キリスト>5     

愛のうちに歩め

旧約聖書 詩篇 49:14−15

 彼らは羊
のようによみに定められ、死が彼らの羊飼いとなる。朝は、直ぐな者が彼らを支配する。彼らのかたちはなくなり、よみがその住む所となる。しかし神は私のたましいをよみの手から買い戻される。神が私を受け入れてくださるからだ。
新約聖書 エペソ 4:32−5:2

 お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。また、愛のうちに歩みなさい。キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物とし、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。

T 愛なる神さま

 「愛すること」を私たちの信仰の主題にしたいと願いました。Tヨハネ4:16「神は愛です。……」から、なぜ神さまが愛なる方であるかを問い掛けてみたのですが、ひとつのことがはっきりしたのではないかと思います。神さまは天地万物の創造者、私たち人間をお造りになった方ですから、私たちとは全く異なる聖なる方、つまり私たちとは区別されるべきお方であるということです。その聖なる方がイエス・キリストとなって、私たちを罪から救うために、罪あるものとして十字架に死んでくださった、それが「神は愛である」ということの内容と理解いたしました。つまり、神さまがご自分を変えてくださったのです。その意味で、キルケゴ−ルの「愛とは愛する者のほうを変化させることではなく、自分の方を変えることである」という言葉は、神さまご自身のことを語っていると理解したのですが、今回は、その愛をもっと具体的に覚えていきたいと思います。

 エペソ書5:1−2からです。「ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。また、愛のうちに歩みなさい」、続きに「キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました」とあります。

 これまで、イエス・キリストのことを4回見てきましたが、その中で「十字架」が中心であると何回もお話してきました。しかし、核心にまで触れなかったのではという気がしてなりません。今回、テキストのエペソ書に「キリストもあなたがたを愛して……」とありますので、イエスさまを信じる信仰の最も大切な十字架を、できれば今回と次回、2回に分けて見ていきたいと思います。愛することを覚えていくために、イエスさまの十字架が何よりも大切ですし、それが救いの中心、キリスト教の中心でもあるからです。


U 神さまへのささげ物として

 イエスさまの十字架をお伝えしようとしますと、「何故、イエスさまの十字架の死が私たちの救いなのか」という福音の根本問題に触れないわけにはいきません。今回はそのことを取り上げていきたいと思います。初めに、旧約聖書に現れた神さまの救いということから見ていきましょう。イエスさまの十字架は、ずっと昔の、旧約時代の祭儀律法に言われている神さまの救いの約束を引き継いだもので、その約束がイエスさまにおいて実現したということです。祭儀律法などと、現代の私たち日本人にはほとんど関係がなく、イスラエル宗教の儀式的な部分が中心ですので分かりにくいと思いますが、できるだけ簡単にお話しするつもりですから、少しだけご辛抱ください。

 旧約聖書、詩篇 49:15からです。「買い戻される」とありますが、聖書ではほとんどが「贖い」ということばになっています。これは聖書・キリスト教の中心用語と言って良いでしょう。神さまの救いの約束は、罪をあがなうという意味で「贖罪」と呼ばれています。少し説明しておきますと、旧約聖書でもかなり古い時代、モ−セの頃ですが、律法(主にレビ記ですが)に「祭壇に罪の贖いとして雄牛や雄羊などの獣を犠牲としてささげる」ことが規定されていました。レビ記は祭司など専門家向けの規定ですから、素人の、しかも外国人の私たちにはなかなか分かりにくいのですが、このように言えばいくらか理解出来るのではないかと思います。 「あなたがたの犯した罪のために、本当はあなたがたが死ななければならないのだ。しかし、あなたがたの代わりに獣を祭壇にささげ、その血を流すならば、その犠牲をわたし (神さま)は受け入れよう。そして、あなたがたの罪を赦す。」

 これが旧約聖書に言われる贖い・救いでした。奴隷を自由にするためにお金を払って買い戻すことにも「あがない」が使われるようになりました。それが、奴隷とは罪の奴隷のことであると内面的に煮詰められて、罪からの自由に転化され、罪を犯した者はその赦しのために何らかの代価を支払う、それが贖罪となったのです。何らかの代価と言いましたが、絶対・聖なる神さまの聖と人間の罪とは全く相反するものでしたから、私たちが神さまに罪を問われるとき、それは、パウロが「罪の支払う代価は死である」(ロマ6:23)と言うように、死をもって償わなければなりませんでした。「罪を犯した者は死ぬ」というのが神さまに対する人間の絶対の責任だったのです。ところが神さまは、祭壇の上にささげた獣の犠牲をあなたの身代わりに認めよう申し出てくださいました。ご自分の民イスラエルを惜しんでくださって、「あなたの罪を赦す」と言われた神さまのあわれみが、儀式にしか見えないイスラエルの祭儀律法の中心になりました。詩篇 49:15の「よみの手から買い戻される」も、羊など獣を祭壇にささげるという形に現れる贖いではなく、神さまの本質的な愛の現れを言っていると思われます。その神さまの犠牲愛が動物のシンボルではなく、本物となるために、イエスさまのおいでを待たなければなりませんでした。祭儀によって罪を赦すということでは心許なく不透明な部分がイスラエルにあり、神さまは祭儀ではない方法を明らかにする時を待っておられたのです。


V 愛のうちに歩め

 そして、時満ち、待っておられたことがイスラエルに起こり始めます。イスラエルの礼拝が、祭儀中心から新しい形に変化し、祭儀そのものへの意識変化が始まりました。

 イスラエルは長い間、祭壇に犠牲を献げるという礼拝を続けてきました。アブラハムの頃には戸外に築いた祭壇を囲み、放浪の時代には天幕の聖所にしつらえた祭壇に向かって、そして、ユダヤ人が今も聖なる都と恋い慕っているエルサレムの神殿において。祭司が立てられ、特に大祭司は年に一度、すべての民の贖罪のために、神殿の最も聖なる場所・至聖所に入って犠牲をささげ、神殿の外で集まっている民衆のためにとりなしの祈りをしました。それが彼らの礼拝でした。ところが、それがいつの間にか単なる宗教的儀式、習慣になってしまい、本来の神信仰より、自分たちは神の選民であるというプライドと、そのためにモ−セの律法をもっと厳守しなければと、もともとありもしない細かな規定を上乗せしていくようになります。そして、バビロン捕囚以後と思われますが、そんな形式的祭儀礼拝に代わって、ユダヤ人会堂(シナゴグ)での賛美と祈りと聖書と説教という礼拝が誕生しました。遠く外国に移されて、エルサレム神殿に詣でることが出来なかったためでしょうが、ここに別の重大な理由、形式的祭儀礼拝への失望が芽生えたのです。神さまへの不信仰が、そうした祭儀礼拝の中で飽和状態に達したのかも知れません。その失望の中からメシヤ信仰、救い主を待ち望む信仰が燃え上がってきました。本当の神さまの助けが欲しかったのです。イスラエルは私たちの雛形ですが、彼らの、そして私たちの神さまへの不信仰、「神さま、こんな私たちを助けてください」という悔い改めの祈りと期待、それこそ神さまの待たれた時でありました。

 イエスさまが来られたのは、イスラエルのそんな不信仰と期待がせめぎ合い、混乱が極みに達した時でした。そして、その混乱の時代は、現代の私たちの時代とも言えましょう。「無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを……」(4:31)は、当時の状態ばかりではなく、現代の私たちの状態でもあると聞かなければなりません。イエスさまは十字架にかかるために私たちのところにおいでになりました。もの言わず、贖罪の意志など全く持たず、祭壇で焼かれて消滅してしまうだけの羊や牛のような犠牲ではなく、私たちを愛し、私たちの罪を赦そうと身代わりになる断固たる意志を持って、神さまご自身・唯一身代わりに罪を赦すことの出来るお方として、本物の犠牲になってくださったのです。「キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし」とある通りです。愛とは、そんな犠牲を伴う赦しのことでしょう。イエスさまに倣う者になりたいですね。互いに親切にし、心の優しい人となり、赦すことを覚えていくことで、愛のうちを歩んでいきたいのです。