13/36回 <イエス・キリスト>4

愛することを

旧約聖書 エレミヤ 31:3

 主は遠くから、私に現われた。
「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに誠実を尽くし続けた。」
新約聖書 Tヨハネ 4:15−17

 だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。このことによって、愛が私たちにおいても完全なものとなりました。それは私たちが、さばきの日にも大胆さを持つことができるためです。なぜなら、私たちもこの世にあってキリストと同じような者であるからです。
T 愛とは……

 「神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます」
 今年は、愛ということを私たちの信仰の主題にしていきたいと思います。愛を選んだ理由は2つあります。ひとつは、私の中に決定的に愛が欠けているのではと思い知らされたからです。大好きな本、キルケゴ−ルの「哲学的断片」の中にぎくっとさせられることばがありました。「しかし、愛とは愛する者のほうを変化させることではなく、自分の方を変えることである」 いつの間にか、まわりの誰彼に「あなたが変わらなければ……」と、厳しい目を向けていた私、この私が変わるほど、愛することを覚えたいと願ったからです。そしてもうひとつ。イエスさまを信じバプテスマを受けて加わって来られる方たちの信仰の第一歩は、なんと言ってもイエスさまの愛に触れることから始まるからです。イエスさまの福音の全容を知って頂きたいとこのシリ−ズを始めましたが、理詰めで隙のない知識が信仰の本当の姿ではありません。イエスさまが十字架に死んでくださったのは、あなたのキリスト教理解のためではなく、あなたの罪を赦し救うためです。それは、あなたが永遠の滅びに至らないよう、あなたの魂を惜しんでくださっているからにほかなりません。その神さまの愛の深さを、覚えたいのです。
 愛を語っている聖書の箇所は多いのですが、Tヨハネ4:16から見ていきましょう。


U 愛なる神さま

 第1ヨハネ4章は愛の章句として知られています。特に7節からですが、「愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。……」と語るヨハネの愛への関心には並々ならぬものがあります。このときヨハネは90才を超え、エペソ教会の牧師をしていたようですが、面白い逸話が残っています。すっかり老人になったヨハネは、説教をするために講壇に上がるにも、弟子たちの手を借りなければならないほどでした。そのヨハネが講壇に上がるといつも、「主があなたがたを愛してくださったのだから、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と、ひとことそう言って降りてしまう。いつも同じなので弟子たちが、「先生。たまには他のこともお話しください」と頼むと、「これだけで十分である。主は私たちを愛して十字架におかかりになってくださったのだから、私は主の愛だけを語りたいのだ」と答えたと伝えられます。彼は福音書の中で自分のことを「主が愛した弟子」と記しますが、イエスさまからボアネルゲ(雷の子)と呼ばれたほど気性が激しく、十二弟子たちの中で多分一番若かったヨハネは、その奔放だった若い頃を、イエスさまのそばにいて愛された幸せを、思いっきり感じていたのかも知れません。パトモス島に島流しにされたこともありましたが、他の誰よりも長く生き、主の教会の祝福される様子を見届けた人でした。その彼が、主を信じる信仰の最も深いところは、私たちを愛してくださった主の「愛」に留まることであると、彼なりの信仰の奥義にたどり着いたのだと思わされます。

 神は愛である、と言われます。その愛を彼は、「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです」(4:9−12)と証言しています。きっと、「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに誠実を尽くし続けた」(エレミヤ31:3)という神さまの誠実が、イエスさまの十字架に凝縮されているとヨハネは証言しているのでしょう。

 もちろん、神さまのことをそれだけで語り尽くすことはできません。神さまは創造者であり、全智全能のお方です。その聖なることは、どんなに主張しても尽くすことができない大切な神さまの本質ですが、十字架だけが、神さまの愛、あわれみ、救い、赦しを語ってあまりある出来事であり、私たちが見ることのできるたったひとつの神さまの業です。ヨハネはそのように神さまの愛を十字架に見ていたのでしょう。だから、その愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにいるとまで言い切ったのでしょう。


V 愛することを

 イエスさまのことで覚えて頂きたいことがあります。イエスさまは神さまと私たちとの間に立つ仲保者であるということです。仲保者、仲裁者、弁護士と言ったら良いでしょうか。アダム以来、人間は神さまと仲たがいしている状態であって、神さまと共に住んだエデンの園・神さまの国パラダイスに戻りたいと、どんなに願っても叶わぬことでした。それは神さまの深い悲しみでした。もともと、神さまがご自分のかたちに人をお造りになったのは、創造された神さまの世界に最高の調和を与えるため、造られたものの中心となるべき美しい役割のためでした。仲たがいの原因は人間にあるのです。神さまに反抗した人間の罪が、神さまとの間に溝を作って、そこから妬み、高慢、偽善、憎しみ、あらゆる醜いものが、現代の私たちの中にも、育ってしまったのです。罪、その罪は、年を重ねる毎に重く、深くなっていくように感じられてなりません。私たちが聖なる神さまに近づいていくことは、時代が経つほどむつかしく、神さまから遠く離れて好き勝手に、自分たちだけで生きていると勘違いし、神さまを悲しませているのです。しかし神さまは、人間と和解したいと願い、その実現に周到な準備を重ねて来られました。旧約聖書に描かれているイスラエルの歴史は、その神さまの準備の期間に見えます。時代時代に預言者を通して語り、ことあるごとに和解の条件・内容を積上げ、その時の来るのを待っておられたのです。そして時が満ち、イエスさまが和解の仲裁に立たれました。それは、十字架にかかって私たちの罪を背負い、本来、自分の罪のために神さまの裁きの座に着き、死ぬ筈だった私たちのために、「この人に代わって、わたしが死にました」と弁護してくださるのです。

 どうぞ、イエスさまのことを覚えてください。イエス・キリストは、十字架の苦難をご自分から負ってくださった神さまご自身でした。私たちへの思いが溢れて十字架に、それが愛でした。まさに「愛とは愛する者のほうを変化させることではなく、自分の方を変えることである」と哲学者キルケゴ−ルが鋭く洞察したのは、神さまの出来事であったと聞こえてきます。神さまご自身が変わってくださったその愛を覚えて、不誠実な私たちもまた、人を愛することで誠実な者になっていきたいと心から願います。