12/36回  <イエス・キリスト>3

聖なるお方が

旧約聖書  イザヤ 7:14

 
それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。おとめがみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。
新約聖書  ルカ  1:26−38

 ところで、その六ヶ月目に、御使いガブリエルが神から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来た。この処女はダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリヤといった。御使いは、入って来るとマリヤに言った。「おめでとう恵まれた方。主があなたとともにおられます」しかし、マリヤはこのことばにひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。すると御使いが言った。「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。ご覧なさい。あなたはみごもって男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません」そこで、マリヤは御使いに言った。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに」御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者神の子と呼ばれます。ご覧なさい。あなたの親類のエリサベツもあの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六ヶ月です。神にとって不可能なこおとは一つもありません」マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞあなたのおことばどおりこの身になりますように」こうして御使いは彼女から去って行った。
T ご降誕

 イエスさまのお生まれについて、2つのことを見て来ました。「インマヌエル(神我らとともにおられる)」なる方、また、永遠の昔からの神さまのご計画により時満ちてお生まれになった方として。自分のことだけで精一杯で、神さまなど覚えようともしない私たちのところに、ご自分の民として御国に招き入れようと、救い主イエスさまを送ってくださったのです。今回はそのご降誕からもうひとつ聞いていきたいと思います。

 イエスさまが乙女マリヤより生まれたということです。処女降誕、いかにも不思議な出来事ですが、宗教の教祖だから奇跡として脚色してあるとさえ言う人もいます。又、現代の学者の中には、医学的には稀だけれども、単性受胎がないわけではないと、そんな合理的な見方をしたい人もいるようです。けれども、この処女降誕を、イエスさまを神秘的人物に仕立て上げるためのでっち上げと片づけてしまえるでしょうか。聖書の主張にはもっと別の意味があって、この不思議が記録されているようです。


U 神さまご自身である方が

 約束のメシヤが乙女から生まれるという預言があります。
 「見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産む」(イザヤ7:14)
 これは BC730年頃の南ユダ王国アハズ王に向けて語られたことばです。アハズ王は「彼の神、主の目にかなうことを行なわず、異邦の民の忌みきらううべきならわしをまねて、……」(U列王記16:2−3)と言われ、悪王のひとりに数えられます。あるとき、シリヤと北イエスラエル王国が同盟を結んで戦いを挑んできました。一度はこれを退けますが、彼らは完全には撤退せず、エルサレムにほど近いところに陣を構え、再び戦いを挑もうとします。一度はようやくの思いで勝った。しかし、2度となると、もう戦うだけの備えはない。動揺しているアハズに、預言者イザヤを通して主のことばがありました。「恐れるな。そのことは起こらない」(イザヤ7:3−9)  結局、彼は神さまを信じることができないまま短命に終わってしまうのですが、その約束に「ひとつのしるしが与えられる」と告げられたことばがこれです。「見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名をインマヌエルと名づける」 これは、アハズ王ばかりでなく、イスラエル、そして、すべての人が、「神さまがあなたとともにおられる」と聞かなければならない希望のメッセ−ジでした。その約束が長い時をかけて整えられ、イエスさま誕生となりました。

 イエスさま誕生の告知です。
 「聖霊がマリヤに臨み、男の子が生まれる。それ故その子は聖なる者と呼ばれる」
 それは、処女降誕という出来事を通して、私たちのところに「聖なる者」を送るという神さまの宣言でした。その「聖なる者」には2つの意味があります。1つは、イエスさまは神さまご自身であったということです。少し回りくどい言い方かも知れませんが、慎重にゆっくり申し上げます。神さまとイエスさま、聖書では父なる神さまと子なる神さまと区別していますが、これは同じお方であり、唯一の神さまご自身であります。その区別は神さまの職分・果たすべき役割からと言って良いでしょうか、それは私たちへの恵みからでした。その職分としてイエスさまは、十字架に死んで私たちの罪を赦し、救いになってくださいました。たとえそれが人として十字架にかかるため栄光の座から降りて来られたことであっても、イエスさまは聖なる方であり、私たちの主・神さまであることに変わりないのです。聖なる方ですから、私たちの罪を贖うことが出来ました。これは私たちがしっかりと告白していかなければならないことでしょう。

 以下、イエスさまが神さまご自身であると証言している聖書の箇所です。
 「祝福された望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエス」(テトス2:13)
 「御子についてはこう言われます。『神よ。あなたの御座は世々限りなく」(ヘブル1:8)
 「すなわち神の御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです」(Tヨハネ5:20)


V 聖なるお方が

  聖書は何度も何度もイエスさまは罪のないお方であったと証言していますが、聖ということを具体的に言うと、もともと罪のないお方、神さまご自身であったということですが、ほかにもうひとつあります。旧約時代に最も重要な神さまへの礼拝行為は、祭壇を造り、その上で羊や牛などの犠牲を献げることでした。それが罪の贖いであり、感謝であり、祈りだったのです。祭壇こそ神さまと人間を結ぶ信仰の中心でした。その祭儀中心の礼拝がエルサレムの神殿で行われていましたから、イスラエルの人たちはエルサレム、エルサレムと恋こがれてきたのです。もっとも、旧約時代も下って来ますと、シナゴクと呼ばれる集会所で聖書を読み説教を聞くという形の礼拝が行われるようになり、これが現在のキリスト教会の原型になったと言われています。それはともかく、祭壇に犠牲を献げるということですが、人々の罪の贖いのために傷のない羊や牛が用いられ、それは神さまの聖なる部分を現わしていました。傷のない羊や牛に贖罪の力があったわけではなく、聖なる神さまに命ぜられ、そのように行なったことが罪の赦しにつながったのです。神さまのことばが「聖」の実体でした。聖とは区別されたものという意味で、祭壇に献げる動物たちを「神さまのもの」として区別したのです。それがイエスさまの十字架に象徴されました。

 十字架のイエスさまのことは別に取り上げるとして、今回はイエスさまのお生まれを考えてみました。イエスさまは聖なる方・神さまご自身であると、処女降誕という不思議をもって宣言され、その聖なるところを私たちのために捨ててくださったと宣言されたのです。その神さまの宣言に、私たちは誠実に応えなければならないでしょう。