1/36回 <神さま>1

十字架の主こそ

旧約聖書 出エジプト記3:13〜15

 モ−セは神に申し上げた。「今、私はイスラエル人のところに行きます。私が彼らに『あなたがたの父祖の神が、私をあなたがたのもとに遣わされました』と言えば、彼らは『その名は何ですか』と私に聞くでしょう。私は何と答えたらよいのでしょうか。」
 神はモ−セに仰せられた。「わたしは、『わたしはある』という者である。」 また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた』と。」
 神はさらにモ−セに仰せられた。「イスラエル人に言え。あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主が、私をあなたがたのところに遣わされた、と言え。これが永遠にわたしの名、これが代々にわたってわたしの呼び名である。」
新約聖書 ヨハネの福音書6:16〜21

 夕方になって、弟子たちは湖畔に降りて行った。そして、舟に乗り込み、カペナウムのほうへ湖を渡っていた。すでに暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのところに来ておられなかった。湖は吹きまくる強風に荒れ始めた。こうして、4、5キロメ−トルほどこぎ出したころ、彼らは、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て恐れた。しかし、イエスは彼らに言われた。「わたしだ。恐れることはない。」 それで彼らは、イエスを喜んで舟に迎えた。舟はほどなく目的の地に着いた。

T 日本人の神観念

 はじめまして、これからキリスト教ABCのお話しをさせていただきます。
 まず、神さまということでお話しいたしましょう。
 神さまと聞いてほとんど関心を示さない日本人ですが、世界の中でも理解し難い不思議な民族と言われているようです。アラブ人などが「どうして?」と、その存在や、神さまがいかに大切な方であるかを、口角あわ飛ばして何時間もまくしたてるという話しを聞いたことがあると思いますが、あなたはいかがお考えでしょうか。

 これから聖書に記されている神さまのことをお話していくのですが、その前に、どうして日本人が神さまと疎遠になってしまったのか、そのあたりのことから考えていきたいと思います。簡単にですが、日本人の神概念に混在しているものを大きく5つに分けてみました。

1、古事記や日本書紀などに現れる八百八万の神という神話的なもので、多神教と言われる神概念です。天皇制などの中に今でも立派に生きています。

2、第2にこの考え方が最も古いと思われますが、汎神論と呼ばれるもので、「いわしの頭も信心から」といったたぐいのものです。神宿ると思えば何でも神になってしまう。大木や巨石に締め縄をはったり台所や玄関にお札をはっている光景は、如何にも日本的だと思われます。これも又現代に堂々と生きています。

3、神は「お上」から来ているという説です。お上の言うことは絶対という、極めて現実的合理的な生活感覚の中で出来上がった封建時代の産物でしょう。これも、未だに日本人の意識の中にしっかりと根を降ろしているようです。

4、そして祖先崇拝です。主に仏教に基づいているのでしょうが、神社と仏閣が仲良く手を握った江戸時代以来、神仏混合(シンクレティズム)で、神と仏の区別や境界線が全くぼやけてしまいました。その違いの説明は、プロの宗教家にも難しいのではないでしょうか。私の好きな人に浄土宗の祖・法然がいますが、彼の一枚起請文に、「ただ 念仏申さば本願すべし」とあります。 阿弥陀仏への絶対的帰依ですが、絶対者信仰という点でこれはもう神さまです。

5、これが日本人にとって一番新しい出会いですが、キリスト教の神さまという唯一神の観念です。

 そして、最近のカルト宗教の神観念も加わります。このように見ていきますと、訳が判らなくなって来ますね。日本人に無神論者が多いのもこんなところに原因があるのでしょう。


U 実在し給う神さま

 しかし、現代、神さまと人間との距離は本当に遠いのでしょうか。或る意味では確かにそうでしょう。それは、人間の罪がそうさせているのですが、神さまは遠いお方、いや死んだ神さまであるとするキリスト教神学さえ生まれているほどです。

 2つの方向から考えてみる必要があります。神さまの側からと人間の側からです。人間の側からは別に取り上げたいので今回のテ−マからはずしますが、大筋を言えば、神さまが遠いとは人間の側からのことです。今回は神さまの側から、視点を神さまに向けて考えていきたいと思います。

 神さまはどのようなお方か、創世記の冒頭には、「初めに神天地を創り給えり」と記されていて、神さまは天地万物の創造主、全知全能、愛なる方、聖なる方と聖書はいろいろに証言していますが、今回は1つのことだけを見ていきましょう。出エジプト3章のテキストにある証言です。イスラエル民族はエジプト新王朝時代のBC1450〜1230年(2つの説があって年代にこれくらいの幅がある)にエジプトの奴隷になるのですが、その圧政下からエジプトを脱出します。その時、指導者モ−セが神さまに召し出されてイスラエルのところに行けと命じられ(3:10)、そこでモーセは「今、私はイスラエル人のところに行きます。……」 しかし、私を遣わした方の名前が知りたいと、神さまの名前を聞きます。神さまは、「わたしは『わたしはある』という者である」、「わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わしたと言え」、15節には「主が私をあなたがたのところに遣わされたと言え。それが永遠にわたしの呼び名である」と答えられました。

 この15節からですが、今、私たちはこの神さまを主と呼んでいます。新改訳聖書では太文字でとなっていて、それを神さまのお名前と理解しているのです。文語訳ではエホバとなっています。もともと子音だけの4文字で現わされていたものが、「主の名をみだりに唱えてはならない」と十戒にあるところから発音しなくなり、ついにその発音を忘れて、ユダヤ人たちは長い間これを聖なる4文字と呼んでいました。母音のつけ方でエホバになりますが、現在、学者たちはヤ−ウェと読むのが正しいと一致しているようです。「わたしはある」、これは英語のbe動詞にあたるもので、 I am.です。欽定訳では I am that I am. となっています。神さまだけに用いられる<存在を主張することば>です。ヤ−ウェとはこの I am. から派生し名詞化したものであろうと考えられています。神さまの絶対主張の一つ、「わたしはいる」がここの主張であって、聖書の神さまを考えるときの重要なポイントでしょう。聖書は神さまがいるかいないかの議論を全くしていません。唯一神さまがご自分の存在を主張されているのがこのところです。

 そして、1つ理解して頂きたいのですが、私たち人間は神さまの存在を証明することができないのです。確かに自然を見てそこに神さまの手が働いていると感じますが、1つ間違うと自然を神さまと誤解してしまうことになりかねません。神さまの存在は神さまご自身の主張、神さまが今も働らいておられることと、聖書という特別な啓示を通して聞かなければなりません。私たちが聖書から、神さまの実在とそのなさることを、私たちへの教えとして見ようとするのはそこなのです。出エジプト記3章14−15節はその意味で、聖書全体の縮図と言えましょう。世界中の多くの人たちが、この点で神さまへの信仰を告白しているのです。そしてこれは、日本人にどうしても理解できない部分であろうかと思われます。それは、日本人の神理解が、人間が中心になって造り出した”空想の存在”だからでしょう。神さまが実在すると受け止めることが、神さまに近づく第1に重要なことです。


V 十字架の主が

 けれども、神さまが実在するというだけで、神さまへの信仰が生まれてくるというのは少し乱暴な期待ですね。その実在する神さまが、私たち人間にどう関わっているのか、それを突き止めて始めて神さまが私たちにとって重要な問題となって来るのでしょう。

 モ−セがイスラエルを救い出そうと神さまから遣わされたのは、ひとつのシンボルです。イスラエルがエジプトから救い出されたように、現代の私たちも救い出されなければならないところにいる、罪の世界からであると聖書は語っています。イエス・キリストが十字架に死なれたのは、そのためであったと私たちクリスチャンは告白してやみません。イエスさまのことばを聞いてみましょう。

 ヨハネ6:20に「わたしだ。恐れることはない」とありますが、この言い方は、「わたしは道である」(ヨハネ14:16)など他にもたくさんあります。イエスさまはご自分のことを、「わたしは〜である」 I am. と言われ、つまり、存在を主張する神さまご自身であると言っておられるのです。そのイエスさまが、人間をお造りになった神さまご自身として十字架にかかり、そうすることで私たちと関わり、罪を赦すという愛を注いでくださったのです。「恐れるな」とは信仰の勧めです。実在される神さまとして、私たちを祝福してくださったのがイエスさまの十字架の出来事です。私たちが自分の生き存在していることの意味を問う時、十字架を通してその存在を主張された方のことを考えないでは、決してその答えは出て来ないでしょう。

 私たちの全人格は、十字架にかかって罪を赦してくださったイエスさま、その実在の神さまとの関わりから意味あるものとなって来るのです。神さまと疎遠でこと足れりとする現代人であっていいわけではありません。