ヨハネによる福音書・補

Aiming over one step

私たちの主は


<ヨハネ 2:23−25>
23イエスが、過越りの祭の祝いの間、エルサレムにおられたとき、多くの人々が、イエスの行われたしるしを見て、御名を信じた。24しかし、イエスは、ご自身を彼らにお任せにはならなかった。なぜなら、イエスはすべての人を知っておられたからであり、25また、イエスはご自身で、人のうちにあるものを知っておられたので、人についてだれの証言も必要とされなかったからである。

<創世記 3:8−10>
8そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。9神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたはどこにいるのか。」10彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」


1、しるしを信じた人々

 今朝のテキストは、「イエスが、過越りの祭の祝いの間、エルサレムにおられたとき」(23)と始まりますが、この短いテキストは、エルサレムでのイエスさまを描こうとする、ヨハネ特有の記事(三章)に対する、序文の役割を果たしているようです。過越の祭りは、ニサンの月(ユダヤ人の正月)十四日の夜に行われる「過越の食事」が中心の、一日だけの祭りですが、その翌日から一週間、種入れぬパンの祭りが続きますので、それも含めて「過越の祭り」と呼ばれ、その期間中に三章の終わりまで続く出来事がありました。

 「多くの人々が、イエスの行われたしるしを見て、御名を信じた」(23)とあります。
 三章に続く記事を読み解くキイワードは「しるし」です。「しるし」がイエスさまを信じる信仰の重要な要素の一つとして上げられている。その意味でこの記事は、「カナの奇跡」に続くものなのです。「イエスはこのこと(水をぶどう酒に変えた)を最初のしるしとしてガリラヤのカナで行ない、ご自分の栄光を現わされた。それで、弟子たちはイエスを信じた」(2:11)という先のヨハネの証言も、今朝のテキストを読んで初めて理解することができるでしょう。23節では「しるし」がどんなものなのか触れてはいませんが、カナでの奇跡に類似することがエルサレムでも行われていたと考えていいでしょう。
 この時期、福音の伝播は「しるし」に負うところが大きかったのではと思われます。
 その通りに、多くの人たちが「しるし」を見てイエスさまを信じました。

 きっと、その「信じた」という彼らの思いに嘘はなかったのでしょう。
 ところが、人間というものは、それほど単純ではありません。彼らはたちまちのうちに変心してしまうのです。ユダヤにはこれまでにも、自称他称の多くのメシアが出て来ましたし、そのほとんどは、エルサレムを舞台に、多くの人たちを巻き込んではローマに反抗し、破局を繰り返していました。そんなことが彼らの心にこびりついていたのかも知れません。

 二章13〜22節に、十字架直前の最後の一週間の始まりである宮清めの記事が、先取りするように挿入されていますが、その日、ロバの子に乗ったイエスさまがエルサレムに入城したとき、多くの群衆がシュロの葉を打ち振って「ダビデの子にホサナ」と叫んでいる。なのに反面、エルサレムの住民は「いったいこれは何事か。この男は誰なんだ」と冷めた目でイエスさま入城を眺めているのです(マタイ21:9-10)。それを聞いた群衆も、たちまちのうちに打ち振っていたシュロの葉を投げ捨てて、冷たい視線の仲間入りをしてしまう。しかし、そんなことはなかったかのように、エルサレム入城の記事を、ヨハネは十二章に淡々と記録していますが、その時の人々の(現代人も含めて)冷たい視線を、この宮清めの記事で描いているようです。
 23節に登場する人々の、「信じた」という記事は、そんなすぐに心変わりする人々のことでもあるのだと、ヨハネの冷めた目が注がれているように感じさせられるではありませんか。

2、大切なことは?

 そんなエルサレム住民のことを、イエスさまご自身が知っておられました。
 「しかし、イエスは、ご自身を彼らにお任せにはならなかった。なぜなら、イエスはすべての人を知っておられたからである」(24)とある。

 奇妙な訳の「任せなかった」(新改訳)は、人々がイエスさまを「信じた」(23)と同じことばに否定語がついたものですので、新共同訳の「信用しなかった」がいいのかも知れませんが、そう訳しますと、ヨハネの意図するところがちょっと薄っぺらに聞こえてしまう。ここは少々奇妙な訳であっても、従来、文語訳や口語訳などが訳して来たように、新改訳の「任せなかった」とするのがいいようです。訳としては可能なのですから(岩波訳参照)。
 「任せなかった」と訳しますと、先に少しだけ触れた多くのユダヤ人が、メシアと目されるイエスさまを武力闘争の指導者に担ぎ上げようとしている背景が浮かんで来るようです。
 当時、出て来たたくさんの自称他称のメシアは、人々に担がれて「みこし」となり、武力闘争によってローマ支配から脱しようとしていました。そんなユダヤ人の反抗心や闘争心が多数の暴徒を生みだし、やがて、紀元七十年のユダヤ戦争に敗北し、ユダヤという国の消失へとつながってしまうのです。そう聞きますと、「なぜなら、イエスはすべての人(の思い)を知っておられたからである」と続くことばには実感がこもっていると感じられます。
 ヨハネは、そんな人々の思いにイエスさまが断固与みしなかったばかりか、やがてそんな人々によって十字架につけられたではないかというところまで証言しているのでしょうか。そんなヨハネの声が聞こえて来るようです。

 確かにヨハネは、「奇跡信仰」が間違いだとは言っていませんし、否定してはいません。
 けれども、その奇跡信仰が人々の、イエスさまを見る目を曇らせていたことは疑えないでしょう。イエスさまの「しるし」はご自身の内から出て来たものであって、占いとか魔術のたぐいではありません。それなのに、「しるし」だけを見る者は、その内なるところを見ることなく、見えることだけを拾い出して信じました。彼らにとって大切なのは「信じた自分」なのです。信仰の対象がイエスさまでなくてもいい。自分たちの要求に応えてくれる「メシア」ならば、その真偽を問うことはありません。ヨハネは省きましたが、イエスさま受難のときに人々が、「十字架から降りよ。おれたちを救え。そうしたら信じるから」(マタイ27:42、ルカ23:39参照)と言ったのも、そうしたユダヤ人だったからでした。
 ヨハネは、もっと信ずべき確かなことを見て欲しいと願っているのです。その願いは、現代の私たちにとっても大切なものでしょう。
 ヨハネの主張するところを見ていきたい。


3、私たちの主は

 この短い挿入文はこのように閉じられます。
 「人間について誰かに証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである」(25・新共同訳)と。
 「人」には二回とも定冠詞がついていますので、「人間というもの」くらいの意味でしょう。それは、イエスさまが人間を創造されたお方であるということがヨハネの根底にあったためと思われます(一章のロゴス賛歌参照)。彼は、イエスさまの目を基準に「人間というもの」を見ようとしている。それは恐らく、福音宣教における対象としての「人間」なのでしょう。その意味で、イエスさまがどのように「知っておられたのか」を知ることが、ヨハネの伝道者としてのアイデンテティではなかったかと思うのですが。

 新年礼拝二回目のメッセージで、「ヨハネ福音書は極めて立体的で伝道的文書なのだ」と指摘しました。その、イエスさまが知っておられた、伝道者ヨハネが理解した、「人間というもの」について二つのことを考えてみたい。
(1)、第一に、「イエスさまはすべての人の心の中を知っておられた」(24・25)とある。これは、「人間というもの」を創造されたロゴスなのだから、イエスさまは、ご自分のものとしてご存じであるという、ヨハネ自身の認識について述べた証言でもあるのです。ヨハネは、世界中の教会の人たちに、「イエスさまは創造者」という視点を提供している。特にユダヤ人は、イエスさまをメシアであろうと信じても、なお神さまより一段低いと見ていましたから、「いや、創造者ご自身なのだ」と強調する必要がありました。
(2)、もう一つのことですが、「人間というもの」は、神さまから何度も何度も繰り返し「知っているよ」と、恩寵のことばをかけられて来た者たちであるということです。
 ところが、アダムのときに、神さまのご意志にそむいたために、茂みに隠れてしまった(創世記3:8)のです。それは人間の最も根本的な問題となりました。隠れたのは、神さまに知られたくないという行為でしかありません。もともと、神さまと人には、「知っている」「知られている」という共通の認識があったのに、以来、神さまは「知っている」、人間は「知られたくない」と、その認識が変わってしまいました。今上げた25節には、ヨハネのその思いが端的ににじみ出ているように感じられてなりません。

 そもそも、ヨハネがイエスさまを信じる動機に「しるし」を持ち出したのは、ギリシャ人やローマ人の世界に教会が増え広がっていたためです。
 その世界では、神々への供儀と託宣を中心とする信仰が社会の根幹をなしていました。ヨハネは、ユダヤ人好みに「しるし」としましたが、この福音書を執筆していた時、ユダヤ人は海外在留が主流となっており、教会には、そんなユダヤ人と異邦人が混在していたのです。ヨハネには、そういった異教的要素(ユダヤ教さえも)が教会に入り込みつつあるという事情が念頭にあったのでしょう。

 人間は、自分の見たいことだけを見、聞きたいことだけを聞く。現代とても決して例外ではありません。それが宗教ということであるなら、一層そうなのではないでしょうか。

 先在のロゴスであるイエスさまは、そんな人間の証言を必要とするお方ではないと、このところには、密やかながら、イエスさまのロゴス賛歌がもう一度持ち出されているようです。一章で語られた「ロゴス賛歌」は、この福音書全編に流れるヨハネ神学の基調なのでしょう。「しるし」は、イエスさまが先在のロゴスなるお方であることを端的に物語っており、頑迷な人間が理解しやすい「証人」でもありました。本当は、「しるし」など見ずとも、イエスさまのことばや教えだけで十分なのですが、人間というもの、自分たちには能わぬ不思議を目にすることで、その先にある隠されたものを想像することが本性になっているのかも知れません。その本性が、しばしば、「隠されたもの」を誤解してしまうのですが。
 ヨハネが見て欲しいと願ったのは、「しるし」の先にあるイエスさまの実像でした。
 その実像を見て頂きたい。
 十字架に死なれた創造者にして先在のロゴス・イエスさまこそが、人間を神さまのもとに回復するお方であると、ヨハネの証言を聞いていきたいではありませんか。私たちの主は、そんな「回復」のことまでひっくるめてなにもかも「ご存じ」なのですから。


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