ヨハネによる福音書・補

Aiming over one step

75
主、共におらせたまわんことを!


<ヨハネ 17:20-26>
20「わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします。21それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。22またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。23わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて、一つになるためです。それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたことを、この世が知るためです。24父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたために、わたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。25正しい父よ。この世はあなたを知りません。しかし、わたしはあなたを知っています。また、この人々は、あなたがわたしを遣わされたことを知りました。26そして、わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。それは、あなたがわたしを愛してくださったその愛が彼らの中にあり、またわたしが彼らの中にいるためです。

<エゼキエル 34:25-31>
25わたしは彼らと平和の契約を結び、悪い獸をこの国から取り除く。彼らは安心して荒野に住み、森の中で眠る。26わたしは彼らと、わたしの丘の回りとに祝福を与え、季節にかなって雨を降らせる。これは祝福の雨となる。27野の木は実をみのらせ、地は産物を生じ、彼らは安心して自分たちの土地にいるようになる。わたしが彼らのくびきの横木を打ち砕き、彼らを奴隷にした者たちの手から救い出すとき、彼らは、わたしが主であることを知ろう。28彼らは二度と諸国の民のえじきとならず、この国の獸も彼らを食い殺さない。彼らは安心して住み、もう彼らを脅かす者もいない。29わたしは、彼らのためにりっぱな植物を生やす。彼らは、二度とその国でききんに会うこともなく、二度と諸国の民の侮辱を受けることもない。30このとき、彼らは、わたしが主で、彼らとともにいる彼らの神であり、彼らイスラエルの家がわたしの民であることを知ろう。―主の御告げ。― 31あなたがたはわたしの羊、わたしの牧場の羊である。あなたがたは人で、わたしはあなたがたの神である。―主の御告げ。―


1、一つの共同体を

 17章の長いイエスさまの祈り、今朝はその最後の部分です。
 「わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします。それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです」(20-21)と、イエスさまを信じる者たち(の教会)が「一つになる」ことが強調されていますが、これは、ローマ・ギリシャ世界に建てられていたエペソ教会に遣わされ、90歳を過ぎてなおも宣教のために懸命に働いていたヨハネの強い願いでした。「一つになる」とは、一つ組織になるということではなく、「あなた・御父がわたし・イエスさまにおられ、わたし・イエスさまがあなた・御父にいるように」聖徒たちが一つ思いとなって心を通わせることを意味します。しかし、その願いには、「一つではない」という紀元一世紀末当時の教会が陥っていた状況が反映されているようです。

 紀元一世紀末、教会はローマ・ギリシャの世界に広がっていました。その教会は、ローマ皇帝に高地ゲルマニアの軍団司令官であったトラヤヌスを迎えて、次第に激しくなって来る迫害にさらされようとしています。彼は、聖徒たち処罰の規定に、「キリスト教徒」であると認めた者に限定しましたが、一見、緩やかな規定に見えて、その実、キリスト教徒というだけで迫害の対象としたのです。そんな切り口はいかにも軍人皇帝らしいと言えましょう。当時、個々の教会はまだ小さな家の教会といった風情でしたが、世界伝道で知られたパウロの時代から四半世紀も経っており、家の教会ながら、世界各地の地域に浸透しつつあるそんな群れの影響が広く知られるようになっていました。特にユダヤ教との衝突が頻繁に起こり、そんな争いに巻き込まれたローマ市民の懸念が膨らんでいたのでしょう。皇帝承認のもとキリスト教徒迫害が本格化していきます。しかし、その迫害の本当の理由は教会側にありました。つまり、ユダヤ教とはようやく区別されるようになって、新しい宗教と目されたキリスト教会には傍目にも勢いがあったのです。キリスト教徒に改宗する人たちが非常に多かったのでしょう。きっと、教会自身もその勢いに乗じて、近隣地域の教会を統合しつつ勢力拡大に動いていました。そんな動きは、当然一つだけではありませんから、勢力拡大を目指すグループ同士の対立は避けられません。当時の教会はそんな状況下にあったものと思われます。エウセビオスの教会史は、ほとんどが異端絡みですが、そんな動きがたくさんあったことを指摘しています。教会のそんな動向は現代のカルト教団に似ています。ローマ社会が敏感に反応したのも当然かも知れません。

 地域教会の結束が強いのは、先に出来た教会が近くの町や村で働き、新しい群れが誕生するのですから、ごく自然なことです。アジヤ州の諸教会はパウロによって建てられ、エペソ教会を中心に一つ群れという意識がありましたから、ヨハネもエペソ教会に着任しますと、すぐにそれらの諸教会を巡回、牧会していたようです。当時、使徒と呼ばれる人たちはすでに亡くなっていましたから、ヨハネは大喜びで迎えられたものと思われます。諸教会にとって、彼は権威ある教師でした。ローマ・ギリシャ世界の教会から期待しつつ迎えられたヨハネは、同じ地域の諸教会が、イエスさまの愛に根ざす一つの共同体を目指すことに反対したのではなく、諸教会の「一つ群れ」になろうとする動機が醜い勢力拡大など人間的欲望であったり、激しい対抗心であったりと、イエスさまの名が冠せられた、およそ教会らしからぬ在り方に異議を唱えたということなのでしょう。そんな在り方は、信仰のことはひとまず脇に置いてとりあえず一緒に何かやりましょうとする、現代の「教会一致運動(エキュメニズム)」などにも見られます。それは、大手教団を擁するプロテスタント諸教会の世界連合体WCCから始まったのですが、ローマ・カトリック教会ばかりか、仏教やイスラムといった他宗教の教団までをも迎え入れて、奇妙なことに一緒に祈ったりしている。「世界平和のために」というのが彼らの合い言葉なのです。


2、信仰の一致のもと

 そんな状況を念頭にヨハネのメッセージを聞きますと、「彼ら(使徒たち)のことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします」(20)という表現からは、ヨハネの、ある意味、当時の諸教会に対する苦々しい思いが伝わって来るようです。ヨハネは、イエスさまが祈られた原点にまで遡って、イエスさまの共同体が何によって立たなければならないのかを明らかにしています。その一つのことは、教会は、みことばの宣教によって広がっていくのだという点です。ヨハネが、「あなたのみことば」(8、14)というところを、わざわざ「彼らのことば」と言い換えているのは、宣教に遣わされた人たちが、神さまのことばを語って、人々をイエスさまの福音に招くのだと、神さまの原則を言っている。個々の教会は、イエスさまの思いを踏襲したパラクレートスのお働きがあって、初めて、イエスさまの贖いによって建てられるのですが、その全教会は、やはりパラクレートスのお働きのもと、イエスさまを信じる信仰の一致と霊の一致とがあって、イエスさまのお名前が冠せられた一つの共同体となるのです。それなのに、本来、神さまのことばであるイエスさまの福音によって立つはずの教会が、神さまのことばをもって福音宣教に当たるのではなく、また、イエスさまを信じる信仰によってではない。儀礼化や教団化など、人数の多さと組織を武器に勢力拡大を図っているではないかと、ヨハネの苦々しい思いが聞こえて来るではありませんか。

 そして、もう一つのことは、「彼らがみな一つとなるため」と、教会が向かうべき指針を定めたヨハネの意図に見られます。ヨハネが意図した「一つ」というのは、「御父と御子が一つであるように」というその「一つ」に倣うものであると先に触れました。これは、「またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて、一つになるためです」(22-23)と更に明確にされます。イエスさまが「与えた」と言われる聖徒たちの栄光は、神さまの民とされた彼らが、神さまを賛美し、礼拝するならば、それは神さまの栄光が最高の輝きを燦めかせることであると、先週、聞きましたが、イエスさまを信じる信仰の一致がなければ、ともに祈り、賛美し、礼拝することなど出来ませんでしょう。そのような賛美、礼拝は、「イエスさまを信じる信仰の一致」もないのに、無理矢理に「世界平和」などという目的を掲げて共同作業を行なうことから生まれるものでは断じてありません。「一つに」というのは、御子と御父とが一つであるように、イエスさまを信じる者たちは、時間とか空間とか、さらに一人一人の思惑さえも超えて一つ群れなのだという、何よりもそんな神さまの願い、それは信仰共同体の設計図とでも言えるかも知れませんが、そんな思いがあり、パラクレートスがそのために働いて、初めて共有される意識と言えましょう。


3、主、共におらせたまわんことを!

 「信仰の一致」と言いました。イエスさまを信じる信仰は、神さまから出て来るもので、イエスさまと父なる神さまとパラクレートスのお働きのもと、「神さま」がくださったすべての「みことば(旧新約の聖書正典と言ってよい)」を聞き、受け入れることを総称していると言っていいでしょう。その信仰は、本来一つではなかった者が「一つにされる」大切な結び目なのです。「そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです」(21)とあり、「あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたことを、この世が知るためです」(23)とあるのは、聖徒たちの信仰が、「神さま」に愛された愛によって「一つ」になることが始まるのだと、ヨハネの宣言なのではないでしょうか。「世が信じるため」「この世が知るため」とあるのは、彼らが聖徒たちを「神さまの民」と認識することを意味しています。もはや自分たちの陣営にはいない者たちなのだと……。まさにその通りです。

 「父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです。正しい父よ、世はあなたを知りませんが、わたしはあなたを知っており、この人々はあなたがわたしを遣わされたことを知っています。わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです。」(24-26・新共同訳) 新改訳のほうが原典に近いのですが、ごちゃごちゃして分かりにくいものになっていますので、日本語としてすっきりしている新共同訳を採用しました。しかし、これは17章全体を彩っている祈りの結語と位置づけられていますので、その意味で、「共におらせてください」とあるところは、永井訳がこの結語を祝祷としたように、「共におらせたまわんことを」と訳したほうがいいでしょう。

 聖徒たちが「一つになる」その一体性は、天にお帰りになったイエスさまとの一体性をも含んでおり、それは終末・永遠のことであろうと言われて来ました。新改訳で見ますと、そのことがこの最後のフレーズに色濃く出ているようです。イエスさまは、すべての聖徒たちが、ご自分のいる所・天に凱旋して、神さまの永遠の栄光に与るよう祈りました。そして、ヨハネもまた、私たちは肉体の死でいのちの一切を終えるのではなく、天上の神さまのもとでの永遠の営みが続くのであると、究極の望みである信仰の行き先を語っています。「また、これからも知らせる」とあるのは、天上での信仰の営みのことなのでしょう。信仰は神さまとのつながりのことですから、天上で不要というわけではありません。しかしヨハネは、そんな天上におけるイエスさま共同体の一体性を先取りするかのように映し出しながら、パラクレートスの助けがあるのだと、天上へと続く地上での信仰の営みへの励ましをこの祈りに込めました。この祝祷にはそんなヨハネの思いがぎっしりと詰まっている。その「愛の使徒ヨハネ」の思いをわくわくしながら聞きたいではありませんか。今、ヨハネとともに心から願います。愛する兄弟姉妹のこの地上での歩みが、天上での永遠の営みに続きますように。主、共におらせたまわんことを。



Home