ヨハネによる福音書・補

Aiming over one step

74
聖別された者と


<ヨハネ 17:9-19>
9「わたしは彼らのためにお願いします。世のためにではなく、あなたがわたしにくださった者たちのためにです。なぜなら彼らはあなたのものだからです。10わたしのものはみなあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。そして、わたしは彼らによって栄光を受けました。11わたしはもう世にいなくなります。彼らは世におりますが、わたしはあなたのみもとにまいります。聖なる父。あなたがわたしに下さっているあなたの御名の中に、彼らを保ってください。それはわたしたちと同様に、彼らが一つとなるためです。12わたしは彼らといっしょにいたとき、あなたがわたしに下さっている御名の中に彼らを保ち、また守りました。彼らのうちだれも滅びた者はなく、ただ滅びの子が滅びました。それは、聖書が成就するためです。13わたしは今みもとにまいります。わたしは彼らの中でわたしの喜びが全うされるために、世にあってこれらのことを話しているのです。14わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。しかし、世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものでないからです。15彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします。16わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。17真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。18あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。19わたしは、彼らのため、わたし自身を聖め別ちます。彼ら自身も真理によって聖め別たれるためです。」

<イザヤ 61:10-11>
10わたしは主によって大いに楽しみ、わたしのたましいも、わたしの神によって喜ぶ。主がわたしに、救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださるからだ。11地が芽を出し、園が蒔かれた種を芽生えさせるように、神である主が義と賛美とを、すべての国の前に芽生えさせるからだ。


1、祈り、聖徒たちのために

 「わたしの栄光を輝かせてください」(1、5)と始まったイエスさまの祈りは、「世」が憎しみを込めてイエスさまに挑んで来た戦い最中の祈りであると聞かなければなりません。それは、聖徒たちへの攻撃に軸足を移した戦いとなり、パラクレートスも参戦して、「神さまの総力」を挙げた戦いとなります。その中でなのでしょう。天にお帰りになっても、イエスさまはご自分の聖徒たちを見捨てることはないのだと、ヨハネは、今、そんな思いを込めたイエスさまの祈りを書き上げようとしています。「わたしは彼らのためにお願いします。世のためにではなく、あなたがわたしにくださった者たちのためにです。なぜなら彼らはあなたのものだからです。わたしのものはみなあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。そして、わたしは彼らによって栄光を受けました。」(9-10) イエスさまはその愛を惜しみなく聖徒たちに注いでいるのですが、この祈りはイエスさまが愛する者たちのために祈ったものなのです。ヨハネは、この17章の長い祈りを「聖徒たちへのとりなし」であるとしています。それは、先週聞いたように、まさに「大祭司の祈り」と呼ばれるにふさわしいと言えましょう。「イエスさまは彼らによって栄光を受けた」とあります。先週、「神さまの栄光は聖徒たちの賛美と礼拝によって最高の輝きを輝かせるのである」と聞きました。神さまは、この広大な宇宙にあって何人(ナンビト)からも神さまであると認定される必要がなく、本来、神さまの栄光は神さまだけで完結するのですが、にもかかわらず、神さまは私たちのための神であることを願い、私たちの賛美と礼拝を強く望まれました。現代神学に「我らのための神、Gott für uns」とあるその片鱗がヨハネ神学に見られると言っていいのではないでしょうか。

 「わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ。わたしに与えてくださった御名によって彼らを守って下さい。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです」(11・新共同訳)と、聖徒たちのためのイエスさまの祈りは、「世」に残して行くことで、これから彼らの身に起ころうとしている多くの苦難に、彼らが耐えることが出来るようにというものでした。「彼ら」とは使徒たちのことなのですが、ヨハネは、ローマ・ギリシャ世界の聖徒たちをこれに重ねているのでしょう。この「世」は自分たちが策定した秩序を生きる人間中心の「コスモス」であって、神さまを知らないと嘯いたり、神さまのことは、自分たちの秩序を破壊するものであると敵対しているのですが、「コスモス」に残ったとは言え、その「コスモス」から取り出され、聖徒たちは「神さまの民」として「コスモスに属する者」とは厳然と聖別された者なのです。仲間とともに、イエスさまを天に見送ったヨハネは、自分も、神さまに敵対するコスモスに残された一人として、60有余の年をその「残された」哀しみを身に染みて味わって来たのでしょう。もうすでに、ガリラヤ湖のほとりを一緒に歩いた仲間たちは一人も残ってはいません。みんな主のもとに逝ってしまいました。出来るならば、今すぐにでも天に召されて主にお会いしたい。懐かしい仲間たちにも。きっと、長い年月を働き続けて百歳近くになったヨハネにとって、イエスさまと仲間たちに会える日が待ち遠しかったにちがいありません。「聖なる父よ」という呼び掛け、そして「御名によって、彼らを守って下さい」という祈りには、そんなヨハネの思いがにじみ出ています。


2、聖徒たちこそ我が喜び

 「聖なる父よ」とは、「コスモスのためにではなく」(9)と連動して、「コスモス」とは全く異なる、神さまだけが構築し得る聖なる世界を恋い慕う呼びかけであって、ヨハネは、聖徒たちがそこに招き入れられているのだと明らかにしています。ですから、「御名によって、彼らを守って下さい」という祈りは、〈もはや世が聖徒たちを守ることはないのだよ、神さまが味方についてくださるのだから、どうか、あなたの栄光が現わされるためにも、栄光の輝きである御名の中に彼らを堅く保持し続けてください〉というものとなっている。ここに用いられている「守る」は、「内にあるものが出ないように守る」という意味であって、「(汚されないで聖いままに)保つ」(新改訳)とか「見張る、監視する」などの訳語が用いられ、一般的に用いられる「外敵を防ぐ」という意味での「守る」とは区別されます。そういった意識ですと、「コスモス」のための祈りは、「コスモス」が「コスモス」でなくなる以外にあり得ないのではないでしょうか。そんなニュアンスを込めて、ヨハネは「コスモスのためにではなく」と言いました。神さまに敵対することを撤回しなければ、コスモスはコスモスであることに拘るからです。
 そういったことを念頭に置きながらお聞きください。

 「御名によって、彼らを守って下さい」という祈りが、「わたしは彼らと一緒にいる間、あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました。わたしが保護したので、滅びの子のほかは、だれも滅びませんでした。聖書が成就するためです」(12・新共同訳)と変化します。「人の子・地上を歩まれる神」として、イエスさまは、全力を注いで弟子たちを、ご自分につく者たちを守ってくださったのです。しかし、今、天にお帰りになるイエスさまは、その助けの手をパラクレートスに委ねようとしています。それは、「地上を歩まれる神・イエス・キリスト」が弟子たちに寄り添ったと同じように、神さまが総力を挙げてご自分の民に関わるのだという宣言なのでしょう。これは、滅びの子を別にして、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、この世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(3:16)との宣言が繰り返されているのでしょう。〈滅びの子〉と! 私たちがそうなる可能性は排除できません。

 「聖書(旧約)が成就するため」とありますから、そこには、先駆者パウロとともに、アブラハム、モーセ、イザヤ、預言者たちといった旧約聖書の義人たちを啓示者イエスさまを指し示す者として、神さまご自身が立案した私たちをサタンが支配するコスモスの暗やみから救い出すご計画を、イエスさまにおいて実行してくださり、その「救いのわざ」は、パラクレートスの助けのもと時と空間を超えて、現代の私たちにまで及ぶのだとするヨハネの壮大な神学的確信が浮かび上がって来るようです。こんなにもちっぽけな私たちが神さまの永遠を共有するのです。なんということでしょう。

 イエスさまは今、世を去ろうとしています。しかしヨハネは、その確信のゆえに、「今、わたしはみもとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです」(13・新共同訳)と、イエスさまに自分のことを重ねています。彼もまた間もなく世を去ることでしょう。もう百歳に近いのですから。彼の思いはこうです。聖徒たちを見ることこそ、自分が世を去る間際の「私の喜び」なのだと。イエスさまの喜びがそうでした。その主の喜びに自分の喜びを重ねている。その喜びは、信仰の確信となって、きっと、あとに残されるエペソ教会の人たち、ローマ・ギリシャ世界の聖徒たちの内にも溢れて行ったのではないでしょうか。


3、聖別された者と

 少しくどいくらいに、イエスさまの救いに招かれた聖徒たちは、神さまの聖なる世界に属する者であって、もはやこの「世に属する者」ではないのだと言って来ました。そのことをお聞きになった方たちは、もう、「世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないからです。彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません」(14-16)とあるところを、くどくどと説明しなくてもお分かりでしょう。イエスさまを「わが主」と信じる者たちにとって、最も重要なことは、自分の立っているところが「この世・コスモス」ではなく、神さまの聖なる世界なのだということを知らなければなりません。そのことをはっきりさせた上で、ヨハネは、もう一歩先へと歩みを進めます。

 このフレーズで、ヨハネが見ている先の一つは、「わたしは彼らにあなたのみことばを与えた」(14)というところで、聖徒たちは、「神さまのことば」に立たなければならないというものです。「あなたのみことば・神さまのことば」ということで、ヨハネは、ユダヤ人が伝統として引き継いで来た旧約聖書を意識しているのでしょう。が、すでにそのころ、マタイ、マルコ、ルカなどの福音書ばかりか使徒行伝やパウロ書簡も書き写されて諸教会に流布しており、いわゆる「新約聖書」が出来上がりつつありました。そしてそこには、ヨハネによる黙示録と福音書と書簡も加えられて行くことになるのです。それら新約聖書にどんな正典が整えられるのか、そのことは議論の最中であって、まだ未完ながらも、「神さまのみことば」に数えられて行く。いや、すでに数えられていたと言っていいでしょう。ヨハネがイエスさま福音の全容解明を意図しつつ、壮大な神学を構築し、この福音書を書いているのは、聖徒たちの信仰にとって「カノン(基準・正典)」となるべきものを遺しておきたいと願っていたからに他なりません。共観福音書にも、もちろん「カノン」の要素はありますが、執筆された時期が早く、紀元二世紀の迫害と殉教の時代を迎えた中で起こって来た、さまざまな教会の問題とは、まだ向き合っていないというところがありましたから、ヨハネは、そのことに対応した福音書がなければならないと思っていたのでしょう。〈教会はローマ・ギリシャの社会に迎合して、儀礼化や宗教化が進行している。そんなものを目指し、基準にしてはいけない。「神さまのことば」こそがイエスさまの聖徒が聞くべきものである。みことばが聞かれるところでは、パラクレートスが助けてくださるであろう〉と。

 そしてヨハネが、聖徒たちの立ち位置としておくべき所と見ていた、もう一つのことが語られている箇所は、「真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。わたしは、彼らのため、わたし自身を聖め別ちます。彼ら自身も真理によって聖め別たれるためです」(17-19)とあるところです。何回も「聖別」ということばが出て来ますが、これは、先に触れたように「神さまに属する者」となることです。イザヤ書にこうあります。「わたしは主によって大いに楽しみ、わたしのたましいも、わたしの神によって喜ぶ。主がわたしに、救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださるからだ。地が芽を出し、園が蒔かれた種を芽生えさせるように、神である主が義と賛美とを、すべての国の前に芽生えさせるからだ。」(61:10-11) 「救いの衣」や「正義の外套」は、バプテスマを受けるなどの儀礼的な入会式を指すのではなく、魂の奥底から神さまのものになることを意味します。神さまの民となるには、神さまからの招きと神さまの聖を纏うことが絶対条件なのです。

 招かれた者は、その招きを聞いて応えるかと問われている。「はい」と答えて、神さまの世界を受け継ぐ者となりたいではありませんか。真理とは神さまの世界、神さまの価値観、神さまの愛と恩寵、神さまの知恵といった神さまの奥義を指しているのですから。



Home