ヨハネによる福音書・補

Aiming over one step

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神さまの民とされて


<ヨハネ 17:1-8>
1イエスはこれらのことを話してから、目を天に向けて、言われた。「父よ。時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現わすために、子の栄光を現わしてください。2それは子が、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため、あなたは、すべての人を支配する権威を子にお与えになったからです。3その永遠のいのちとは、彼らが唯一まことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。4あなたがわたしに行わせるためにお与えになったわざを、わたしは成し遂げて、地上であなたの栄光を現わしました。5今は、父よ。みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。6わたしは、あなたが世から取り出してわたしに下さった人々に、あなたの御名を明らかにしました。彼らはあなたのものであって、あなたは彼らをわたしに下さいました。彼らはあなたのみことばを守りました。7いま彼らは、あなたがわたしに下さったものはみな、あなたから出ていることを知っています。8それは、あなたがわたしにくださったみことばを、わたしが彼らに与えたからです。彼らはそれを受け入れ、わたしがあなたから出て来たことを確かに知り、また、あなたがわたしを遣わされたことを信じました。」

<レビ記 16:29-34>
29以下のことはあなたがたに、永遠のおきてとなる。第七の月の十日には、あなたがたは身を戒めなければならない。この国に生まれた者も、あなたがたの中の在留異国人も、どんな仕事もしてはならない。30なぜなら、この日に、あなたがたをきよめるために、あなたがたの贖いがなされるからである。あなたがたは、主の前でそのすべての罪からきよめられるのである。31これがあなたがたの全き休みの安息であり、あなたがたは身を戒める。これは永遠のおきてである。32油をそそがれ、その父に代わって祭司として仕えるために任命された祭司が、贖いをする。彼は亜麻布の装束、すなわち聖なる装束を着ける。33彼は至聖所の贖いをする。また会見の天幕と祭壇の贖いをしなければならない。また彼は祭司たちと集会のすべての人々の贖いをしなければならない。34以上のことは、あなたがたに永遠のおきてとなる。これは年に一度、イスラエル人のすべての罪から彼らを贖うためである。
モーセは主が命じられたとおりに行なった。


1、大祭司の祈り

 「イエスはこれらのことを話してから、目を天に向けて、言われた」(1)と、17章が始まります。これはイエスさまの祈りです。イエスさまはしばしば世を徹して祈られ(ルカ6:12)、朝早く山に登り、あるいはガリラヤ湖のほとりに行って(マルコ1:35)祈られました。が、その祈りの内容が記された記事は、主の祈りとゲッセマネの祈りとヨハネ福音書17章とわずか三回しか見られません。その意味で17章のテキストは、ヨハネの加筆や編集があったのだろうとは思いますが、イエスさまの祈りを知る上で極めて貴重な記録と言えましょう。時期的にはゲッセマネの園での祈りに近いのでしょうが、ヨハネは、この祈りのあとにゲッセマネの園に行かれたと記録していますし(18:1)、内容も全く異なってますので、最後の晩餐の席で最後に、あるいは、オリーブ山腹で終末について話された後の祈りと思われます。今、イエスさまはこの世を去るに当たって、残して行かなければならない弟子たちのために執り成しの祈りをしているのですが、これは、アレクサンドリアのキュロス総主教(376-444年)によって「大祭司の祈り」と呼ばれたそうで、その呼び名が定着して今に続いています。エジプトを出て以来、イスラエルが守り抜いて来た聖所には、移動式聖所である幕屋のときも地域に固定された神殿のときも、大祭司だけが入ることの出来る至聖所があり、大祭司は聖なる装束を着けて年に一度そこに入り、イスラエルの民の罪のために神さまに執り成しの祈りをささげました(レビ記16:29-34)。これが「大祭司の祈り」と呼ばれます。大祭司の最も重要な任務でした。今、イエスさまは人々の罪の身代わり=贖罪となって十字架上で死のうされている。それは弟子たちとの別れを意味します。が、イエスさまは、ご自分の死を見据えながら、彼らを神さまの御手に委ね、祈られたのです。「永遠の大祭司」(ヘブル書2:17)となられたお方のこの祈りは、まことの「大祭司の祈り」として、旧約時代の大祭司よりも、はるかにふさわしいではありませんか。

 「父よ。時が来ました」(1)とヨハネは、「イエスさまの時」が来たことを強調しますが、「あなたの子があなたの栄光を現わすために、子の栄光を現わしてください」(1)「今は、父よ。みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください」(5)と、このフレーズで何回も繰り返される「栄光」は、この「イエスさまの時」の中で現わされるのだと聞かなければなりません。これは、「あなたがわたしに行わせるためにお与えになったわざを、わたしは成し遂げて、地上であなたの栄光を現わしました」(4)とあるように、イエスさまの十字架上の死を指し示しているのでしょう。十字架の死は、先在のロゴスが御父から遣わされて地上に来られ、人の子となられたイエスさまの最も重要な目的でした。イエスさまは、私たちの罪を贖うために世に来られたと、ヨハネはこの福音書冒頭から主張して来たことです。十字架はその贖罪でした。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である」(1:14)とある。が、その「十字架の贖罪」は、「よみがえり」とそれに続く「高挙(天にお帰りになる)」をも含んで栄光に輝くのです。贖罪を果たされたイエスさまは、御父のもとに凱旋なさいます。そのとき、この世に遣わされる前に御子・先在のロゴスとして持っておられた栄光を御父からお受けになるのだと、ヨハネは、黙示録での啓示を思い出しつつ、天上でのイエスさまの栄光に思いを馳せているのでしょう。しかしそれは、御子イエスさまだけに留まらず、イエスさまとは入れ替えに間もなく遣わされようとしておられるパラクレートスの栄光でもあり、本来は、御父が有しておられた栄光なのであって、一括して「神さまの栄光」と言っていいのではないでしょうか。


2、主の前に膝をかがめ

 その「神さまの栄光」が、今、最高の輝きを輝かそうとしています。
 「それは子が、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため、あなたは、すべての人を支配する権威を子にお与えになったからです。その永遠のいのちとは、彼らが唯一まことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」(2-4)

 「すべての人を支配する権威」とある。「権威」は、「栄光」とは別の神さまのもう一つの顔と言っても良く、神さまが持っておられる「絶対的な力」をも含んでいますから、新共同訳や岩波訳などは「権能」、New Engulish Bibleは「主権」と訳していますが、そのほうがいいでしょう。しかし、権能にしても、主権にしても、それは、イエスさまが神さまご自身として本来持っておられるものですので、殊更に「御父が御子に与えた」とあるのは、結論から先に言いますと、聖徒たちをも取り込んでのことなのだと、これはヨハネ神学の全貌を示す言い方のように聞こえます。
 「イエスさまは彼らによって栄光を受けた」(10)とあります。近代の批評的自由主義神学者たちは、イエスさまがキリストとなり、「神の子」の地位を獲得したのは、十字架の死によってであるとするのですが、私たち、そういった見解にいささかなりとも与してはならないでしょう。イエスさまは、本来、神さまご自身としての「栄光」に輝いておりましたし、聖徒たちはその燦めきの中に招かれたのだと聞かなければなりません。22節には、「わたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました」とあります。それなのに、「イエスさまは彼らによって栄光を受けた」とある。

 そのハーモニーも含めて、もう少し「聖徒たちの栄光」について続けましょう。聖徒たちには「永遠のいのち」が約束されました。「永遠のいのち」は、ヨハネがこれまでに何度も繰り返して来たこの福音書の中心主題です。これは最初に3:15で取り上げられましたが、そのところで私たちは、「永遠のいのちとは、十字架に贖われた新しいいのちに満たされて、私たちが天上の御国へと移されることを意味する」と学びました。「新しいいのち」は、もともと先在のロゴスであるイエスさまが持っていらっしゃった「いのち」のことなのでしょう。1:4には、「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった」とあります。この「光」はイエスさまと聖徒たちの栄光を語っていると聞こえるのですが……。その箇所をNTDは、「人を生きたものたらしめる真の神的生命を意味する」と印象深く註解しています。

 「すべての者」とは「すべての肉なる者」という一個の塊(何らかの共同体)を指すヘブル的な言い方で、もともと全人類のことですが、そこには「永遠のいのちを与えるため、すべての人を支配する権威を子にお与えになった」と条件が付いていますから、肉なる者が永遠のいのちを授与されるためには、「その永遠のいのちとは、彼らが唯一まことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ること」とある、その条件をクリアしなければなりません。ここで言われる「知る」はユダヤ人のニュアンスでは、全人格的な体験のことですから、信仰告白と聞いていいでしょう。イエスさまの十字架に罪を贖われ、救いに招かれた「すべての肉なる者」の共同体は、イエスさまのよみがえりも高挙も、そして、イエスさまを遣わして救いのご計画を成就なさったすべての「神さまの恩寵」を、信仰告白をもって受け止めた者たちの共同体なのだと覚えて頂きたい。「神さまの栄光」が、今、最高の輝きを輝かそうとしていると、これは、イエスさまの共同体が一つ心となって、主の前に膝をかがめ、賛美し、礼拝することなのではないでしょうか。現代神学には「Gott für uns、我らのための神」という言い方がありますが、「神さまは私たちの神であることを望んでおられる」という意味です。今、ヨハネが構築しようとしている神学にはその片鱗が見られるようです。


3、神さまの民とされて

 「イエスさまの時が来た」と、ヨハネは、「イエスさまの祈り」第一フレーズを、イエスさまの時=それは十字架のことなのですが、その十字架こそイエスさまの「栄光」であると、そのことから始め、その「栄光」は、私たちが主を礼拝することで最も輝いていくのだと語っていました。今、ヨハネはこのフレーズをこのように閉じます。「わたしは、あなたが世から取り出してわたしに下さった人々に、あなたの御名を明らかにしました。彼らはあなたのものであって、あなたは彼らをわたしに下さいました。彼らはあなたのみことばを守りました。いま彼らは、あなたがわたしに下さったものはみな、あなたから出ていることを知っています。それは、あなたがわたしにくださったみことばを、わたしが彼らに与えたからです。彼らはそれを受け入れ、わたしがあなたから出て来たことを確かに知り、また、あなたがわたしを遣わされたことを信じました。」(6-8)

 聖徒と呼ばれた人たちは、「世から取り出された人々」であるとあります。「世・コスモス」は人間が主権者である世界を指しています。それは、人間社会のある者たち(王など)が組み上げた秩序を重んじ、創造主にして唯一全能者である神さまに支配されることを拒否して、しばしば、教会に敵対して来ました。紀元一世紀末の教会には、そんな「コスモス」からの迫害と殉教のこともあって、いくつもの問題が生じていましたが、ヨハネは、それらの問題と向き合いながらも、教会・特にエペソ教会を中心とするアジヤ州の諸教会に連なる聖徒たちを、神さまがコスモスから選び出し、ご自分の民としてくださったのだと確信に満ちた証言をしています。「あなたがたは神さまのものであって、神さまはあなたがたをイエス・キリストにくださったのだ」と。彼ら聖徒たちは、自分たちが「イエスさまの共同体に属する者」であることを、そして、「神さまの栄光の中に招かれた者」であることを知らなければなりません。それが聖徒たちの最も大切にしなければならない第一の立ち位置なのです。ヨハネの確信に満ちた証言は神さまの決定と聞いていいでしょう。ヨハネは、神さまの啓示者であるイエスさまからその啓示(みことば)を託され、彼自身も啓示者として聖徒たちに向き合おうとしているからです。

 このヨハネのメッセージは、エペソ教会の人たちと同じく現代の私たちにも適用されているのだと聞かなければなりません。「イエスさまを信じた」その信仰に自信が持てないまま、何らかの誘惑や試練があって教会から離れてしまう。そんな人たちが年々続出している現代です。が、お聞きください。あなたがイエスさまを選んだのではない。神さまがあなたを選んでくださったのです。これまでに私たちは、ヨハネから、イエスさまが天上のロゴスであり、御父に遣わされて世にくだり、人の子として「地上を歩む神」になられたと聞いて来ました。「私たちはそのお方に招き出され、ごいっしょに歩んで、神さまご自身の不思議を見、その啓示を聞いて来たではないか」と、この福音書は、パラクレートスに支えられたヨハネの信仰告白でもあるのです。その同じ信仰告白にあなたがたも招かれているのだと、ヨハネは、現代の私たちのところにまで建てられ、続いて来たイエスさまを頭とする共同体に語りかけている。その問いかけに、あなたがたも信仰の告白をもって応えて欲しいし、喜びに溢れる礼拝を主に献げて欲しいのだと、これがヨハネの願いでした。ヨハネを支えたパラクレートスが現代も黙々と働いて、「神さまの民」とすべく、私たちをイエスさまの十字架のもとに、その信仰に招いているのです。覚えて頂きたい。その招きに応え、神さまの民に加えられた私たちが、とてつもないことですが、「神さまの栄光」を輝かすのであると。



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