ヨハネによる福音書・補

Aiming over one step

71
聞いてくださるお方と


<ヨハネ 16:16-24>
16「しばらくするとあなたがたは、もはやわたしを見なくなります。しかし、またしばらくするとわたしを見ます。」17そこで、弟子たちのうちのある者は互いに言った。「『しばらくするとあなたがたは、わたしを見なくなる。しかし、またしばらくするとわたしを見る。』また『わたしは父のもとに行くからだ。』と主が言われるのは、どういうことなのだろう。」18そこで、彼らは、「しばらくすると、と主が言われるのは何のことだろうか。私たちには主の言われることがわからない。」と言った。19イエスは彼らが質問したがっていることを知って、彼らに言われた。「『しばらくするとあなたがたは、わたしを見なくなる。しかし、またしばらくするとわたしを見る。』とわたしが言ったことについて、互いに論じ合っているのですか。20まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたは泣き、悲しむが、世は喜ぶのです。あなたがたは悲しむが、しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。21女が子を産むときには、その時が来たので苦しみます。しかし、子を産んでしまうと、ひとりの人が世に生まれた喜びのために、もはやその激しい苦痛を忘れてしまいます。22あなたがたにも、今は悲しみがあるが、わたしはもう一度あなたがたに会います。そうすれば、あなたがたの心は喜びに満たされます。そして、その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。23その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねません。まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。24あなたがたは今まで。何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。」

<出エジプト記 3:7>
7主は仰せられた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの先美を聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている。」


1、「また見ることになる」と

 「しばらくするとあなたがたは、もはやわたしを見なくなります。しかし、またしばらくするとわたしを見ます。」(16)これは、14:23から16:16まで、ヨハネが鉤括弧で一括りにしたイエスさまのことばの最後に置かれているものです。このことばを弟子たちが繰り返し、これはどういう意味であるかと、彼らの間で議論が沸き上がりました。そして、ヨハネがイエスさま最後のメッセージとしたフレーズが始まります。もう真夜中です。過越の晩餐も終わりに近づいて来ました。

 弟子たちのうちのある者たちが互いに言いました。「『しばらくするとあなたがたは、わたしを見なくなる。しかし、またしばらくするとわたしを見る。』また『わたしは父のもとに行くからだ。』と主が言われるのは、どういうことなのだろう。」(17)そしてヨハネは、もう一度同じ議論があったことを明らかにします。彼らは、「しばらくすると、と主が言われるのは何のことだろうか。私たちには主の言われることがわからない」(18)と繰り返します。議論が沸騰していたのでしょう。彼らには分からないことばかりなのですが、何故か彼らはそのことをイエスさまに尋ねることをためらっています。この議論を、現場にいたヨハネが省略したり、まとめたりせずに、19節にあるイエスさまのことばを含めて三度も繰り返したことは、この疑問と、その疑問にお答えになったイエスさまのメッセージが、14-16章と続いた決別説教を飾る最後の部分の中心主題となっているからなのです。

 ところで、「しばらくすると」「見なくなる」「また見ることになる」(16)とイエスさまが言われたことで、ここには語られていませんが、これまでにヨハネが伏線として来たことに触れておきましょう。一つは、間もなくゲッセマネの園でのイエスさま逮捕という出来事があり、イエスさまの受難が始まるのです。イエスさまの死が刻一刻と近づいている。しかし、その死は一時のもので、弟子たちはよみがえりのイエスさまにお会いすることとなるのです。「また見ることになる」と言われたのはそのことを指しているのでしょう。と同時に、イエスさまを信じる者たちの共同体は、昇天されたイエスさまが、「わたしはあなたがたに助け主を遣わす」(14:16、15:26、16:7)と繰り返し言われたパラクレートスを介しての再会と、そして、終末時の再会のことも合わせて覚えなくてはなりません。イエスさまにお会いするというのは、神さまと私たちの総合的な関係において見なければならないことだからです。
 ヨハネのこのメッセージは16章の終わりまで続きますが、長いので今回は24節までとします。

 この時、ヨハネ自身も含めて、弟子たちには、ほんの数時間後に迫って来たイエスさまの死のことが全く見えていません。ぼんやりと、何らかの危機が迫っているのだろうとは感じていますが、そんなことはこれまでにも何度もあったことで、その度にイエスさまはその危機をくぐり抜けて来たのです。ですから、自分の命と引き替えにしていいとさえ思っている愛するイエスさまが死に渡される。しかも十字架というローマの極刑で逝ってしまうなど想像すらしていません。それで、「主は、なぜそんなことをおっしゃったのだろう」と、彼らの議論は、そんなイエスさまのことばに反応していたわけです。しかし、彼らの本能は今回の危機の重大さを何となく感知していて、直接お尋ねすることをためらっていたのでしょう。


2、世との戦いの中で

 イエスさまは弟子たちが質問したがっていることを知って、彼らに言われました。
 「『しばらくするとあなたがたは、わたしを見なくなる。しかし、またしばらくするとわたしを見る。』とわたしが言ったことについて、互いに論じ合っているのですか。まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたは泣き、悲しむが、世は喜ぶのです。あなたがたは悲しむが、しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。女が子を産むときには、その時が来たので苦しみます。しかし、子を産んでしまうと、ひとりの人が世に生まれた喜びのために、もはやその激しい苦痛を忘れてしまいます。あなたがたにも、今は悲しみがあるが、わたしはもう一度あなたがたに会います。そうすれば、あなたがたの心は喜びに満たされます。そして、その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねません。」(19-23)

 「アーメン、アーメン、汝らに告ぐ」と定型の注意喚起文で一呼吸置いたヨハネは、弟子たちがイエスさまを「見なくなる」、そして「また見ることになる」ということの内容に踏み込みます。「あなたがたは泣き、悲しむが、世は喜ぶ」と「世に属する者」と「神さまに属する者」との二元論的対立が描かれており、ヨハネはそこからこの16節以下16章終わりまでのフレーズを始めようとしていますが、この対立は、15:18から述べて来た「世に属する者」と「神さまに属する者」との戦いを、このフレーズでも語り継ごうとしていることによります。ここでは隠されてはいますが、「世」と「神さま」との戦いがこのフレーズの中心主題なのです。イエスさまが十字架に処刑され、墓に葬られてしまった時、弟子たちはあの最後の晩餐の部屋に閉じこもり、自分たちにまで危害が及ばないように閂までかけて途方に暮れていました。しかし、それは「世に属する者」にとっては、自分たちの勝利であると感じています。彼ら「世」は勝利の大きな喜びに浸っていました。イエスさまを信じる者たちの悲しみや苦痛、それが「世」の喜びであることを、ヨハネは、イエスさまを天に見送って後、七十年にも及ぼうとするこの戦いの中で、痛みとともに味わって来たのではないでしょうか。いや、七十年どころではない。その戦いは、現代の私たちをも巻き込んで今なお続いているのです。そして、その長い長い年月のほとんどは、圧倒的に「世」が勝利を手中にして来たのではないかと思うのですが……。それも、中世というキリスト教全盛の時代をも通して。なぜなら、諸方の王たちさえも支配した教会は、逆に「権力主義」という世俗の価値観に囚われ、イエスさまの福音からは遠く離れてしまったからです。現代教会のある面には、そのような悪しきところが踏襲されているのではと若干気にかかるところです。


3、祈りを聞いてくださるお方とともに

 しかし、「世の勝利と喜び」は錯覚に過ぎないのだと、きっとヨハネは、迫害と殉教のさ中にあるローマ・ギリシャ世界のイエスさま共同体に向かって、そう言いたかったのでしょう。なぜなら、このフレーズを閉じる最後のところを、「わたしはすでに世に勝ったのです」(33)と、イエスさまを信じる者たちの勝利宣言で飾っているからです。

 ヨハネは、イエスさまにまたお会いできる喜びを、子どもを産んだ時の母の喜びに譬えました。いのちというものは、そのように受け継がれて行くのであって、きっと、迫害と殉教という非常な苦痛の中にもなお生まれて来る新しいクリスチャンたちのことを言っている。その喜びは断じて錯覚などではありません。生まれた子どもたちが、自分たちを証拠として、そのことを教えてくれるのです。母たちは、生まれて来たわが子を見る時に、産みの苦しみなど忘れてしまう。母なる教会も同じなのではないでしょうか。然るに、現代の人たちは、クリスチャンたちでさえも、しばしば、イエスさまを信じる信仰など、現実をもって生活に深く関わって来る世の生き方に比べ、実体のない幻影に過ぎないと錯覚して、ある人たちは教会から脱落して行くのですが、ヨハネは、「世に属する者」と「神さまに属する者」との戦いの中で、生まれた子どもこそその実体なのだと、イエスさまを信じる信仰に軍配を上げ、その通りに激しい迫害のさ中にあっても、イエスさまの共同体は、世界中に教会を擁しながら大きく膨らんで来たのです。それは、「ご自分に属する者の広がり」にこそ、勝利の実体があるのだとする神さまの判定ではないでしょうか。イザヤ書54章にはこうあります。「あなたの天幕の場所を広げ、あなたの住まいの幕を惜しみなく張り伸ばし、綱を長くし、鉄のくいを強固にせよ。あなたは右と左にふえ広がり、あなたの子孫は、国々を所有する……」(2-8)。「世に属する者」の勝利は錯覚に過ぎません。

 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。あなたがたは今まで。何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです」(23-24)とある。

 「求めなさい。そうすれば受けるのです」と、ここには「祈り」のことが語られているのでしょう。私たちに内在し、「世」と「神さま」との戦いに全力を傾けつつ参戦してくださるパラクレートスがその祈りを聞いてくださる。出エジプト記にはこうあります。「主は仰せられた。『わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている』」(3:7)と。「主」はパラクレートスでもあるのです。パラクレートスの存在は、ご自身の意志もあって、表には出て来ませんから、私たち、実体などないように感じてしまいますが、そのお方は、よみがえりのイエスさまが、私たちに会い、喜びとなってくださる、その実存の中核を担い、私たちにイエスさまを示してくださるのです。このお方を通して、イエスさまが私たちにご自分を現わしてくださると聞いていいでしょう。そのように聞いている私たちの内なる魂に確信を与え、救いの喜びを満たしてくださり、父なる神さまの恵みとイエスさまの愛を保証してくださるのもパラクレートスなのです。私たちの祈りは、「世」よりもずっとずっと私たちの近く、すぐそばにおられるパラクレートスが聞いてくださるのですから、迷わずに祈り続けたいではありませんか。祈りを聞いてくださるお方とともにいる。これがヨハネの変わらぬ立ち位置でした。現代の私たち、どんなに世の人たちにあざ笑われようとも、ヨハネが立っていた主のそばに立ち続けようではありませんか。先にイザヤのことばを聞きました。そのイザヤから約百年後、バビロン捕囚を目前に控えた預言者エレミヤも主からこう聞いたのです。「見よ。わたしはきょう、あなたを、城壁のある町、鉄の柱、青銅の城壁とした。だから、彼らがあなたと戦っても、あなたには勝てない」(エレミヤ書1:18-19)と。どこどこまでもあなたを誘惑してやまない「世」との戦いに、主は勝利してくださったのですから、そのお方の前で、雄々しく信仰の勇者であろうではありませんか。



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