ヨハネによる福音書・補

Aiming over one step

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パラクレートスに委ねて


<ヨハネ 16:4b-15>
4b「わたしが初めからこれらのことをあなたがたに話さなかったのは、わたしがあなたがたといっしょにいたからです。5しかし今わたしは、わたしを遣わした方のもとに行こうとしています。しかし、あなたがたのうちには、ひとりとして、どこに行くのですかと尋ねる者がありません。6かえって、わたしがこれらのことをあなたがたに話したために、あなたがたの心は悲しみでいっぱいになっています。7しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。8その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。9罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。10また、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。11さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。12わたしは、あなたがたに話すことがまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐える力がありません。13しかしその方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。14御霊はわたしの栄光を現わします。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。15父が持っておられるものはみな、わたしのものです。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて、あなたがたに知らせると言ったのです。」

<詩篇 119:41-48>
41主よ。あなたの恵みと、あなたの救いとが、みことばのとおりに、私にもたらされますように。42こうして、私をそしる者に対して、私に答えさせてください。私はあなたのことばに信頼していますから。43私の口から、真理のみことばを取り去ってしまわないでください。私は、あなたのさばきを待ち望んでいますから。44こうして私は、、あなたのみおしえを、いつも、とこしえまでも、守りましょう。45そうして私は広やかに歩いて行くでしょう。それは私が、あなたの戒めを求めているからです。46私はまた、あなたのさとしを王たちの前で述べ、しかも私は恥を見ることはないでしょう。47私は、あなたの仰せを喜びとします。それは私の愛するものです。48私は私の愛するあなたの仰せに手を差し伸べ、あなたのおきてに思いを潜めましょう。


1、助け主をあなたがたに

 世に属する者」と「神さまに属する者」との戦いのことが語られています。
 ここには、イエスさまのお話しだけしか記されていませんが、恐らく、その随所に弟子たちの質問も含まれていました。その質問にイエスさまは丁寧にお答えになっていらっしゃる。ヨハネが十四章23節から十六章16節までを一つの鉤括弧で一括りにした中に、いろいろなテーマが継ぎ目なしに次から次へと語られているのは、弟子たちの質問が省略されているからなのです。それは、ヨハネがこの会話に重ねながら、ローマ・ギリシャ世界に建てられた教会の立ち方に心を砕いているからなのでしょう。今朝のテキスト十六章4b~15節は先週の続きです。一括りにされた鉤括弧内にあるのに、16節を省いたのは、17~33節で語られるイエスさま最後のメッセージがそこから始まるからです。

 「わたしが初めからこれらのことをあなたがたに話さなかったのは、わたしがあなたがたといっしょにいたからです」(4b)と始まります。
 先週、「もし世があなたがたを憎むなら、世はあなたがたよりもわたしを先に憎んだことを知っておきなさい」(15:18)と聞きました。
 イエスさまが弟子たちといっしょにいる時に、「世」の憎しみと攻撃は、もっぱらイエスさまに集中していて、弟子たちへの憎しみにまでは至りませんでした。けれども、イエスさまが彼らの盾になってくださると、そんな状況はいつまでも続きません。「今わたしは、わたしを遣わした方のもとに行こうとしています」(5)と、イエスさまとの別離を境に、弟子たちへの憎しみが噴き上がって来るのでしょう。
 その第一段階であるゲッセマネの園でのイエスさま逮捕は、もう数時間後に迫っていました。
 それは十字架に続くのです。
 ペテロが、好奇心からなのか、のんびりと「主よ。どこにおいでになるのですか」(13:36)と尋ねて、それで済ませていられるような状況ではありません。「しかし、あなたがたのうちには、ひとりとして、どこに行くのですかと尋ねる者がありません」(5)と、これは、その時に切迫した空気が弟子たちを覆っていたことを示しているようです。「かえって、わたしがこれらのことをあなたがたに話したために、あなたがたの心は悲しみでいっぱいになっています」(6)と、ヨハネは、その時の弟子たちの動揺を思い出しています。

 「しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします」(7)と、イエスさまが約束されたパラクレートスが弟子団の要として来られた時のことを、ヨハネは回想しているのでしょう。使徒行伝二章に描かれている聖霊降臨の出来事です。あれから七十年近くもの年月が経っている。世界各地に散らされた弟子たちが、宣教の働きを働き抜いて、たくさんの教会が世界各地に建てられました。もう、その多くが殉教して逝きましたが、彼らも、そしてヨハネ自身も、どれほどパラクレートスに助けられたことでしょう。そのお方はイエスさまが注いでくださった暖かい目をいつも感じさせてくださったのではないでしょうか。そのお方が助けてくださっての教会の広がりでした。


2、神さまの法廷で

 「世」を中心主題とするヨハネのメッセージが、今、クライマックスを迎えています。
 「彼(助け主・パラクレートス)が来るとき、罪について、義について、さばきについて、世を咎めるであろう」(8・King James Version)と、ヨハネは、「世に属する者」と「神さまに属する者」との戦いに、「神さまに属する者」の力強い味方として参戦して来られたパラクレートスの働きを総括しているのでしょう。邦訳には適切な訳が見当たりませんでしたので、手持ちの翻訳聖書から、最も原典に近いと思われる欽定訳を採用しました。

 「罪について」「義について」「さばきについて」とある。そのいづれについても、「世」は、咎められたこととどう向き合うのか、と問われていることを認識しなければなりません。が、それなのに「世」は、ヨハネの時代だけでなく、現代までのどの時代にも答えて来なかったばかりか、その問いの前に立つことを拒否して来ました。なぜ拒否したのかということもですが、これらの問題を世が正しく認識して来なかったのは、なぜなのでしょうか。
 そもそも「咎める」というのは、「責める」あるいは「摘発する」「きびしく咎める」という裁判用語であって、今、ヨハネは、パラクレートスの助けのもとに、イエスさま当時と弟子団によって宣教の舞台となったユダヤ社会や、紀元七十年のユダヤ戦争敗北で国が消滅の危機に陥り、以後、ユダヤ人たちが海外に散らされてディアスポラとなり、世に寄り添うように「宗教」として改変されてしまった後期ユダヤ教のみならず、ローマ・ギリシャ世界の聖徒たちを迫害し殉教に追い込んで行く異教社会を、世界的な規模での「神さまに敵対する世」であるとして、罪ありと、神さまの法廷に告発しているのです。

 9~11節に、「罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。また、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです」と、「世」が向き合わなければならない告発状が読み上げられます。
 第一に、イエスさまを信じる信仰のない状態を「罪」なのだとし、イエスさまを信じる信仰に否を唱えた「世」は、不信仰者として告発されるのです。第二に、イエスさまの死は神さまに棄てられたのであって、それは、イエスさまとパラクレートス側の敗北を示しており、「世」は「勝利と義」を獲得したはずでした。しかし、イエスさまは「死」と「罪」に勝利して天への凱旋、高挙されたのであって、だからこそ、告発者パラクレートスが遣わされて来ました。「神さまの義」はイエスさまとパラクレートスの側にあって、「世」は義なき者として告発されます。第三に、「世」はイエスさまの十字架の死を、裁かれて刑に服したものと見なしましたが、神さまの価値基準では、十字架におかかりになったイエスさまこそが、この世に属する者とその支配者サタンを征服し、彼らを告発するパラクレートスとともに彼らを裁く座に着かれたのであると告知されるのです。裁きの座に被告として立たされるのは「世」でした。
 この告発を受けた神さまの法廷で、「世」は有罪と判定されるのでしょう。


3、パラクレートスに委ねて

 パラクレートスのことで、ヨハネはもう二つのことを語ろうとしています。
一つは、「わたしは、あなたがたに話すことがまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐える力がありません。しかしその方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです」(12-13)とあることからです。

 ここにヨハネが書き記したことは、イエスさまのお話しすべてではありません。
 特に「あなたがたはそれに耐える力がない」「やがて起ころうとしている」とあることを考えますと、イエスさまのお話しの中でここに取り上げなかったのは、共観福音書がいづれも大きく扱っている「終末」(マタイ24章)なのかもと思われます。ヨハネが、イエスさまの遣わされて来たこと、お戻りになることを父の御国としていることを基軸にしますと、きっと、「終末」に関する説話も、ここに取り上げられたなら、黙示録を著したヨハネならではの壮大な記事となったことでしょう。
 しかし、神さまを知らない異邦人社会では、たとえ「神さまに属する者」であっても、天変地異のことはともかくとしても、迫害と苦難と忍耐と審判と……そんなすさまじい信仰の戦いを戦い抜く備えを理解し、受け止めるのは非常に難しい。いや、神さまの選民とされたユダヤ人でさえ信仰の離脱を起こしましたし、神学等の十分な訓練を受けた者ですら、違和感を持ち、脱落して行く人が多数いたのが、長い歴史を刻んで来た教会の現状でした。

 そこから抜け出て神さまの世界にはいる、その鍵を握るお方は助け主・パラクレートスなのです。そのお方の助けがあって、初めて、私たちは苦難や理解不能を克服して神さまの「真理」と向き合うことが出来るのではないでしょうか。信仰は、パラクレートスが私たちの内に構築してくださる神さまの力なのですから。ここに言われる「御霊の真理」とは、神さまの義と同義語のように用いられ、エペソ書に「光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実」(5:9)とある、キリスト者にふさわしい生き方なのでしょう。

 そしてもう一つのことです。
 「御霊はわたしの栄光を現わします。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。父が持っておられるものはみな、わたしのものです。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて、あなたがたに知らせると言ったのです」(14-15)とある。

 「わたしのもの」とか「父が持っておられるもの」とか曖昧な言い方が続きますので、註解者たちの解釈も、「イエスさまが持つ啓示の働き」とか、「天より来る真理」など、漠然としたものが多いのですが、御父のものも、イエスさまのものも、ヨハネが意図した文章構造では、「イエスさまの栄光」に向かっており、それは唯一、よみがえりと昇天をもって補填されるイエスさまの十字架を指しているのです(参考12:16)。
 イエスさまの十字架は私たちの罪の赦しであって、神さまとの和解も、御国への招きも、そして、この世における証し=福音の宣教も、一切がそこに根ざしている。このことを、御父神さまと御子イエスさまがご計画なさった「救いのみわざ」として、それを私たちに取り次ぐためにパラクレートスは来られました。
 パラクレートスのお働きは、イエスさまのすべての啓示の現代化であって、ともすれば「世」に取り込まれそうになる私たちの目を、神さま(御父と御子イエスさま)に、その啓示の中心である十字架による神さまとの和解に向けてくださるのです。

 私たちが立つべき信仰の立ち位置を申し上げましょう。
 現代社会がもたらす一切の迷いやしがらみ、そして、痛みや苦悩までも、パラクレートスに委ねて、多様な価値観が乱立する「世」の真っただ中で、臆することなく「イエス・キリストの十字架によって救われた者である」と、最高の旗印を掲げることです。
 きっと「世」は、私たちのイエスさまを信じる立ち方を阻止しようと、あらゆる力と知恵を総動員して立ちはだかって来るのでしょうが、パラクレートスは、私たちの辿るべき道筋を、父なる神さまと主イエスさまが待ち受ける天の御国に向けて整えてくださるからです。


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