ヨハネによる福音書・補

Aiming over one step

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静まって神さまを


<ヨハネ 15:18-16:4a>
15:18「もし世があなたがたを憎むなら、世はあなたがたよりもわたしを先に憎んだことを知っておきなさい。19もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです。20しもべはその主人にまさるものではない、とわたしがあなたがたに言ったことばを覚えておきなさい。もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害します。もし彼らがわたしのことばを守ったなら、あなたがたのことばをも守ります。21しかし彼らは、わたしの名のゆえに、あなたがたに対してそれらのことをみな行ないます。それは彼らがわたしを遣わした方を知らないからです。22もしわたしが来て彼らに話さなかったら、彼らに罪はなかったでしょう。しかし今では、その罪について弁解の余地はありません。23わたしを憎んでいる者は、わたしの父をも憎んでいるのです。24もしわたしが、ほかのだれも行なったことのないわざを、彼らの間で行わなかったのなら、彼らには罪がなかったでしょう。しかし今、彼らはわたしをも、わたしの父をも見て、そのうえで憎んだのです。25これは、『彼らは理由なしにわたしを憎んだ。』と彼らの律法に書かれていることばが成就するためです。26わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。27あなたがたもあかしするのです。初めからわたしといっしょにいたからです。16:1これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがつまずくことのないためです。2人々はあなたがたを会堂から追放するでしょう。事実、あなたがたを殺す者がみな、そうすることで自分は神に奉仕しているのだと思う時が来ます。3彼らがこういうことを行なうのは、父をもわたしをも知らないからです。4aわたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、その時が来れば、わたしがそれについて話したことを、あなたがたが思い出すためです。」

<詩篇 46:1-11>
1神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。2それゆえ、われらは恐れない。たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも。3たとい、その水が立ち騒ぎ、あわだっても。その水かさが増して山々が揺れ動いても。セラ
4川がある。その流れは、いと高き方の聖なる住まい、神の都を喜ばせる。5神はそのまなかにいまし、その都はゆるがない。神は夜明け前にこれを助けられる。6国々は立ち騒ぎ、諸方の王国は揺らいだ。神が御声を発せられると、地は溶けた。7万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらのとりでである。セラ
8来て、主のみわざを見よ。主は地に荒廃をもたらされた。9主は地の果てまでも戦いをやめさせ、弓をへし折り、槍を断ち切り、戦車を火で焼かれた。10「やめよ。わたしこそ神であることを知れ。わたしは国々の間であがめられ、地の上であがめられる。11万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらのとりでである。」


1、神さまに敵対する世が

 先週、神さまを忘れた人たちに、イエスさまこそ神さまと人とをつなぐ中保者であり、贖罪者であって、そのお方を介してでなければ、神さまを覚えることはできないのだと、ヨハネの強烈なメッセージを聞きました。が、彼は、そのように遣わされて自分たちのところに来られた「人の子」を、なんとしても受け入れない世のことを、正確に、教会の人たちに伝えておかなければと思ったのでしょう。それは、「世」が、聖徒たちを取り込むべく、味方の装いをもって近づいては来るのですが、その本性が、神さまに敵対するものだったからです。

 今朝のテキストは、こう始まります。
 「もし世があなたがたを憎むなら、世はあなたがたよりもわたしを先に憎んだことを知っておきなさい。」(18)
 ヨハネは、これまでにも断片的に語って来た、イエスさまの福音とは別の、もう一つの中心主題「世」のことを集中的に取り上げます。ユダヤ人がイエスさまと弟子たちの迫害に走ったのも、また、ローマ・ギリシャ世界に聖徒たちの迫害と殉教の時代が訪れたことも、世がイエスさまを憎んだことに端を発しているのです。
 ヨハネは続けました。
 「もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです。」(19)

 イエスさまがあなたがたを選び出し、ご自分のものとしたために、世はあなたがたを憎んだのであると、ヨハネの論理は明確です。もともと「世」は、あなたがたを自分に属する者と思っていたのですから。「あなたがた」とは、弟子たちのことを指しているようですが、ヨハネは、愛してやまないエペソ教会を中心とするアジヤ属州の教会の人たちと、ローマ・ギリシャ世界の聖徒たち、さらには、現代の私たちをも視野に入れているのでしょう。
 ヨハネは、この世が属する世界と神さまの世界と、ヨハネは特徴的な二元論を展開し、対立させながら、「世」のことを掘り下げていきます。「この世」と「神さま」とは、どちらも譲歩する余地など全くない、互いに相容れない対立概念ですが、それは、この世が神さまに敵対する「罪」によって立っているからなのです。
 しかし、世のことを語りながらも、ヨハネは読者たちに、神さまの世界を知って欲しいと願っています。

 ところで、ちょっと心に留めて頂きたいのですが、ヨハネの時代と現代には、「宗教を受け入れる」ということで共通点があります。それは、アミニズム的な原始宗教形態を取るものであっても、高度に神学化された宗教形態を取るものであっても、ある意味、自分たちの社会形態に沿っている「宗教」は受け入れるのですが、自分たちに敵対するような、理解を超えたものは徹底して排除しようとする点です。
 つまり、自分たちの側につこうとしない「福音」は異次元のものとして排除される。
 その意味で古代社会はキリスト教を無神論と決めつけました。キリスト教には、彼らが宗教と認める判断基準の祭壇もなければ、祭祇も見当たらないからです。現代もそうなのですが、当時のキリスト教にも、彼らはその本質的なところで、宗教とは異質なものであると感じていたのでしょう。恐らく、当時の教会が儀礼化や異教化や宗教化に拘ったことは、その辺りの事情を映し出していたのではないでしょうか。
 現代社会がキリスト教を嫌いながらも、クリスマスなどを受け入れていることは、それが教会が譲歩した形態であり、その儀礼化や形骸化した異教的キリスト教の要素ならば、世は認めたということなのでしょう。
 「世が自分のものを愛し、イエスさまとイエスさまを信じる者を憎んだ」とあるのは、その意味においてなのです。


2、膨らみつつある聖徒への憎しみは

 ヨハネはさらに言葉を変えて続けます。
 「もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害します。もし彼らがわたしのことばを守ったなら、あなたがたのことばをも守ります。しかし彼らは、わたしの名のゆえに、あなたがたに対してそれらのことをみな行ないます。それは彼らがわたしを遣わした方を知らないからです。もしわたしが来て彼らに話さなかったら、彼らに罪はなかったでしょう。しかし今では、その罪について弁解の余地はありません。わたしを憎んでいる者は、わたしの父をも憎んでいるのです。もしわたしが、ほかのだれも行なったことのないわざを、彼らの間で行わなかったのなら、彼らには罪がなかったでしょう。しかし今、彼らはわたしをも、わたしの父をも見て、そのうえで憎んだのです。これは、『彼らは理由なしにわたしを憎んだ。』と彼らの律法に書かれていることばが成就するためです。」(20-25)

 「世・コスモス」という用語は、ギリシャ語世界に特有のものであって、ヘブル語にはなく、従って旧約聖書にその概念はありません。それは、宗教を意識し始めた後期ユダヤ教が用い始めたものですが、そんなユダヤ人の意識を、ローマ・ギリシャ世界における教会の儀礼化などに重ねたヨハネは、教会が虜になった「この(神さまに敵対する罪の)世」への挑戦を試みました。ローマ・ギリシャ世界に建てられた教会の人たちが、「この世」と「神さまの世界」との区別をきちんとつけられるようと願ったのでしょう。異邦人社会の教会には、まだその明確な区別を意識する人たちが極めて少なかったものと思われます。

 「しもべはその主人にまさるものではない、とわたしがあなたがたに言ったことばを覚えておきなさい」(20)とこの序文は、聖徒たちがイエスさまにつく者であることを強調する修飾句になっていて、ヨハネは、教会の人々にイエスさまにつく者としての信仰告白を求めている。その上で、「世の人々」の「イエスさまにつく者」への憎しみが激化するのだと予告します。

 イエスさまのことばと行為は人々を罪に定めました。
 「イエスさまのことばと行為」、それは、本来、「神さまの恵み」への招きだったのです。しかし、彼らはそうは受け止めず、自分たちを神さまへの敵対者にしていると聞きました。これは彼らの誤解なのでしょうか。そうではありません。彼らにとって、イエスさまがそこにいらっしゃるというだけで、目障りだったのでしょう。自分たちを見ておられるお方が存在する、それは、彼らが心を閉ざす立派な理由だったのではないでしょうか。「彼らは理由なしにわたしを憎んだ」と、これは詩篇三十五章19節の預言を指していますが、まさに神さまに対する人間の言い分が集約されているようです。ヨハネの時代も、現代も、そしてキリスト教が全盛だった時代を通してさえも、「福音」を排除する唯一の理由は、「私は、断じて、支配者としての絶対他者(これは神さまであり、イエスさまでもある)を認めない」とする人間の本性が溢れてのことなのです。「罪」は、人間をこそ神にしているのですから。


3、静まって神さまを

 「世に属する者」と「神さまに属する者」の戦いが始まりました。
 「世に属する者」は「神さまに属する者」を迫害し、棄教を迫りました。ところが、「神さまに属する者」は、「世に属する者」がイエスさまを信じ、仲間になることを願ったのです。「世に属する者」は皇帝と世のあらゆる権力を味方につけましたが、「神さまに属する者」の味方となったのは「助け主」でした。「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。あなたがたもあかしするのです。初めからわたしといっしょにいたからです」(26-27)とヨハネは、内在して自分たちを見ていてくださる聖霊であり、助け主であるパラクレートスに、懐かしい主の目を感じていたのかも知れません。イエスさまを天に送った後、聖徒たちは、「助け主」とともにイエスさまを証しするようになるのです。

 「初めからわたしといっしょにいたからである」と、この句は象徴的です。
 きっと、この句の主語は、ガリラヤ時代からイエスさまといっしょに歩んで来た弟子たちを指しているのでしょうが、弟子たちばかりでなく、エペソ教会の人たちやローマ・ギリシャ世界のイエスさま共同体、さらに現代の私たちをも指している。それは、彼らや私たちが自力でイエスさまに寄り添ったのではなく、聖霊のお働きに拠っているからです。
 地上に遣わされる以前から、先在のロゴスとして御父とともにおられたイエスさまをご存じだった聖霊は、世に来られた時から、イエスさまのことばかりか、地上を這いつくばって辛苦を嘗めている者たちの「今」をご存じでした。ある意味、彼らと私たちを、その辛苦と望みのないところからイエスさまの救いに招いてくださったのは、聖霊なる神さまだったのです。そのお方の助けによって語られる証言=聖書は、イエスさまと私たちのそんな「今」を余すところなく指し示しています。イエスさまの福音は、聖霊なるお方・パラクレートスのお働きを通して、現在も輝く光に照らされながら繰り返し私たちに関わって来るものでしょう。

 ところが、その神さまの光を見ようとしない「世に属する人たち」がいる。
 彼らは、イエスさまを信じた、イエスさまにつく人たちに敵対しようとしますが、ヨハネが筆頭に上げたその一番手は後期ユダヤ教の人たちでした。彼らはローマとの戦いに敗れたユダヤという国の存立に非常な危機感を覚えていましたから、何とか生き延びようと最大の努力を惜しまない、神さまへの奉仕も人一倍熱心な者たちでした。彼らの熱心は、まず、キリスト者たちを会堂から追放する決定をします。「人々はあなたがたを会堂から追放するでしょう。事実、あなたがたを殺す者がみな、そうすることで自分は神に奉仕しているのだと思う時が来ます」(16:2)と、追放令は、第一次ユダヤ戦争後の紀元八十五年、ユダヤ人学校が開かれたヤブネで出されたものでしたが(ヨハネ福音書講解説教42参考)、ヨハネは、そのことを念頭にユダヤ人による迫害を、そして、「あなたがたを殺す」という一文を加えて、ローマ皇帝たちによる激しい迫害が始まることに言及しました。
 そして、すぐに迎える紀元二世紀、トラヤヌス帝と以後の皇帝の治世下に、キリスト教徒であることが判明して棄教を強要されたのに同意しない場合、その聖徒たちは殉教の道を辿ることになります。つまり、迫害と殉教が常態化していくのです。

 「これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがつまずくことのないためです」(16:1)
 「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、その時が来れば、わたしがそれについて話したことを、あなたがたが思い出すためです」(4a)と、ヨハネはこの箇所を締め括ります。

 「つまずく」は「罠にかかる」という意味です。権力者は「世」の知恵を総動員して聖徒たちを罠にかけ、棄教へと追い込んで行くのですが、今、多くの聖徒たちが教会から離れていることを考えますと、私たちへの「世」の攻撃は、聖徒たちをイエスさまから引き離そうとしており、これからの攻撃も、恐らく、この目的と方法が踏襲されて行くと見ていいのではないでしょうか。そして、キリスト教自身も多くの人を異端審問にかけ、神さまの名において殺して来た長い歴史を持ちます。私たち、そのことを指摘されますと、ひれ伏して謝罪しなければなりませんが、多くの人たちを罠にかけ、つまずかせたキリスト教の悪事は、イエスさまの福音を離れ、世に与した結果なのでしょう。キリスト教の本丸とも言えるヒエラルヒーの頂点・司祭群を取り込んだ「世」、それほどに世=サタンの策略は巧妙で、悪意に満ちているのです。
 そんな中でこう言われる。
 「彼らがこういうことを行なうのは、父をもわたしをも知らないからです」(3)と。
 「知る」とは、全人格的なあらゆる機能を駆使して選択や判断を決定する過程を意味します。「信仰」と言い換えていい。その信仰をパラクレートスが整えてくださるのです。
 その助け主のもと、「汝等、しずまりて、我の神たるを知れ」(詩篇46:10・文語訳)とあるように、静まって、創造主にして全能者なる御父と、救い主御子イエスさまを覚えようではありませんか。それこそが、世に打ち勝つ唯一の道なのですから。



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