ヨハネによる福音書・補

Aiming over one step

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主の愛に生きる者と


<ヨハネ 15:9-17>
9「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。10もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。11わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。12わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。13人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。14わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。15わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。16あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。17あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです。」

<ゼカリヤ 2:6-13>
6「さあ、さあ。北の国から逃げよ。―主の御告げ。― 天の四方の風のように、わたしがあなたがたを散らしたからだ。―主の御告げ。― 7さあ。シオンにのがれよ。バビロンの娘とともに住む者よ。8主の栄光が、あなたがたを略奪した国々に私を遣わして後、万軍の主はこう仰せられる。『あなたがたに触れる者は、わたしのひとみに触れる者だ。9見よ。わたしは、こぶしを彼らに振り上げる。彼らは自分に仕えた者たちのとりことなる。』と。このとき、あなたがたは、万軍の主が私を遣わされたことを知ろう。10シオンの娘よ。喜び歌え。楽しめ。見よ。わたしは来て、あなたのただ中に住む。―主の御告げ。― 11その日、多くの国々が主につき、彼らはわたしの民となり、わたしはあなたのただ中に住む。あなたは、万軍の主が私をあなたに遣わされたことを知ろう。12主は、聖なる地で、ユダに割り当て地を分け与え、エルサレムを再び選ばれる。」13すべての肉なる者よ。主の前で静まれ。主が立ち上がって、その聖なる住まいから来られるからだ。


1、主に留まれ

 「ぶどうの木」の象徴説話で、「イエスさまにとどまりなさい」と繰り返し語られました。
 そして今、ヨハネは、「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい」(9)と、イエスさまにとどまることは、イエスさまの愛の中にとどまることなのだと、愛をテーマに、今朝のテキスト9~17節を始めます。「イエスさまの愛」を通して、ヨハネには、ローマ・ギリシャ世界に建てられた教会の人たちに、どうしても伝えたいと思っている大切なことがあったのでしょう。そもそも、この愛は、「あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです」(17)とあるように、「新しい戒め」(13:34)に見られる愛の勧めなのです。
 ところが、その「新しい戒め」のことは、「与える」と言われただけで、なぜか、別のテーマに移ってしまい、放置されていました。十四章はそのイメージを膨らませる冷却期間だったのかも知れません。いろいろな伏線を整えながら、満を持して来たヨハネは、ようやく、その「新しい戒め」の中身を提供しようと取りかかります。

 繰り返すようですが、ヨハネが描いたメッセージの構造を単純化してみましょう。
 ヨハネは、慎重にことばを選びながら、「イエスさまはぶどうの木で、あなたがたはその枝である」と象徴説話を設定し、そこで「イエスさまにとどまりなさい」と何回も繰り返すところから始めました。これは「イエスさまの愛の中にとどまりなさい」となり、そして、「もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです」(10)と、次第に深味を帯びて行きます。
 そのように深化していったヨハネのメッセージには、どんな意識が隠されていたのでしょうか。彼の中心的なメッセージはいったい何を指し、どこに向かおうとしているのか、そのことをさぐってみたい。

 そのことを理解するために、先週触れた二つのことを繰り返しておきましょう。
 その一つは、「わたしはまことのぶどうの木」(1)と、排他的形容詞「まことの」をつけることで、「まこと」でないものが教会に蔓延りつつあるというヨハネの危機意識が見られることです。紀元一世紀末の、迫害と殉教が激しくなって来る教会には、異教社会を生き延びるためという意識があってなのでしょうか、儀礼化や異端化や宗教化といった誘惑が次第に表面化していました。「異端化」は、おもにグノーシス主義との接触から生まれて来たものですが、その一つであるマンダ教には、生命の木をぶどうの幹に譬え、個々人の魂をその枝とするグノーシスの特徴的な二元論を骨子とした「ぶどうの木」の象徴説話があります。当時、教会に接近して来たグノーシス主義は「キリスト教系グノーシス主義」と呼ばれていましたから、そこには知恵に長けたサタンの策略が透けて見えるようです。
 そんなサタンの攻撃に打ち勝つには、「まことのぶどうの木」であるイエスさまに結びついていなければならないと、これがヨハネの勧めでした。

 そして、もう一つのことです。
 「……枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。……何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられる」(6-8)を、イザヤ書の、「わが愛する者は、よく肥えた山腹にぶどう畑を持っていた。彼はそこを掘り起こし、そこに良いぶどうを植え、その中にやぐらを立て、酒ふねも掘って、甘いぶどうのなるのを待ち望んでいた。ところが、酸いぶどうができてしまった」(5:1-2)と比べてみますと、奇妙なことに、祝福よりも裁きのことが先に語られているのです。
 これは、もともと神さまに祝福されていたイスラエルが、儀礼化と異教化という信仰の堕落を繰り返して来た中で、祝福と審判が逆転してしまったということなのでしょう。しかも、逆転した審判には、ヒンノムの谷に造られたバアル神の祭壇の上で焼かれる人身御供の子どもを思い出させる「投げ捨てられ、枯れて、火に投げ込まれ、燃えてしまう」と、燃えさかるゲヘナの劫火さえも暗示するほどの厳しい審判をもって臨まれようとされる、神さまの激しい怒りが浮かび上がって来るのです。


2、神さまを見失った世界に

 今、ヨハネが、「イエスさまにとどまりなさい」と勧めるのは、失われた大切なものを取り戻すためと言えましょう。
 イエスさまにとどまるとは、イエスさまを知ることで、それは、イエスさまを信じると言い換えてもいいことなのです。人々(それは、まずユダヤ人を指していますが、そこからユダヤ人を超えた世界中の人々を想定しているようです)が失ってしまった大切なものを取り戻すために、最も必要なものは、イエスさまを信じる信仰であると、ヨハネのメッセージにはそんな土台が築かれていました。
 きっとローマ・ギリシャの世界にいたヨハネは、ユダヤにいた時以上に、神さまなき人の心が荒れすさんで行くさまを実感していたのでしょう。

 当時のローマ・ギリシャ世界は、他のどこよりも先進国であって、現代もそうなのですが、先進国と言われるところほど、自分たちの力を過信してしまい、神さまをないがしろにしていると指摘されます。先進国と言われるほどに文化が発達した国には、人間の歴史が積み重ねて来た理性=知恵がぎっしりと詰まっているのではないでしょうか。それ自体は悪いことではありませんが、人間の理性を過信した者たちには、しばしば、神さまの知恵や神さまの文化を侮る思い上がりが見られるようです。
 その思い上がり=高慢が「罪」の原点ではないのかとバルトは指摘しています。
 そんな高慢に陥ってしまった人間は、単純に神さまを信じることができなくなってしまうのかも知れません。そして、先進国の宗教が高度に学問化され、哲学化されていることも、人間理性が神さまよりも上位に立っていることの現われなのかも知れません。
 人間が神さまにとって替わったと言われるゆえんです。
 そういった人間には神さまとの関係を壊わしてしまう「罪」という問題があったのです。神さまに創造され、いのちの息を吹き込まれた人間は、サタンの誘惑に負けて、いのちの主であった神さまのもとを離れてしまいました。それはアダムとエバだけのことではありません。「もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら……」と言われるのは、守って来なかったという歴史があるからですし、「新しい戒め」と言われたことも、「古い戒め・律法」を持つユダヤ人が徹底的にそれに反抗して来たことを暗示しているではありませんか。ヨハネは、このことをユダヤ人を代表するイエスさまの弟子たちに当て嵌めて言っているのですが、それは、当時のローマ・ギリシャ世界の人たちや現代の私たちにも言えることで、現代人にとっては、唯一全能の絶対者であり創造主である神さまの庇護のもとにあったなどという祝福は、もはや痕跡すら失われ、神さまとの良好な関係はずたずたに引き裂かれて見るかげもありません。
 ヨハネが教会の儀礼化や異端化や宗教化に異を唱え、祝福と審判の順序が逆転しているではないかと指摘するのも、そんな神さまとの関係が、人間の犯し続けて来た「罪」によって破壊され、神さまが見えなくなっていることに起因してのことだったのです。

 「イエスさまにとどまりなさい」と、これは、そのように見失われた神さまとの関係を修復するためでした。神さまは、「罪」のためにご自分を見失った人たちのために、贖罪者としてイエスさまを私たちのところに遣わされたのです。十字架に私たちの罪を身代わりとして背負い死んでくださった贖罪者であり、その贖罪を通して神さまと人との仲介者となられたイエスさまを介してでなければ、神さまのもとに帰ることは、断じてできません。

 そうしますと、「わたしの愛の中にとどまりなさい」と、イエスさまの愛が語られたのは、「罪」を贖ってくださった十字架の愛であると浮かんで来るではありませんか。
 ヨハネがこのテキストの中心主題として言及しているのは、まさに、十字架の愛にほかなりません。「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです」(11)と、ヨハネは、イエスさまの喜びに触れていますが、それは、これから十字架におかかりになるというのに、いそいそと十字架に赴くイエスさまのお姿を映し出して余りあるものがあります。
 その辺りのことを預言者イザヤが克明に描写しました。「(主の僕は、)自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪の咎を自ら負った」(53:11・新共同訳)のだと。
 イエスさまの、尋常ならざる私たちへの愛が伝わって来るではありませんか。


3、主の愛に生きる者と

 その愛は弟子たちの輝かしい未来へと向けられます。

 「新しい戒め」は、何も上から目線で授与されたものではありません。
 天の神さまの御子だったお方が、神さまに遣わされ、人の子となって地上を歩まれたように、さらにもう一段、私たちに寄り添うべく近づいてくださった十字架という出来事なのです。
 十字架にはイエスさまの私たちへの愛がぎっしりと詰まっている。
 「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです」(12-15)と。
 ここには、パウロが「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまでも従い、実に十字架の死にまでも従われたのです」(ピリピ2:6-8)と証言したイエスさまが見られるではありませんか。

 イエスさまは弟子たちを伝道者に任じ、世界へと遣わされました。ヨハネもその一人です。
 彼は百歳近くとなって、紀元一世紀末まで生き残り、エペソ教会を中心にアジア属州で働いていましたが、その時、かつてともに使徒に任命された仲間たちはすでに世になく、その多くは、ユダヤ人とローマの権力者たちによる迫害で殉教して行きました。その記録はほとんど残ってはいませんが、きっと、まるでイエスさまがいそいそと十字架に赴いたように、喜んで殉教して行ったのではないかと思われます。伝説なのでしょうか。ペテロの殉教の様子が伝えられています。逮捕されたペテロがヴァチカン丘の刑場に引き回されて行く時、彼を引いて行く役人たちは従者のようであり、ひとめ大使徒を見ようと押しかけた人たちの目に、ペテロの顔は喜びに輝いていて、まるで帝王のようであった(シェンキヴィッチ「クオヴァディス」)と。その様子は、まことに誇らしげに主のもとに向かう凱旋と聞こえて来ます。外典の「ペテロ行伝」にも、逆さ十字架にかかることを望み、殉教して行った時の彼の喜びが伝えられています。イエスさまが「友」と呼ばれたのも、そんな彼らが殉教して行くことをご存じだったからなのでしょう。

 こう言われます。
 「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」(16)
 イエスさまの愛に生きるようになったから、彼ら弟子たちは多くの実を結んだのではないでしょうか。彼らは、神さまを見失った人たちに生ける神さまを示し、その恵みを伝え、神さまの民となるよう招きました。その招きに数え切れないほどの人たちが応え、イエスさまの愛につながる者となったのです。ヨハネはそんな人たちになのでしょう。「あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです」(17)と、「新しい戒め」を伝えました。「戒め」と言われましたが、これは、「守らなければならない」などとする後ろ向きの義務とか責任ではなくて、喜んでイエスさまの愛に生きようと願う新しい生き方なのです。
 信仰の儀礼化などよりも、これこそが最も大切なことなのだと、ヨハネのメッセージは私たちの心に染み通って来るではありませんか。
 イエスさまの愛に生かされ、その愛に生きる者になりたいものです。



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