ヨハネによる福音書・補

Aiming over one step

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まことのぶどうの木に


<ヨハネ 15:1-8>
1「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。2わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多くの実を結ぶために、刈り込みをなさいます。3あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。4わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。5わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることはできないからです。6だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。7あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。8あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。」

<イザヤ 5:1-7>
1さあ、わが愛する者のためにわたしは歌おう。そのぶどう畑についてのわが愛の歌を。わが愛する者は、その肥えた山腹に、ぶどう畑を持っていた。2彼はそこを掘り起こし、石を取り除き、そこに良いぶどうを植え、その中にやぐらを立て、酒ぶねまでも掘って、甘いぶどうのなるのを待ち望んでいた。ところが、酔いぶどうができてしまった。3そこで今、エルサレムの住民とユダの人よ、さあ、わたしとわがぶどう畑との間をさばけ。4わがぶどう畑になすべきことで、なお、何がわたしがしなかったことがあるのか。なぜ、甘いぶどうのなるのを待ち望んだのに、酔いぼどうができたのか。5さあ、今度はわたしが、あなたがたに知らせよう。わたしがわがぶどう畑に対してすることを。その垣を除いて、荒れすたれるに任せ、その石垣をくずして、踏みつけるままにする。6わたしは、これを滅びるままにしておく。枝はおろされず、草は刈られず、いばらとおどろが生い茂る。わたしは雲に命じて、この上に雨を降らせない。7まことに万軍の主のぶどう畑はイスラエルの家。ユダの人は、主が喜んで植えつけたもの。主は公正を待ち望まれたのに、見よ、流血。正義を待ち望まれたのに、見よ、泣き叫び。」


1、高らかな宣言は

 ヨハネ福音書には、これは大きな特徴の一つになっているのですが、神さまのお名前をご自分のこととしたイエスさまの自己主張である、「わたしはある・エゴー・エイミー」というものがあります。これには語句だけのものと説話になっているものとがあって、象徴語句、象徴説話と呼ばれています。これまでにもヨハネは、「わたしはいのちのパンである」(6:35)、「わたしは世の光である」(8:12)などなど、たくさんの象徴語句を取り上げて来ました。今朝見ていこうとしている、「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です」(1)というテキスト、これは「わたしは良い羊飼いである」(10:14-18)と並んで象徴説話に数えられますが、「まことのぶどうの木」は何を象徴し、何を語ろうとしているのでしょうか。
 今朝はそのヨハネのメッセージを聞いていきたい。

 「ぶどう」はいちじくと並ぶユダヤの主要な産物でした。旧約聖書ではしばしばイスラエルがぶどうの木に譬えられています。子どもの頃、山ぶどう狩りをしたことがあるのですが、何の手入れもされない山ぶどうは、生き延びるために、近くの木々に蔦を絡ませて多くの枝を伸ばします。ですから、実はたくさんつけるのに大きくならないし、多くの枝を伸ばしても、実のついていない枝もたくさんあるのです。
 ガリラヤ湖の漁師だったヨハネも、そんなことを良く知っていたのでしょう。神さまを農夫に見立てて丁寧にぶどうの木を手入れする様子を描いています。

 「わたし(イエスさま)はまことのぶどうの木」とある。
 ヨハネがここに排他的な「まことの」と形容詞をつけたのは、「ぶどうの木」を自認する者が数多く出ていたからなのでしょう。紀元一世紀末当時にローマ・ギリシャ世界で栄えた、バプテスマ・ヨハネを祖と仰ぐマンダ教というグノーシス主義の伝承には、生命の木をぶどうの幹に譬え、個々人の魂をその枝とする、「ぶどうの木」の象徴説話に似たような二元論の教えが見られるそうです。使徒十九章1~12節に、第三次伝道旅行でエペソに直行したパウロが、バプテスマ・ヨハネの「バプテスマ(洗礼)」しか知らない人たちに会ったことが記されていますが、彼らはその痕跡だったのなのかも知れません。現代にまでその一部が生き延びて、現在、アメリカに小さな群れがいるそうです。このマンダ教の教えは初期教会に深く関わり、福音の異端化に大きな影響を及ぼしたであろうと考えられています。
 きっと、教会に入り込んで来た異端教説は、マンダ教ばかりではなかったのでしょう。なにしろ、当時、教会で猛威を振るった異端思想・グノーシス主義は、キリスト教系グノーシス主義とネーミングされているくらいですから。
 ヨハネは教会が異なるものに惹かれて行くのを見て、イエスさまこそ「まことの」ぶどうの木であると高らかに宣言しました。

 ところで、「わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多くの実を結ぶために、刈り込みをなさいます。あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです」(2-3)と、これは、6~8節にも繰り返されるテーマですが、奇妙なことに、祝福よりも裁きのことが先に語られています(イザヤ5:1-2参考)。これは、もともとのイスラエルにはなかった発想であって、イスラエルが堕落と異教化を繰り返して来た中で、祝福と審判が逆転してしまったということなのでしょう。
 神さまの怒りや悲しみを暗示していると聞いていいのではないでしょうか。


2、主のうちにとどまる

 「あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。」(3)
 この「きよい」は、2節の「刈り込む」も同じで「きれいにする」の意味、New English Bibleは2~3節とも「クリーン」と訳しています。「イエスさまが話したことばによって」と言われる。ことば(ロゴス)には定冠詞がついていますので、「わたしがあなたがたに話した」を受けてのことですが、むしろ、イエスさまご自身と聞いていいでしょう。
 イエスさまを信じ、受け入れた者は、良く手入れされた者・クリーンであって、イエスさまに属する者にふさわしい麗しい実を結んでいきます。しかし、いくら手入れをしても、その枝がイエスさまという幹につながっていなければ、何の意味もありません。「クリーン」に見えても、さまざまな汚れに侵されている。御父が枝を刈り込むときの原則は、その枝がイエスさまにつながっている(信じている)か、それともつながっていないかなのです。
 この「イエスさまにつながる」ということは、次の4,5節にも繰り返されます。
 「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることはできないからです」(4-5)と。
 私たち、このことばを噛み締める必要があるのではないでしょうか。

 「実を結ぶ」条件は、「わたしも、あなたがたの中にとどまる」と聞きました。
 ヨハネはこの「わたし」をイエスさまとしているのですが、私たちのうちに内在するお方は?と問われますと、このお方がイエスさまなのか、聖霊なのか、その辺りの区別がつかなくなって来るようです。「助け主」の三つのステージのところで、「イエスさまは御父によって世に遣わされた。助け主も御父から遣わされたが、『イエスさまの名によって』と言われる。それは、助け主がイエスさまの働きを引き継ぐために遣わされて来たからである。助け主の働きは、イエスさまとは別人格ながら、まるで分身のように、イエスさまのお働きを他人事とはせず、ご自分を遣わされた御父への責任として、イエスさまの働きを現在化するために働くのである」と述べたように、イエスさまと聖霊とは別人格ではあるのですが、御父とともに、私たちにとっては、理解することも、そしてまた、区別することも難しい三位一体の神さまなのです。
 そのようなお方を、果たして私たちの理解範囲で区別していいものでしょうか。
 もしかしたら、イエスさまへの信仰とは別の、異なる信仰が育成されるのではと、それはとりこし苦労なのでしょうが、余計な心配をしてしまいます。
 十四~十六章は、聖霊というお方を中心に展開されていると聞いて来ました。が、そのお方はご自分を主張なさらず、イエスさまのことを現在化するために働いておられる。その当時も、今も。ですから、イエスさまを信じるとは、私たちに内在する聖霊のお働きによるのだと、私たちの信仰理解を深めておかなければならないでしょう。
 その上で、このところをイエスさまのことと聞いていきたい。
 「わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできない」とは、その意味で聞くべきことなのです。


3、まことのぶどうの木に

 先にヨハネは、「まことの」と排他的な言い方の中で、起こり始めているイエスさま共同体の問題を提起しました。儀礼化や異端化や宗教化といった問題です。その問題は、ヨハネが今朝のテキストの中心主題としたものでしたから、再度、しかし、これが「愛の使徒」と呼ばれた穏やかな人かと思うほど、もっと猛々しく戦闘的に取り上げられます。

 「だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。」(6)
 「投げ捨て、枯れて、火に投げ込み、燃えてしまう」と、この恐ろしい表現は、神さまが忌み嫌う異教の神々がイスラエルの民の中にはびこったときの裁きの様子を語っているようです。

 その一つがエレミヤ書に取り上げられています。
 神さまが徹底的に嫌っていると分かっているのに、エレミヤの時代にイスラエルは、ヒンノムの谷下流に異教の神バアルの祭壇を築き、その上にわが子を生贄として献げ、これを火で焼くといった悪行に変えたのです。エレミヤは、それを告発するように、神さまから「語れ」と命じられました(エレミヤ19:1-15)。ヒンノムの谷は、もともとエルサレム市内のゴミや汚物の焼却場で、ときには死体までも焼却したことで、「ゲヘナの燃える火(硫黄の燃えている火の池)」(黙示録19:20、20:10)に譬えられていました。教会内にはびこった儀礼化や異端化、宗教化といった信仰の堕落は、それに譬えられるほどの悪行だったのです。
 これをヨハネは不信仰であると告発しているのでしょう。
 これは、教会内にはびこる腐敗と堕落に対する戦いでした。

 かつてイスラエルは、「わが愛する者は、よく肥えた山腹にぶどう畑を持っていた。彼はそこを掘り起こし、そこに良いぶどうを植え、その中にやぐらを立て、酒ふねも掘って、甘いぶどうのなるのを待ち望んでいた。ところが、酸いぶどうができてしまった」(イザヤ5:1-2)と言われましたが、今、ヨハネは、ローマ・ギリシャ世界に建てられたキリスト教会が同じことをしているではないかと指摘しているのです。ヨハネ第三書簡には、「デオテレペスは意地悪いことばで私たちをののしり、それでもあきたらずに、自分が兄弟たちを受け入れないばかりか、受け入れたいと思う人々の邪魔をし、教会から追い出している」(10)と、こんな記事があります。

 これは、ヨハネの弟子が、アジヤ属州のどこかの教会宛てに、紀元九十年前後に書いたと思われる一例に過ぎませんが、当時、多くの教会に起こっていた問題が適確に指摘されているのでしょう。当時の教会の様子は、エウセビオスの教会史などにある聖徒たちの壮絶な殉教の記事から、極めて純粋な信仰が溢れているように思われていますが、そんな記事の隙間に教会の儀礼化や異端化や宗教化のことがあり、それは断片的な記事に過ぎませんが、そんな教会につまずき、信仰を捨てて教会を離脱する者たちが多数いたであろうと想像に難くありません。信頼に価する神さまを、教会自身が見失いつつあったからです。迫害や殉教はまだ端緒に着いたばかりでしたが、儀礼化に伴う聖徒たちの堕落や異端化は、もはや留めようもなくなっていたようです。
 心を痛めたヨハネは、イエスさまを信じる信仰に留まるよう強く強く勧めました。
 「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。」(6-8)

 「イエスさまのことばが聖徒たちに留まる」と、これは聖霊のことなのでしょうか。
 「聖霊」などと聞きますと、ロゴスとは真逆の、原始宗教を形成したアミニズム的なスピリチュアリズムを思い浮かべます。事実、教会に大きな影響を与えたグノーシス主義は、そんなスピリチュアリズムを教えの根底にしていました。
 けれども、ロゴスであるイエスさまの教えを引き継ぐお方が、茫漠とした霊である筈がありません。このお方も神さまのことばに立っていました。ですから聖霊降臨の折り、弟子たちは他国の言語で福音を伝えたのです。そのお方が私たちの祈りを聞いてくださる。「求めなさい。そうすれば、それがかなえられる」と主の約束です。そのように聖徒たちが聖霊とともに立つなら、天にはどんなに大きな喜びがあることでしょう。ともすれば異端化や宗教化に陥りがちな現代の私たちに、ヨハネは、イエスさまにつながる立ち方を願っている。排他的な「まことの」は、反面、極めて肯定的な用法であって、イエスさまが、私たちのつながるべき「真のいのちが宿るぶどうの木」であると言っているのですから。
、私たちのつながるべき「真のいのちが宿るぶどうの木」であると言っているのですから。



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