ヨハネによる福音書・補

Aiming over one step

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愛の交わりの中で


<ヨハネ 14:25-31>
25「このことをわたしは、あなたがたといっしょにいる間に、あなたがたに話しました。26しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。27わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がせてはなりません。恐れてはなりません。28『わたしは去って行き、また、あなたがたのところに来る。』とわたしが言ったのを、あなたがたは聞きました。あなたがたは、もしわたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くことを喜ぶはずです。父はわたしよりも偉大な方だからです。29そして今わたしは、そのことの起こる前にあなたがたに話しました。それが起こったときに、あなたがたが信じるためです。30わたしは、もう、あなたがたに多くは話すまい。この世を支配する者が来るからです。彼はわたしに対して何をすることはできません。31しかしそのことは、わたしが父を愛しており、父の命じられたとおりに行なっていることを世が知るためです。立ちなさい。さあ、ここから行くのです。」

<エレミヤ 31:1-6>
1その時、―主の御告げ。― わたしはイスラエルのすべての部族の神となり、彼らはわたしの民となる。2主はこう仰せられる。「剣を免れて生き残った民は、荒野で恵みを得た。イスラエルよ。出て行って休みを得よ。」
3主は遠くから、私に現われた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。4おとめイスラエルよ。わたしは再びあなたを建て直し、あなたは建て直される。5再びあなたはタンバリンで身を飾り、喜び笑う者たちの踊りの輪に出て行こう。再びあなたはサマリヤの山々にぶどう畑を作り、植える者たちは植えて、その実を食べることができる。6エフライムの山では見張る者たちが、『さあ、シオンに上って、私たちの神、主のもとに行こう。』と、呼ばわる日が来るからだ。」


1、イエスさまのお働きを

 「助け主・聖霊」のこと、今朝は十四章25~31節の第三ステージです。
 このテキストは、「このことをわたしは、あなたがたといっしょにいる間に、あなたがたに話した」(25)と、奇妙な導入で始まり、聖霊のことは26節にあるだけです。そして、結論に当たる筈の27~31節はイエスさまのことだけに絞られている。これがなぜ聖霊のことを重点的に取り扱った第三ステージなのかと、奇妙感がぬぐえないのですが(もっとも、第一、第二、第三とステージを区分したのは私の独断なのですが)、ヨハネには何か目的があるようです。
 十五章以下も聖霊のことが中心になっているようですが、三つのステージに分けて重点的に取り上げたのは十四章だけですので、結論のはずの今朝のテキストが、なぜ、こんな奇妙な構造になっているのか、丁寧に見ていきたい。

 「このことをわたしは、あなたがたといっしょにいる間に、あなたがたに話した」(25)と、そこから始めましょう。

 「このこと(これらのこと)」は、最後の晩餐の席で話された十三~十四章のことなのか、それとも、三年間の公生涯の折々に話されたことなのか、それを特定することはできませんし、特定することに意味があるとも思われません。しかし、この導入部分は、単なる回顧ではなく、何らかの意図をもって「これらのこと……」を導入部分にしたものと思われます。

 ところで、共観福音書では、ガリラヤ地方やユダヤ地方を巡り歩いた日々、イエスさまがなさったことの多くが、「会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された」(マタイ4:23、9:35)とあるように、どちらかと言いますと、奇跡に重点を置きながらも、その奇跡さえも教えの一つなのだと、奇跡も教えも区別せずにイエスさまのなさったことなのだと言っているようです。事実、イエスさまにとっては、奇跡も教えも一つのことなのでしょう。そもそもイエスさまにとって、奇跡とか不思議などということはありません。奇跡というのは、私たちにとって不可能に見えるからそう呼ぶだけなのです。

 そんな共観福音書に比べますと、ヨハネ福音書では、「奇跡」はわずか七つしか取り上げられておらず、それはそれでイエスさま福音の中心にまで踏み込んでおり、福音書の結語・二十章30節では、「しるし」と一括してはいるのですが、ヨハネは、「イエスさまのなさったこと」のより多くを、「話したこと=教え」に割いている。
 きっと、「あなたがたに話した」と、今朝のテキストの導入部分25節はそのことを前提にしているのでしょう。
 ヨハネは、この導入部分をもって、イエスさまが「遣わされて私たちの世に住まわれた人の子・地上を歩く神」であると、もう一度強調しているのです。
 なぜ?
 それは、イエスさまが本来「先在のロゴス(ことば)」であり、父なる神さまから遣わされた啓示者だったからです。
 そして、「助け主」がイエスさまのそのお働きを引き継ぐのです。


2、イエスさまを現在化する

 ここでヨハネは「パラクレートス主題」に戻ります。
 「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます」(26)と、「助け主・パラクレートス」のことはこれだけなのですが、これは、「助け主」の登場を予告した第一ステージの、「父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためです」(16)を反復すると同時に、そのお方の職能を、「いつまでも共同体とともにいて(内住)、助け、慰め、弁護してくださる」から、もう一歩具体的なお働きへとコマを進めているようです。

ここで語られる「助け主」の職能は、御父から、「イエスさまの名によって」遣わされるというところに浮かび上がって来ます。イエスさまが遣わされて来たのは、御父によってでした。しかし、「助け主」は、御父によって遣わされながら、「イエスさまの名によって(in・名の中に)遣わされた」と言われているのです。それは、「助け主」が、イエスさまのお働きを引き継ぐために遣わされて来たからにほかなりません。
 けれども、イエスさまの「名」は、イエスさまの本質そのものを指す用法ですから、「助け主」は、イエスさまとは別のご人格なのですが、まるでイエスさまの分身のように、イエスさまがなさったお働きを、イエスさまをもって完了したとはせず、「助け主」は、ご自分を遣わされた御父への責任として、イエスさまのお働きを引き継ぎ、その職務に邁進なさいます。
 そして、その職能は、弟子たち(共同体)に「すべてのことを教え、また、イエスさまがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださる」ことであると明確にされます。そこには、「すべてを」と二回も繰り返されているように、「教える」「思い出させる」とは、イエスさまにおいて啓示された神さまのご意志が、あますところなく、「助け主」によって共同体において再教育され、さらに新しく展開されるということなのでしょう。

 イエスさまの教えは、イエスさまが天にお帰りになって終わったわけではありません。「助け主」によって完全に引き継がれます。それは、イエスさまのお働きが不十分だったということではなく、御父と御子のお働きが共同体の中で新たな段階へと踏み出していくお働きでした。
 イエスさま共同体における新たな段階、それは、イエスさまが行われたこと、教えられたこと、苦しまれたことを、助け主・パラクレートスが《現在化》して行くお働きと言っていいのではないでしょうか。
 ヨハネは、一回限りの聖霊降臨があった(使徒二章)初期共同体のことを思い出しながら「助け主」のことを語っているのではなく、エペソ教会を中心とするアジヤ州に建てられた諸教会とローマ・ギリシャ世界に広がるイエスさまの共同体へのメッセージとしてこのことを語っているのです。それは、すなわち、聖霊のお働きを現在のこととする、現代の私たちをも視野に入れたメッセージでもあるのではないでしょうか。
 ですから、イエスさまは、御父へと同等の、全幅の信頼を込めて、聖霊なるお方のことを「助け主・パラクレートス」と呼び、一切のお働きを彼に委ねました。御父もそのように聖霊を私たちのところに送られたのでしょう。


3、愛の交わりの中で

 27-31節のイエスさま決別説教。
 ヨハネはこれを、聖徒たちへの「世を支配する者」との戦いの勧めとしています。

 「わたしは、もう、あなたがたに多くは話すまい。この世を支配する者が来るからです。彼はわたしに対して何をすることはできない」(30)とある。

 イエスさまが去った後、荒らす者=サタンが聖徒たちに敵対して、猛威を振るうようになると言われ、エルサレム教会はそういった者たちの攻撃に晒されました。
 きっと、ヨハネ亡き後のエペソ教会にもそういった者たちが入り込んで来るだろうと、ヨハネは案じていたことでしょう。つい数年前にユダヤ人たちが指導者として教会に入り込み、信徒たちの信仰を荒らし回ったという出来事があったばかりです。黙示録には「あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった」(2:4)とある。ヨハネがパトモス島に流罪となっていた時のことでした。
 イエスさま共同体に対して、サタンは絶えず隙あらばと機会を窺っているのです。

 第三回伝道旅行でギリシャ各地を巡回した後、パウロが、最後となるであろうエルサレムに戻る時、寄港したミレトスにエペソ教会の長老たちを喚び寄せて語った中にこうあります。
 「私が出発したあと、凶暴な狼があなたがたの中にはいり込んで来て、群れを荒らし回ることを、私は知っています。あなたがた自身の中からも、いろいろな曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こるでしょう。ですから、目をさましていなさい。私が三年の間、夜も昼も、涙とともにあなたがたひとりひとりを訓戒し続けて来たことを、思い出してください。いま私は、あなたがたを神とその恵みのみことばにゆだねます。みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせることができるのです。」(使徒20:29-32)
 それから四十年ほど経っていますが、エペソ教会には、その時のことを覚えている人たちも、少数ながらまだ健在だったことでしょう。
 「みことば」を「助け主」に置き換えながら、ヨハネのメッセージをこれに重ね聞いた人たちの悲しみが伝わって来ます。

 27-31節、この箇所は、イエスさまがいろいろと語り、教えて来たこと(25)を繰り返しているようです。もちろん、メモしていたこともあるのでしょうが、きっと、ヨハネの耳に未だに新しく響いていたのでしょうか。彼は、自分が逝くことに重ねながら語りました。

 「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がせてはなりません。恐れてはなりません。『わたしは去って行き、また、あなたがたのところに来る。』とわたしが言ったのを、あなたがたは聞いたではないか。あなたがたは、もしわたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くことを喜ぶはずです。父はわたしよりも偉大な方だからです。そして今わたしは、そのことの起こる前にあなたがたに話しました。それが起こったときに、あなたがたが信じるためです。」(27-29)
 これは、ヨハネが共同体に勧めたものです。
 「助け主」がいるのだから平安でいなさいと、この平安は十字架の愛がもたらす互いの愛に基づくものなのでしょう。その愛のもとでは別離の悲しみなど取るに足りない。それは束の間であって、また会うことができるのですから。
 そして、その愛はイエスさまを信じる信仰につながるのです。
 「しかしそのことは、わたしが父を愛しており、父の命じられたとおりに行なっていることを世が知るためです」(31)とイエスさまは、十字架の死を直前に控え、なお、それは御父への愛なのだと、そのことを覚えるよう弟子たちに求めました。ご自分が十字架に死ななければ君たちの平安は巡って来ないのだよと、イエスさまの思いが伝わって来るようです。
 しかし、イエスさまの数々の教えは、助け主・パラクレートスが引き継ぐのだと、それが、イエスさまとヨハネのメッセージなのでしょう。教えばかりではない。イエスさまが遺した平安はパラクレートスの助けがあって実現するものでしたし、イエスさまを信じる信仰さえも、私たちに内在するパラクレートスの覚醒によるのではないでしょうか。
 その覚醒された信仰が、御父のもとに上ったイエスさまを認識し、もともとそこにいらっしゃった御父をもわが故郷として恋い慕うようになる。
 パラクレートス・聖霊に導かれる信仰は、神さまの秘め事を想うのです。

 そして、「立ちなさい。さあ、ここから行くのです」(31)と言われます。
 これはゲッセマネの園に出て行く時のものですが、私たちが福音の戦いを戦うため世に遣わされる、そんな時の励ましと聞こえるではありませんか。世との戦いがいよいよ熾烈になる中、助け主が導いてくださる愛の交わりこそ、クリスティアノスの本領なのだと覚えたい。
 「助け主」の第三ステージ、それは、イエスさまのお働きを引き継ぎながら、私たちの現在へと踏み込み、私たちを、イエスさまへの愛に導いてくださるのだと言っているのではないでしょうか。私たち、その愛に留まりたいではありませんか。



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