ヨハネによる福音書・補

Aiming over one step

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主を愛することを


<ヨハネ 14:18-24>
18「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。19いましばらくで世はわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。20その日には、わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしもあなたがたにおることが、あなたがたにわかります。21わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現わします。」22イスカリオテでないユダがイエスに言った。「主よ。あなたは、私たちにはご自身を現わそうとしながら、世には現わそうとなさらないのは、どういうわけですか。」23イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。24わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。あなたがたが聞いていることばは、わたしのものではなく、わたしを遣わした父のことばなのです。」

<エゼキエル 37:26-28>
26「わたしは彼らと平和の契約を結ぶ。これは彼らとのとこしえの契約となる。わたしは彼らをかばい、彼らをふやし、わたしの聖所を彼らのうちに永遠に置く。27わたしの住まいは彼らとともにあり、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。28わたしの聖所が永遠に彼らのうちにあるとき、諸国の民は、わたしがイスラエルを聖別する主であることを知ろう。」


1、ただ信仰共同体だけが

 前回、第一ステージ(15~17)で、「助け主・パラクレートス」のことを聞きました。
 「真理の御霊」と呼ばれるそのお方は、天にお帰りになるイエスさまと引き替えるように、イエスさまの任務を引き継ぐために遣わされ、イエスさまがそうだったように、神さまの啓示となって信仰者たちのうちに内在し、祈りを聞き、世=サタンが敵対者として猛威を振るう中で主の証人として立つ者たちを励まし、助けてくださるのです。イエスさまを天に送って、すでに六十年以上もの年月が流れている。その間、ヨハネはどれだけそのお方に支えられて来たことでしょう。ローマ・ギリシャ世界のイエスさま共同体に、そのお方のことを語る第二ステージ、今朝のテキストは、前回よりももっともっと、ヨハネの溢れるような熱い思いがぎっしりと詰まっている。そのことを今朝汲み取っていきたいと思うのです。

 「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。いましばらくで世はわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。」(18-19)

 今、弟子たちはイエスさまとの別離が近いのではと感じています。
 イエスさまと別れるならば、私たちは「孤児」になってしまうではないか。
 弟子たちはそのことをとても心配していました。

 彼らは、神さまによって、奴隷の国エジプトから救い出されたイスラエルの末裔でした。
 末裔たちにとって、そのことは極めて現実的な心配だったのです。
 カナンの地にイスラエルという独立国を建国し、王国時代をも経験して来ましたが、その間、ずっと順調な歴史を刻んで来たわけではありません。むしろ、たくさんの紆余曲折に翻弄されて来たと言ったほうがいいでしょう。その原因はいつも自分たちにありましたが、しばしば頼るべきお方を見失い、近隣の他民族から攻め込まれたり、土地を切り取られたり、バビロン捕囚やシリヤのセレコウス王朝の支配下に置かれるなど、非常な苦難に遭ったこともあるのです。
 そんな中でイエスさまにお会いし、このお方こそ真に頼るべきお方であって、自分たちの未来に希望を与えてくださるにちがいないと確信したことでしょう。
 彼らの父祖たちが神さまに希望を抱いたように。

 しかし、時代が経つにつれて、エルサレム神殿を中心とする祭儀は、次第に形式的なものとなり、カナンの諸宗教の一つに堕して、ユダヤ人たちは神さまを見失っていました。バビロン捕囚以後、「シナゴグ」と呼ばれるユダヤ人会堂を中心に、律法と割礼を重んじるユダヤ教が台頭して来たのは、祖国を離れてエルサレム神殿に詣でることが出来ないという理由からでしたが、より大きな動機は、そんな祭儀宗教に堕したことに、危機感を覚えていたためです。
 イエスさまとの別離を危惧する弟子たちは、だからといって、そんな古巣のユダヤ教に戻ることはできません。しかも弟子たちは、このお方こそメシア・救い主であると、信仰の告白もしていましたから、他の人たちが右往左往しているように、絶えずどこからか出現して来る偽メシアに鞍替えするなど問題外です。

 そんな中で言われます。
 「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしない。あなたがたのところに戻って来る」と。
 これはイエスさま再臨の約束ですが、共観福音書にあるように、黙示文学で言われるところの終末における再臨ではなく、前回触れた、ペンテコステ時における聖霊とイエスさま共同体との結合を指しているのでしょう。それは新しいいのちの結びつきでした。「わたしが生きるので、あなたがたも生きるからである」と、イエスさまよみがえりを暗示していますが、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」(6)と言われた新しいいのちを、ヨハネは今の自分と教会の人たちの生き方に注入しようとしているのです。
 「いましばらくで世はわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る」と、これは、「もうしばらくすると」(岩波訳)と訳したほうが分かりやすいでしょう。聖霊に姿を変えたイエスさま―別人格ですのでこんな言い方は正しくないのですが、三一の神さまであることを考えますと、こう言っても差し支えないのではないでしょうか―は、世に認識されることがなく、ただ、イエスさまを信じる者たちの共同体だけがそのお方を認識するのです。
 これは「信仰の目によって」であると先週触れました。


2、新しい時代の到来を

 弟子たちは、信仰の目をもってイエスさま共同体を支える「助け主」を見つめた時に、「かの日には、わたしが御父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内におることが、あなたがたに分かる」(20・新共同訳)と言われたことが、理屈ではなく、彼らの信仰のうちに届いて来るのを感じたことでしょう。ペンテコステの折りにヨハネたちは、それまでの不安を一掃して、エルサレムの街に飛び出して行きました。
 そして、大胆にイエスさまのことを証言したのです。
 「これは、預言者ヨエルによって語られたことです。『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。……その日、わたしのしもべにも、はしためにもわたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。……主の名を呼ぶ者は、みな救われる。』イスラエルの人たち。このことばを聞いてください。神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと、不思議なわざと、あかしの奇跡を行なわれました。それらのことによって、神はあなたがたに、この方のあかしをされたのです。……あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。しかし神は、この方を死の苦しみから解き放ってよみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。」(使徒行伝2:22-24)

 これは、弟子たちが異国のことばを話しているのを聞いて、「あの人たちが、私たちのいろいろな国ことばで神の大きなみわざを語るのを聞こうとは」(使徒2:11)と、不思議に思った大ぜいの異国人たち―その日は「五旬節」というユダヤの祭りであって、ユダヤ教に改宗した異邦人たちが巡礼者としてエルサレムに来ていた―が集まって来た時に、彼らにむかって話したペテロのメッセージですが、彼が「イエスさまなんて知らない」と否認したのはつい五十日ほど前のことでしかありません。それほどの変化が弟子たちに起こっていました。
 ヨハネはそういったことを書き加えてはいませんが、大部分の新約文書の写本がもう諸教会に出回っていて、読まれていましたから、「聖霊」のことや「イエスさま共同体」については、共通の認識が出来上がっていたであろうと思われます。

 ですから彼は、イエスさまにお会いできる「かの日」が、「新しい愛の戒め」の実現する日なのだと指摘するに留めました。イエスさまに代わる「助け主」の存在は、「互いに愛し合う」愛のうちで確認されるものだったからです。「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現わす」(21)と。
 ヨハネは、紀元一世紀末という時代の今、イエスさま共同体の人たちに、父と子の天的一体性に共同体も加えられるという、新しい時代の到来を宣言しているのでしょう。
 これはヨハネが精魂込めて私たちに書き残した新しい神学と言っていい。
 しかし、「イエスさまとお会いできる《かの日=到来する新しい時代》・聖徒たちのうちに聖霊が内在する」ということは、世の人たちには隠されたままです。


3、主を愛することを

 すると、タダイと呼ばれるヤコブの子ユダがイエスさまに尋ねました。
 彼が登場して来るのは使徒名簿とヨハネのこの箇所だけです。ヨハネは、わざわざ「イスカリオテでないユダ」と表現していますが、それは、多くの人たちがユダと聞くとイエスさまを裏切ったイスカリオテ・ユダを意識したからでしょう。
 「主よ。あなたは、私たちにはご自身を現わそうとしながら、世には現わそうとなさらないのは、どういうわけですか。」(22)

 ユダのこの質問の真意は、イエスさまの共同体という枠内を飛び出そうとしているようです。聖書をラテン語に翻訳した(ヴルガタ訳)ヒエロニムス(AD340-420)によれば、ユダは後に、シリヤの奥地にあるエデッサの王アブガルスに福音を伝えるために派遣されたそうです。が、そうしますと、そのとき彼は、もう「世界伝道」を視野に入れながら、イエスさまのお話しを聞いていたのでしょうか。もし、そうだとするなら、ユダという人物はとてつもなく大きな視野を持っていたと思われますが、それにしては、ここ以外に彼の記事がないのが気にかかります。

 きっと、そうではなくて、これは、ヨハネが見ていた世界と教会なのでしょう。

 先に登場したトマスやピリポも、ローマ・ギリシャの異邦人世界に建てられた教会を代表する人物ではないだろうかと触れました。それは、弟子たちがイエスさまから異邦人社会への宣教者・神さまの啓示として遣わされようとしていたからです。きっとヨハネは、彼らを質問者として登場させることで、ローマ・ギリシャ世界に建てられた異邦人教会に渦巻いていたいろいろな疑問を取り上げようとしたのでしょう。ユダの質問もそうです。
 それはずっと後の世の、世界宗教としての「キリスト教」という広がりを手中にした中での疑問でもありました。ローマ・カトリック教会に代表されるキリスト教会は、イエスさまの名が冠せられた宗教が共同体という枠内だけに留まるのでは物足りず、その力(権力?)が万人の目の前で世界中に示されることを願ったのです。ローマ・カトリック教会全盛と目される中世はまさにそんな時代でした。
 しかし、《キリスト教会はイエス・キリストの福音のみによって立つ》とした宗教改革運動は、そんな風潮に異を唱えた人たちの信仰の思いでした。が、彼らの後継者たちは、ローマ・カトリック教会のように、再び世界への広がりを夢見てしまいます。
 このキリスト教会の世界宗教化という傾向は、まだ迫害と殉教が始まったばかりの紀元一世紀末のヨハネの時代に、願望としてなのでしょうが、すでに芽生えていたのでしょう。

 ユダの質問に、ヨハネは、イエスさまのことばで答えました。
 「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。あなたがたが聞いていることばは、わたしのものではなく、わたしを遣わした父のことばなのです。」(23-24)

 イエスさまを愛すること、イエスさまのことばを聞くこと、それはイエスさまを信じることであって、同じなのです。
 イエスさまが戻って来るという予告は、イエスさまのことばに生きる者が、その信仰において受け止めるべきことでしょう。

 そのように受け止めた時に、御父と御子ご自身とが助け主となって私たち共同体のうちに内在したもうという約束が、信仰の耳に聞こえて来るのではないでしょうか。それは、、かつて、ヤハウェがイスラエルの中心に据えられた幕屋に住まわれたことに倣うものでした。
 旧約聖書にはこうあります。
 「彼らがわたしのために聖所を造るなら、わたしは彼らの中に住む。」(出エジプト25:8)、「わたしはイスラエル人の間に住み、彼らの神となろう。」(同29:45)、「わたしの住まいは彼らとともにあり、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」(エゼキエル37:27)と。

 「助け主(聖霊)」の内在という約束は、信仰者たちへの、主の恵み溢れる新しい愛の灯を私たちのうちに灯すものでした。世界(この世)を見、そこに出て行く前に、私たち、イエスさまの共同体は、主を愛する愛を、そして、神さまから遠く離れてしまった人たちを惜しむ愛を、信仰のうちに確立しなければなりません。それは、私たちの、この世をリードし、司る者との戦いであり、信仰の戦いでもありますが、きっと、願うならば、助け主・パラクレートスは、私たちのうちにその愛を育んでくださることでしょう。
 ヨハネの時代や宗教改革の時代のように、現代の私たちも、世=サタンの挑戦を受けている。その戦いを私たち、内在したもう三一の神さま・聖霊を信仰の眼で見つめることで勝ち抜いて行くことができるのです。現代、信仰の衰退が囁かれていますが、そのことをないがしろにして来たところに信仰の破綻が広がって来たのではないでしょうか。
 主の前に真摯に立ち、大切なことを大切にする信仰の姿勢を学びたいものです。



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