ヨハネによる福音書・補

Aiming over one step

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信仰の眼をもって


<ヨハネ 14:15-17>
15「もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。16わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためです。17その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。」

<詩篇 143:10-12>
10あなたのみこころを行なうことを教えてください。あなたこそ私の神であられますから。なたのいつくしみ深い霊が、平らな地に私を導いてくださるように。11主よ。あなたの御名のゆえに、私を生かし、あなたの義によって、私のたましいを苦しみから連れ出してください。12あなたの恵みによって、私の敵を滅ぼし、私のたましいに敵対するすべての者を、消し去ってください。私はあなたのしもべですから。


1、助け主、ヨハネの意図は

 先週、イエスさまが弟子たちに託された働きのことを取り上げました。
 今朝のテキストを理解する助けのために、その一部を要約してみましょう。
 「イエスさまが教えてくださった福音、十字架のこともよみがえりのことも、愛のことも、当初は訳が分からなかった弟子たちが、ユダヤという枠を超えて広い世界で働き、ユダヤ人が神さまの民にあらずとした異邦人を主の民へと導くことが出来たのは、イエスさまが御父のもとに帰ることで、神さまが、全世界の人たちにご自分のご栄光を知らしめるという、壮大な世界戦略実現のために、働き人たる権威を弟子たちに纏わせて遣わされたからなのでしょう。そして、そのことは聖霊降臨後に実現します。聖霊の内住こそ、神さまの啓示を纏うしるしでした。弟子たちは神さまの啓示となったのです。」

 聖徒たちに内住する「聖霊」のことが十四~十六章で語られます。ヨハネは、十四章15~17節を第一ステージ、18~24節を第二ステージ、25~31節を第三ステージとする、連続する三つの箇所でこの問題を集中的に取り上げていますが、今朝は第一ステージを見ていきましょう。

 「聖霊」は、ペンテコステの日(ユダヤ人の「五旬節」という祭り。ペンテコステは五十という意味で、過越祭から五十日目に持たれる)に弟子たちに注がれたものですが、以後、誕生したキリスト教会が歴史に刻んで行く歩みのすべては、「聖霊」のお働きなのであるとする、原始キリスト教団の伝承があって、それは、ルカ第二文書を中心に展開されていきます。
 ルカ第一文書(福音書)には、「わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい」(24:49)とあり、それが第二文書(使徒行伝)では、「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまでわたしの証人となります」(1:8)と言われて、二章の聖霊降臨へとつながって行きます。そこに展開される「聖霊」は、聖徒たちに内在する神さまの力であると、ルカ文書は(パウロ書簡も)証言しているのですが、ヨハネは、それとは若干異なるニュアンスで「聖霊」のことを紹介し、取り扱おうとしているようです。
 今朝は、その聖霊のことを、ヨハネがどう受け止め、教えているのかを考えてみたい。

 「もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためです」(15-16)とある。
 ここで取り上げられる「イエスさまの戒め」は、「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(13:34)と言われた「新しい戒め」のことですが、これは、ユダヤ人が教えられて来た「隣人愛」や「敵をも愛する」と言われた人類愛のことではありません。十字架に死なれたイエスさまに倣う愛によって成立したものに、イエスさまの共同体がありますが、ヨハネが、「もうひとりの助け主」と呼ばれる聖霊の登場を描くのは、その共同体を根底から支えるお方として、聖徒たちの互いの愛を発芽させ、育てるためと聞かなければなりません。「人はその友のためにいのちを捨てる。これよりも大きな愛はない」(15:13)と言われます。「新しい戒め」の愛は、イエスさまが十字架の死によって示され、聖霊が聖徒たちに内在して育ててくれた「互いの愛」なのです。

 ところで、しばしば「共同体」ということばを用いていますが、それは、時間と空間を超えてイエスさまの福音に立つ全教会が一つの群れであるという意識に基づきます。「教会」と訳されている「エクレシア」はもともと「呼び出された者たち」という意味で、「教会」よりも「共同体」というニュアンスに近いでしょう。「教会」という日本語訳は適当ではないと考えられています。が、すでに定着していますので、やむを得ず用いてはいますが。


2、イエスさまと同じ働きに

 「助け主(パラクレートス)」と呼ばれます。
 これは、17節で「御霊」、26節では「聖霊」とありますから、共観福音書と使徒行伝やパウロ書簡が「聖霊」と表記しているお方のことなのですが、なぜか、「助け主」という表記は、ヨハネ文書―福音書に四回、十四章16節、26節、十五章26節、十六章7節と、ヨハネ書簡に一回―にしか見られません。その中のヨハネ書簡では、「もしそれでも誰かが罪を犯す場合には、私たちには父のもとに義なるイエス・キリストが弁護者としていてくださる」(ヨハネ第一2:1・岩波訳)というところで、そこに「弁護者」とある方が「助け主・パラクレートス」に当たります。しかし、ヨハネは、この弁護者をイエス・キリストであるとしており、それは後期ユダヤ教の「メシア=弁護者」という伝承概念を踏襲したものではないかと、現代の註解者から指摘されています。それは原語で「パラクレートス」を用いておらず、「聖霊」を指しているとは言えませんので、ここでは除外しておきましょう。新改訳が「助け主」と訳したニュアンスでの、ヨハネ独自の(日本語訳での口語訳や新改訳)呼称は、ヨハネ福音書だけに絞られます。
 ごちゃごちゃ言いましたが、十四~十六章の決別説教、とりわけ第一ステージの十四章15~17節と、第二ステージの16~24節、第三ステージの25~31節が、「聖霊・助け主」についてのヨハネ証言の核心的な箇所と言っていいのではないかと思われます。

 イエスさまが「パラクレートス」であると、その呼称は、上述の、ヨハネ福音書と第一書簡二章1節以外には用いられていませんが、確かに、イエスさまも信じる者たち・弟子たちの助け主、慰め主であり、弁護者でした。しかし、ヨハネが「パラクレートス」と呼ぶ聖霊の呼称には、「もうひとりの」(14:16)と形容詞がつけられていますから、明らかにイエスさまとは別人格であって、そのソースは諸説があって何に由来しているのかは不明ですが、「求める、勧める」という動詞から作られた受動の動詞的形容詞で、「支援のために呼び寄せられた者」、すなわち「弁護者」を指すと言われます(新約聖書釈義事典「パラクレートス」の項)。
 受動の動詞的形容詞などと小難しいことを言いましたが、この「弁護者」は祭壇に祀られて鎮座している神々ではなく、神さまに喚び寄せられて(遣わされて=受動)、私たちのためにずっと働き続けていらっしゃるお方であると聞いていいでしょう。
 新改訳では「助け主」とありますが、これは口語訳を踏襲したと思われます。新共同訳と岩波訳は「弁護者」、永井訳や欽定訳は「慰め主」としていて、訳語も一定してはいません。
 が、「助け主」は、暗闇の主サタンの牙城であって、いつの時代にも、イエスさまを信じる者たちに敵対していたこの世が、牙を剥いて襲いかかって来る、そんな私たちのそばにいてくださる。私たちの祈りを聞き、助け、慰めてくださるお方であり、神さまに取り成してくださるお方です。十字架に死なれたことと墓の中からよみがえられたことは別にして、イエスさまと同じお働きのために父なる神さまが送ってくださった方であると、イエスさまへと同じ全幅の信頼を寄せるべきお方なのです。
 もっとも、聖霊なるお方は、ご自分のことには一切触れず、ひたすら、イエスさまを指し示しているだけなのですが。きっと、このお方は、ご自分を遣わされた御父と御子の思いを実現することだけを考えていらっしゃるのではないでしょうか。


3、信仰の眼をもって

 ヨハネは続けます。
 「その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。」(17)

 ヨハネは、「世はその方を受け入れることができない。また見もせず、知りもしない」と断じます。それは、「世」が過去少なくとも二千年(いや、あらゆる人間の歴史を通して)サタンに取り込まれ、サタンに与して来たからです。ヨハネは、イエスさまがそんな「世」に向かって戦いを挑み、十字架とよみがえりによって勝利して、御父のもとに凱旋して行ったことを、自分をも含めて弟子たちが目撃し、証人とされたのだと思い出しているのでしょう。
 天に上って行かれるイエスさまを見送ってから、もう六十年以上も経っています。
 その長い年月を、福音宣教に働いて来ることが出来たのは、主が「送る」と約束された聖霊の助けがあったからなのです。彼がそのお方を「助け主」「慰め主」「パラクレートス」と呼んだのは、そんな六十年以上もの間守られ、助けて頂いたという実感に裏付けされていたからではないでしょうか。
 百歳近くになって、これほどに頭脳が柔軟で、論理的なことも、助け主の支えがあってのこと、それは私たちにも適用されるのではと、期待がふくらみます。

 今ヨハネは、次第に激しくなって来る迫害と殉教の時代に巻き込まれつつある、愛してやまないエペソ教会と、アジヤ州に建てられた諸教会、そして、ローマ・ギリシャ世界に建てられた教会……と、イエスさま共同体を、その助け主が、幾重にも守ってくださるようにと願っているのでしょう。イエスさまの共同体は、迫害という外部からの嵐に直面しているだけでなく、内部に沸き上がって来る異端化や儀礼化などの堕落の嵐にも浸食されようとしていました。

 「真理の御霊」と呼んだのは、ギリシャの賢人たちが拘り、憧れて来た抽象的な哲学の世界も念頭にあったのかも知れませんが、隠されていた神さまの奥義=啓示が今や明らかに開示されたのであるとの思いをもって、聖徒たちをその御手に委ねたからと思われます。
 「真理」はまさに、神さまの啓示であったイエスさまの恵みを指し示すものであって、「パラクレートス」は、その恵みの啓示を引き継ぐお方でした。
 口語訳や新改訳が「助け主」と呼んだのは、まことにふさわしい訳語ではありませんか。

 イエスさまを送り出した後、弟子たちが「世」にいて戦っていた時には、「助け主」もまた、その信仰の先輩たちとともにいてくださいましたし、今また、さまざまな嵐に翻弄されようとしている聖徒たちのうちに内在して、彼らを導き、助けてくださるのです。聖徒たちに「内在」してと言いましたが、もっと正確には、聖徒たち「と共に」「のもとに」「の中に」住まわれたと言った方が内容的にもいいでしょう。「助け主」は、聖徒たちのもとに赴き、そして彼らの内に住まい、彼らと共に「世=サタン」に戦いを挑んでいるのです。
 そのことを、現代の私たちも覚え、知らなくてはなりません。
 「あなたがたはその方を知っています」(17)と言われたのは、聖徒たちが養っていく信仰の目のことではないかと思うのですが。「その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです」(17)と、それは、見えないものを見抜く信仰の目を見開いてでなければ見えて来ない啓示者の姿です。この世は刻一刻と変わって来たし、現代人の心変わりようは殊更に激しい。神さまのことなど、現代人の価値観からは、とっくに失われている。教会でさえもイエスさまに委ねる信仰の比重が年々軽くなって来ているのです。
 そんな中で、ずっと変わらずに聖徒たちとともに歩んでくださり、祈りに耳を傾けてくださる助け主に、信仰の目を注ぎ続けたいではありませんか。


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