ヨハネによる福音書・補

Aiming over one step

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今、道に歩む者は


<ヨハネ 14:1-4>
1「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。2わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。3わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。4わたしの行く道はあなたがたも知っています。」

<詩篇 22:19-22>
19主よ。あなたは、遠く離れないでください。私の力よ、急いで私を助けてください。20私のたましいを、剣から救い出してください。私のいのちを、犬の手から。21私を救ってください。獅子の口から、野牛の角から。
22私は、御名を私の兄弟たちに語り告げ、会衆の中で、あなたを賛美しましょう。


1、迫害期に生きる者たちの戦いが

 ヨハネ福音書の第二部、序文の十三章を終えて、十四章に入ります。
 十四~十六章はイエスさまの説話です。

 「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい」(1)と冒頭からヨハネは、イエスさまが、弟子たちが陥っている不安への配慮から始めようとしているのだと筆を進めます。
 序文のところで「わたしが行く所へは、あなたがたは来ることができない」(13:33)と弟子たちは聞きました。ペテロがイエスさまから「行く」と聞いて不安になった(13:36-38)こともそうですし、トマスが「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません」(14:5)と言ったことも、ピリポが「私たちに父を見せてください」(14:8)と言ったこともそうなのですが、イエスさまとの別離(死)の予告によって、弟子たちが不安や困惑に脅かされています。

 恐らく、紀元一世紀末のエペソ教会とローマ・ギリシャ世界の諸教会にも同じような状況が生まれていたのでしょう。迫害と殉教の時代が訪れようとしていたからです。使徒後教父と呼ばれる教会の指導者たちは、官憲から軒並みマークされて、いつ逮捕され、殉教してもおかしくない社会状況が整えられつつありました。ローマ・ギリシャ世界に建てられたキリスト教の指導者と目されたヨハネも、つい先ほどパトモス島に流罪とされていて、皇帝が代わったことで赦免され、エペソ教会に戻って来たばかりなのです(紀元96年)。

 十四~十六章の長い説話、これは、過越の食事の席で語られたイエスさまのもののように描かれてはいますが、恐らく、イエスさまの説話を元にしたヨハネのメッセージだったのでしょう。ヨハネはエペソ教会を中心とするアジヤ州の教会の人たちを念頭に置きながら、今、福音書を執筆しているのですが、その原形は彼らへのメッセージであって、そのメッセージを書き留めていたヨハネの弟子たちがこの福音書の執筆陣に加わっていました。そして、彼らは、ヨハネ没後に、ヨハネを記念する事業として、改めてこの福音書の編集を行ないましたから、この福音書は、紀元一世紀から二世紀にかけてイエスさま共同体が陥った諸問題が取り扱われているのだと考えていいでしょう。

 先週も触れた通り、彼らのもとを、今、去ろうとしているのは、間もなく百歳を迎えようとしているヨハネなのです。彼は、迫害と殉教の嵐に翻弄されようとしているローマ・ギリシャ世界の教会、わけても精魂込めて牧会して来た、エペソ教会を中心とするアジヤ州の諸教会の人たちに、イエスさまを信じる信仰には望みがあるのだよと、そのことを、イエスさまが話された説話としながら、伝えておきたいと願いました。

 ヨハネとの離別に不安を覚えた弟子たちに、一番必要なものは何かと、ヨハネは、「神さまを信じること」を掲げました。それは、「神さまの啓示(ロゴス)であるイエスさまを信じること」なのです。「神を信じ、またわたしを信じなさい」とはその意味でした。
 もちろん、それはイエスさまがご自身の弟子たちに遺したことでもありましたが、同時にアジヤ州の諸教会にも、ローマ・ギリシャ世界の教会にも、そして現代の教会にも当て嵌まります。イエスさまを信じることで、世から白眼視され、虐げられる者たちは、神さまに結びつけられますと、その関係が構築される中で、彼らがキリスト者としてふさわしく生きることができるのでしょう。イエスさまの共同体に、世の弱者が多く招かれて来たのは、意味あることでした。NTDの註解者はこう指摘します。「彼らが別れに臨んだイエスから、信じるよう要請されねばならないのは、この闇の世はその憎悪の故に、彼らがこのようにイエスの言葉に守られていることを論難しようとしているからである」と。
 それが迫害期に生きる者たちの戦いでした。


2、神さまが全責任を

 ところで、「わたしを信じなさい」(1)には、もう一つの核心的な意味が込められています。これには、対応するように「心を騒がせてはならない」と言われているのです。この二つのことばは重ねながら聞かなければなりません。

 「心を騒がせる」ということばは、これまでに、ラザロが死の力に奪い去られた時に、イエスさまが、マリヤやベタニヤの人たちの涙をご覧になって、「心の動揺を感じた」(11:33)ことと、一粒の麦が死んで豊かな実を結ぶのだと、イエスさまがご自分の死をお語りになった時に、「わたしの心は騒いでいる」(12:27)と言われたこと、そして、サタンがイスカリオテ・ユダに働いて彼が裏切る決心をした時に、そのことを予告されて「霊の激動を感じた」(13:21)ことと、三度(口語訳はすべて「心を騒がせ」)イエスさまに用いられていましたが、いづれも、イエスさまが悪の力と対決なさる時の緊張感を言ったものでした。そのことからしますと、「心を騒がせるな」という勧めは、単なる「心配するな」とか、「落ち着いて対処しなさい」ということではなくて、神さまの絶対的な力と恵みのもとに身を寄せなければ、敵対する者サタンが打ち振るう強力な暗黒の力に対抗することはできないのだよという意味で語られています。サタンなどと聞きますと、ヨハネが活躍した古代世界ならばいざ知らず、現代の私たちに何の関わりがあろうかと、ヨハネのメッセージを、迷信か時代遅れのおとぎ話としか思われない人たちもいるでしょうが、ヨハネはこれを現代の私たちにも向けて発信しているのです。当時のエペソ教会と現代の教会にどれほどの違いがあるでしょうか。
 そのことを理解した上で「イエスさまを信じなさい」と聞かなければなりません。

 イエスさまを信じる信仰は、日本人の宗教観である私たちの心の問題=信心などではなくて、イエスさまの十字架は、私たちが犯した罪の贖いであり、罪からの救いなのだと、イエスさまを私たちのところに遣わした実在の神さまが認定なさったこと、そして、その恵みに富みたもう神さまが、私たちの内に確立してくださる絶対的な安心立命ということであって、私たち自身を神さまに委ねる時に、私たちのいのちの安全と平安に、神さまが全責任をもってくださるということなのです。ヨハネは、そのことを自分も経験したことから確信していたのでしょう。
 ヨハネの先輩としてエペソ教会にかかわったパウロは、「キリスト・イエスを信じる信仰」と言うところを、「キリスト・イエスの信仰」(ロマ3:22、原典、永井訳)と言い換えています。「信仰」は何よりもまず、遣わされたイエスさまと遣わした神さまとの間で確立されたことなのでしょう。パウロは信仰が神さまの賜物であるとも言っています(ピリピ1:29)。
 エペソ教会の人たちがそのパウロの信仰を引き継ぎ、ヨハネもまたそんな中で伝道者として働いていたことは言うまでもありません。
 ヨハネのメッセージが続きます。

イエスさまは、弟子たちの一切に責任を負うと約束されました。
 そして、その後、「信じる」ということの意味を一歩先へと進めます。
 「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。」(2)
 この後半は、前半を強調する意味で、「もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか」(新共同訳)と強調疑問文と解するのがいいでしょう。天には、私たちのための住まいがたくさんある。イエスさまが「行く」と言われたのは、その住まいを用意するためでした。それは、まるで東京やニューヨークの住宅地に広がる無数の高層マンションでもあるように聞こえるではありませんか。そんな街がいくつあればすべての聖徒たちを収容できるのでしょうか。イエスさまはその超高層マンションを建設するために……、イエスさまが天にお戻りになったのは、そんな馬鹿げたことのためではないと、いくら無知な私たちでも分かります。では、何のために……なのでしょうか。いや、そもそも、聖徒たちを迎えるという「天の住まい」は何を意味しているのでしょうか。


3、今、道に歩む者は

 イエスさまはまるでたたみかけるように言われました。
 「わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです」(3)と。
 はっきりさせておかなければなりませんが、「場所を備える」とは、人間が認識し、閉じ込められている「時」と「空間」を超えた神さまの世界のことなのです。時を、そして空間をも創造された神さまは、当然ながら、時にも空間にも縛られません。ですから、神さまの世界にはタイムラグはありません。イエスさまの「行く」と「来る」も同じく神さまの今・現在のことなのです。そして、その広がりは宇宙をもしのぎます。それほど「広く、大きい」ということではない。神さまはそんな次元にはいらっしゃらないからです。神殿奉献時にソロモンが、「実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできない」(Ⅰ列王8:27)と祈ったのは、そのことをわきまえていたからでしょう。

 時も空間も、そこに縛られた限界ある人間の、限界ある認識に過ぎないのです。

 ヨハネは、パトモス島で幻のうちにそんな神さまの世界を垣間見ていましたから、神さまの時が永遠である、と同時に、今現在のことであると悟り、単数の父の家と複数のたくさんの住まいを同一とし、すべての聖徒たちを迎え入れるに足る神さまの都であると納得しました。
 私たちには、理解も想像もできない不可思議なことですが、これは神さまの世界のことなのです。

 その「行く」と「来る」をもう少し考えてみたい。
 「行く」は十字架の死、「来る」は再臨と考えられていますが、「再臨」については、共観福音書が終末のある時点を意識しているのに、ヨハネは「聖霊の到来による実現」を意識していると指摘されます。それは、「行く」と「来る」を、彼が、どちらも「今と永遠」を指すと受け止めたことを指しているようです。ある註解者は、十四章十六節のところを、「現在における聖霊の経験によって、永遠に神の子の近くにいることが可能になるからである」という意味であると指摘しています。
 もともと、遣わされて私たちの世に住まわれたイエスさまが、ご自分に課した呼称は「人の子・地上を歩む神」でした。
 それなのに、よみがえりのイエスさまを、ヨハネは「神の子」と表記しているのです。
 「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである」(20:31)と。
 「人の子」と「神の子」と表記は変わっていますが、イエスさまの時は連続しているのでしょう。しかし、十三章31-32節以後「人の子」の表記を避けることで、ヨハネは、「行く」と「来る」の間に断絶を見ているようです。
 それは何を意味しているのでしょうか。

 ヨハネは、十字架上のイエスさまが「完了した」と言われた、と記しました(19:30)。
 それは、非常な苦痛とともに私たちの救いを完成なさった「時」の終了であり、新しい「時」の開始を宣言するものです。
 彼はイエスさまのよみがえりをもってこの福音書を閉じます。
 それは共観福音書の記事をなぞったのではなく、「天の住まい」に聖徒たちを招き入れるという信仰の輝かしい結末、永遠を意識していたからに他なりません。

 神さまの今と永遠、それは人間にとって不可思議であり、断絶でしかない。しかし、イエスさま十字架の贖罪によって神さまの住まいに招かれれるのだと、イエスさまを信じる信仰に立つならば、連続する神さまの恵みを思うことができるのではないでしょうか。
 「わたしの行く道はあなたがたも知っている」(4)とあるのも、そのことが念頭にあってのヨハネの証言なのでしょう。
 「知っている」と現在形なのは、十字架の苦しみによる救いのことであって、聖徒たちが天の都に招かれる=道に歩む信仰の「今」を指しているからなのです。
 にもかかわらず、黙示録などは、実在し、やがて聖徒たちが招かれる「神さまの都」を描いている。ますます私たちには、不可解としか言いようがない、神さまのミステリーに思われて来るではありませんか。

 しかし、次第に混沌として来た現代の渦中に、そのお方の都が出現する、あるいは、どこかで聖徒たちを待っている天の都など、想像することができなくとも、「住まい……」のこの記事は、私たちの救い主に、私たちの一切を委ねようではないかという、ヨハネのメッセージなのではないでしょうか。ご自分の「住まいである永遠」に招いてくださると約束してくださったイエス・キリストご自身が、私たちの「今」に全責任を負ってくださるのですから、その今を、み声を聞きつつ全精力を傾けて、信仰の戦いを戦い抜こうではありませんか。
 その戦いを戦い抜いた者だけが、神さまの都、永遠の住まいに想いを馳せることができるのですから。



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