ヨハネによる福音書・補

Aiming over one step

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麗しい旗印は


<ヨハネ 13:31-38>
31ユダが出て行ったとき、イエスは言われた。「今こそ、人の子は栄光を受けました。また、て神は人の子によって栄光をお受けになりました。32神が、人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も、ご自身によって人の子に栄光をお与えになります。しかも、ただちにお与えになります。33子どもたちよ。わたしはいましばらくの間、あなたがたといっしょにいます。あなたがたはわたしを捜すでしょう。そして、『わたしが行く所へは、あなたがたは来ることができない。』とわたしがユダヤ人たちに言ったように、今はあなたがたにも言うのです。34あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。35もしあなたがたの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」36シモン・ペテロがイエスに言った。「主よ。どこにおいでになるのですか。」イエスは答えられた。「わたしが行く所に、あなたは今はついて来ることができません。しかし、後にはついて来ます。」37ペテロはイエスに言った。「主よ。なぜ今はあなたについて行くことができないのですか。あなたのためにはいのちも捨てます。」38イエスは答えられた。「わたしのためにはいのちも捨てる、と言うのですか。まことに、まことに、あなたに告げます。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」

<ホセア 2:19-23>
19わたしはあなたと永遠に契りを結ぶ。正義と公義と、恵みとあわれみをもって、契りを結ぶ。20わたしは真実をもってあなたと契りを結ぶ。このとき、あなたは主を知ろう。
21その日、わたしは答える。―主の御告げ。― わたしは天に答え、天は地に答える。22地は穀物と新しいぶどう酒と油に答え、それはイズレエルに答える。23わたしは彼をわたしのために地にまき散らし、『愛されない者』を愛し、『わたしの民でない者』を、『あなたはわたしの民』と言う。彼は『あなたは私の神』と言おう。


1、人の子賛歌

 ここはエルサレム、東のはずれにあるシオンの丘に近いマルコの母マリヤの家です。その屋上の間で、イエスさまと弟子たちが過越の食事を摂っている。これは最後の晩餐の風景です。
 イエスさまからスープに浸したパン一切れを受け、「あなたがしようとしていることを、今すぐしなさい」(27)と言われて、イスカリオテ・ユダは外に出て行きました。もう夜も更けています。ユダヤ暦は日没から一日を数えますので、すでに、イエスさま十字架の日である金曜日になっていました。彼が再びイエスさまの前に姿を現わすのは、その日の明け方近く、オリーブ山裾にある美しいゲッセマネの園にです。

 彼は一隊のローマ兵士と、祭司長、役人たちを先導しながら姿を現わしました。
 イエスさまを彼らに売り渡すために(18:3)。
 ユダが出て行ってからの数時間、イエスさまは弟子たちへの決別の思いを込めたお話しをされました。共観福音書では、いずれも、オリーブ山の中腹?に移動して(そこにはイエスさまが「ああ、エルサレム、エルサレム……」と嘆いたという伝説の場所がある)、戦争や天地の異変など終末の危機的状況が発生し、それは、人の子が再臨する前に起こる苦難の時なのだと語っています(マタイ24-25章)。が、ヨハネは、そのことには触れず、過越の食事風景の一コマのように、イエスさまの長い説話(14-16章)と、長い祈り(17章)を取り上げました。そこには共観福音書の記事と合致するところもありますが、ほとんどはヨハネ独自のもので、ヨハネ神学の中核をなすものであると言われています。
 今朝のテキスト31~38節をヨハネは、テキストとは無関係な挿入句にも見えるペテロの否認予告をも含めて、「説話と祈り」が向かう方向を視野に構成しているようです。

 ユダが出て行くと、イエスさまが言われました。
 「今、人の子は栄光を受けた。そして神は彼にによって栄光を受けた。神が彼によって栄光を受けたからには、神もご自身において彼に栄光を与えるであろう。今すぐにも栄光を与えるであろう。」(31-32、NTDの私訳)
 ここには、「人の子」としてのイエスさまが、受けようとしている輝かしい栄光が語られています。第一部が「ロゴス賛歌」で始まったように、これは第二部を彩る「人の子賛歌」と呼ばれますが、恐らく、十三章全体が第二部の序文であって、その中心部が「人の子賛歌」なのです。
 これは美しい五行詩になっていて、NTDは「賛歌=凱旋歌」であろうとしています。
 「人の子」という表記はこれ以後記されません。それは、恐らくヨハネの意識なのであって、「地上を歩かれる神」がその地上でのお働きを勝利のうち終えて、御父のもとに凱旋されるからです。それをヨハネは、「今」ということばで証言しました。「今、人の子は栄光を受けた。……今すぐにも栄光を与えるであろう」と。
 その凱旋の発端は十字架なのです。
 この「人の子賛歌」は、イエスさまの受難を語って余りあるではありませんか。


2、新しい戒めを

 さて、ヨハネは、十字架の受難時に起こるいくつかの課題を人々に提供します。

 第一に、その課題は、イエスさまと弟子たちとの別離というリスクでした。
 弟子たちは、イエスさまが自分たちを離れて「行く」と聞き、非常な不安を覚えます。
 しかし、何度も触れて来たように、ヨハネは、紀元一世紀末のエペソ教会を舞台に、この福音書を執筆しているのです。かつてヨハネは、弟子たちとともにイエスさまを見送りました。が、今、去ろうとしているのは、百歳近くになっているヨハネ自身なのです。彼は、後に残される聖徒たちに、キリスト者として、その信仰の生き方を確立して欲しいと願っています。
 「子どもたちよ。わたしはいましばらくの間、あなたがたといっしょにいます。あなたがたはわたしを捜すでしょう。そして、『わたしが行く所へは、あなたがたは来ることができない。』とわたしがユダヤ人たちに言ったように、今はあなたがたにも言うのです」(33)とヨハネは、イエスさまとの「別離」に自分の死を重ねました。
 ヨハネは、「イエスさまから弟子たちに」に「ヨハネから聖徒たちに」を重ねているのです。
 もちろんヨハネは、天にお帰りになったイエスさまとの再会を心待ちにしています。
 それはヨハネにとって、心踊るほどの楽しみだったことでしょう。そこにはいっしょに懐かしいガリラヤの海辺を歩いた仲間たちがいる。みんな先に逝ってしまい、なぜかヨハネは、紀元一世紀末まで一人残されていたからです。しかし、彼は、後に残る聖徒たちのことを思いやりました。この子たちも迫害という時代の波に翻弄されるのであろう。
 しかし、この別離は、ユダヤ人に「わたしが行く所へは、あなたがたは来ることができない」とイエスさまが言われたような決定的(8:21)なものではなく、ほんの一時のことなのです。
 やがて主のもとで再会できる。
 けれども、そのためにも、もう一つの課題をクリアしておかなければなりません。

 第二のことは、「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もしあなたがたの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです」(34-35)というものです。
 ユダヤでは、律法の一つの集約として「隣人愛」が教えられて来ました(レビ記19:18)。「敵を愛せよ」(ルカ6:27-)というイエスさまの教えも、ある意味同じでしょう。
 山上の垂訓にはこうあります。
 「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。」(マタイ5:43-48)
 その愛は、ある意味、崇高な人間愛であり、大部分の諸宗教もそんな愛を目指していると言ってもいい。それなのに、イエスさまが勧めた新しい戒めは、兄弟愛であって、いわば、限定的な仲間内の愛が勧められている。イエスさまは、なぜそのような愛を? 
 この意味を解き明かすキイワードは「わたしがあなたがたを愛したように」なのでしょう。十字架に死なれたイエスさまの愛、私たちの罪をご自分のいのちで贖ってくださった愛、「その愛でつながっていなさい」というのが、新しい戒めであると聞かなければなりません。イエスさまの共同体は、十字架のイエスさまの愛によって立つのです。

 ところで、ヨハネが意識していた「イエスさまの名が冠せられる教会という愛の共同体」のことに触れておきましょう。
 ヨハネはエペソ教会を一つの共同体のサンプルにしていますが、具体的にその名が福音書に記されているわけではありません。恐らく、個々の教会を「共同体」と意識しているのではなく、時と空間を超えて建てられた、イエスさまの名が冠せられた全教会を、群れには属さない信仰者たちをも含めて、イエスさまの一つの共同体と考えている。個々の教会には種々の歴史と特徴もあって、それは尊重されなければならないものでしょうが、その違いを強調しますと、歴史上に多くの争いが見られるように、正統を巡る結合や分裂が生じます。そういったことは、すでにヨハネの時代に起こっていたことでした。
 ですから彼は、たった一つのこと、イエスさまの十字架の愛をもって互いに愛し合うことを唯一の「新しい戒め」としたのです。十字架の愛に留まるならば、個々の教会の違いは取るに足りない小さなことではないでしょうか。


3、麗しい旗印は

 弟子たちの反応を、ペテロのイエスさま否認の予告記事から見てみましょう。
 ペテロとイエスさまの間にこのような会話が交わされます。
 「主よ。どこにおいでになるのですか」「わたしが行く所に、あなたは今はついて来ることができません。しかし、後にはついて来ます。」(36)ペテロは「今は来ることができない」「後にはついて来る」ということに注意を払うべきでした。が、彼は、イエスさまとの離別に異を唱えているのですから、イエスさまの「死」をなんとなく感じても、受け入れられないのは無理もありません。
 「主よ。なぜ今はあなたについて行くことができないのですか。あなたのためにはいのちも捨てます」(37)とペテロは言い募ります。イエスさまの「行く」は、恐らく死ぬことなのだと、この時にはもう弟子たちにはおぼろげにでも感じていましたから、自分たちもともに死ぬのだと、覚悟していたのでしょう。
 しかし、イエスさまはこう言われました。
 「わたしのためにはいのちも捨てる、と言うのですか。まことに、まことに、あなたに告げます。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います」(38)と。
 ペテロの否認予告ですが、ここには、ヨハネ独自のメッセージが込められているようです。

 ペテロのイエスさま否認は実現してしまいます(18:25-27)。

 それは、ヨハネにとっても他人ごとではありません。イエスさま逮捕の折り、弟子たちは一人残らずイエスさまを見捨てて逃げ出してしまったのですから。なぜかヨハネは、ペテロの否認も短く切り詰め、弟子たちが逃げ出したことには全く触れていないのですが。
 しかしヨハネは、その痛みを迫害と殉教時代の教会に重ねているのでしょう。教会を襲う極限状態は、強いストレスを産み、愛の共同体であることを損なう。
 エペソ教会は、ヨハネがパトモス島に流罪とされた時、入り込んで来たユダヤ人指導者たちの攪乱もあって、イエスさまの愛を見失っていました(黙示録2:4)。迫害が激しくなって来ますと、またもやそんなことが繰り返されかねません。ヨハネは、教会がイエスさまの共同体として存続して行くために、イエスさまの十字架の愛のうちに立たなければならないという、信仰の中心に踏み込む必要を感じていました。

 ところで、ヨハネ福音書には、「教会」についての教説や神学がありません。
 当時一般的になっていた「エクレシア(教会)」という用語も用いず、自分をも含めてあの十二人の弟子を「使徒」とも呼んではいないのです。礼拝、聖礼典、役職などにも興味を示さず、ヨハネには「教会」という概念が欠けていると指摘されるのですが、それは、ヨハネが、「古カトリック教会」という最初期の共同体誕生に向けて、役職や職務の階級的区別を図り、聖礼典など教会儀礼が整えられるなど、当時、組織化されつつあった「教会」に違和感を覚えていたからと思われるのです。
 ヨハネには、イエスさまの共同体は、「イエスさまが愛してくださったように、互いに愛し合う」ことによって立つのだという思いがありました。イエスさまを中心にした弟子たちの交わりにその原形を見ていたのかも知れません。
 残念ながらペテロの否認は、イエスさまの死そのものを受け入れることができないという、人間的なイエスさまとの結びつきによるものでしたから、イエスさまのためならば死も厭わないとしながらも、十字架の死から流れ出る「互いに愛し合いなさい」という新しい戒めが共同体を形成する最大の要因なのだとするなど、想像もしていないようですが。

 しかしやがて、ペテロも他の弟子たちも聖霊の注ぎを受けて、イエスさま福音の全貌を知ることとなり、いづれもイエスさま十字架の愛に殉じて行きました。ヨハネも今、その道を辿ろうとしている。「互いに愛し合いなさい」と言い残して。これこそがイエスさまの教会が掲げる麗しい旗印なのですから。私たちも、これがイエスさまの教会・エクレシアであるという証しを、互いに愛し合うイエスさまの愛をもって示そうではありませんか。エクレシアは「(イエスさまに)呼び出された者の群れ」という意味なのですから。



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