ヨハネによる福音書・補

Aiming over one step

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信仰の危機の中で


<ヨハネ 13:12-20>
12イエスは、彼らの足を洗い終わり、上着を着けて、再び席に着いて、彼らに言われた。「わたしがあなたがたに何をしたか、わかりますか。13あなたがたはわたしを先生とも主とも呼んでいます。あなたがたがそう言うのはよい。わたしはそのような者だからです。14それで主であり師であるわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。15わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。16まことに、まことに、あなたがたに告げます。しもべはその主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさるものではありません。17あなたがたがこれらのことを知っているのなら、それを行なうときに、あなたがたは祝福されるのです。18わたしは、あなたがた全部の者について言っているのではありません。わたしは、わたしが選んだ者を知っています。しかし聖書に『わたしのパンを食べている者が、わたしに向かってかかとを上げた。』と書いてあることは成就するのです。19わたしは、そのことが起こる前に、今あなたがたに話しておきます。そのことが起こったときに、わたしがその人であることをあなたがたが信じるためです。20まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしの遣わす者を受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。わたしを受け入れる者は、わたしを遣わした方を受け入れるのです。」

<イザヤ 54:2-8>
2「あなたの天幕の場所を広げ、あなたの住まいの幕を惜しみなく張り伸ばし、綱を長くし、鉄のくいを強固にせよ。3あなたは右と左にふえ広がり、あなたの子孫は、国々を所有し、荒れ果てた町々を人の住む所とするからだ。4恐れるな。あなたは恥を見ない。恥じるな。あなたははずかしめを受けないから。あなたは自分の若かったころの恥を忘れ、やもめ時代のそしりを、もう思い出さない。5あなたの夫はあなたを造った者、その名は万軍の主。あなたの贖い主は、イスラエルの聖なる方で、全地の神と呼ばれている。6主は、あなたを、夫に捨てられた、心に悲しみのある女と呼んだが、若い時の妻をどうして見捨てられようか。」とあなたの神は仰せられる。
7「わたしはほんのしばらくの間、あなたを見捨てたが、大きなあわれみをもって、あなたを集める。8怒りがあふれて、ほんのしばらく、わたしの顔をあなたから隠したが、永遠に変わらぬ愛をもって、あなたをあわれむ。」と、あなたを贖う主は仰せられる。


1、愛に生きるように

 弟子たちの足を洗い終えたイエスさまは、再び上着を着て席に戻り、弟子たちに言われます。「わたしがあなたがたに何をしたか、わかりますか。」(12)「洗足」の第二部とも言える今朝のテキスト12~20節はイエスさまの教えだけが語られます。
 「わかりますか」とあるのは、その時点でヨハネも含め、弟子たちが「洗足」のことを全く理解していなかったことを示唆しているようです。彼らが理解したのは、恐らく、よみがえりのイエスさまに出会い、イエスさまを天に送り帰した後、聖霊降臨を経て教会が建てられ、一人一人が伝道者として立ってからのことだったのでしょう。
 彼らはこの時のイエスさまのことばを思い出しながら、「洗足」の意味を考え、十字架とよみがえりという、イエスさまの大きな愛に包まれていることに思い至ったものと思われます。ですから、ヨハネはここに、イエスさまのことばだけを取り上げました。それはヨハネと弟子たちが辿り着いた信仰告白と言ってもいい。ヨハネのメッセージでもあるのです。これはエペソ教会で語られたものでした。そこで「洗足」が行われたという記録はありませんが、きっと、聖餐式として聖礼典に加えられた「主の食事」の後、素朴な「洗足」が行われ、その席で語られたのではなかろうかと想像します。

 「あなたがたはイエスさまを先生とも主とも呼んでいます。あなたがたがそう言うのはよい。イエスさまはそのような者だからです。それで主であり師であるイエスさまが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。イエスさまがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、イエスさまはあなたがたに模範を示したのです。」(13-15)

 「わたし」とあるところを「イエスさま」としたのは、エペソ教会でのヨハネのメッセージであろうとしたためです。「先生」とか「主」というのは、ユダヤ人の儀礼的な用語ではなく、まさに神的お方への呼びかけであって、弟子たちがイエスさまを神さまご自身であると認識したことを意味しています。その栄光に輝くお方が自分たちの足を洗ってくださったのです。私たちもまた互いに、そして、イエスさまを信じる共同体に加わった者たちの足を洗い、イエスさまが十字架に贖罪となってくださったほどに、私たちを愛してくださったのだから、そのことを告げ知らせなければならないと言い合ったことでしょう。教会儀礼(聖礼典)としてではなく、まさにイエスさまに倣う者「クリスティアノス」と呼ばれた者にふさわしく、この麗しい習慣を信仰の行為として続けようではないかと。
 ヨハネがパトモス島に流罪とされていた時、エペソ教会は、入り込んで来たユダヤ人指導者たちが律法と割礼を中心の教えとしたことによって、黙示録で「あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった」(2:4)と言われるほど、福音から遠くなり、教会存亡の危機に見舞われていました。
 イエス・キリストの名が冠せられた教会として、立ち続けることができたのは、その意識(信仰)に立ち帰って、互いの足を洗いつつ、イエスさまの愛に生きるようになったからではないかと思うのです。


2、主と崇めつつ

 しかし、たとえイエスさまがなさったことが、心から謙遜になり、愛をもって互いの足を洗い合うことだったとして、私たちがそのように倣っても、それで事足れりというわけではありません。いや、目指すところがそこであるのなら、キリスト教も世の諸宗教となんら変わりはないでしょう。それくらいのことならば、世の宗教家たち、そして在家の信徒たちでさえ、自分に厳しい修業を課して「世のため、人のため」と励んでいるのです。いくら「愛」を振りかざしても、キリスト者たちの生き方が彼らに勝るとは到底思われません。私たちがイエスさまの愛に召された者であるなら、もっと、別の次元に立たなければならないのではないでしょうか。


 ヨハネはこう続けます。
 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。しもべはその主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさるものではありません。あなたがたがこれらのことを知っているのなら、それを行なうときに、あなたがたは祝福されるのです。」(16-17)
 「あなたがたは祝福されるのです」と、これは山上の垂訓で「~あなたがたはさいわいである」(マタイ5:3-10)と言われたイエスさまからの祝福を踏襲した言い方で、ヨハネは「イエスさまから『さいわいである』と言われるところに立ちなさい」と勧めている。その立ち方、ヨハネが思い描くところを探ってみたい。

 「しもべ(奴隷)と主人」「遣わされた者と遣わした者」というのは、イエスさまと父なる神さまのことを言っているのですが、それは、イエスさまとイエスさまが遣わした弟子たちに重ねられています。奴隷という言い方は極端ですが、それほどに、遣わされた者は遣わした方の者となって、その御心を喜ばせようとする者なのだと言っているわけです。
 そのような関係が語られて、「これらのことを知っているのなら、それを行なうときに、あなたがたは祝福される」と言われるのですが、それは単純に、「足を洗ってくださったイエスさまの愛に倣って奴隷のように謙遜となれ」というだけではないようです。

 この「謙遜(低くなる)」のことではパウロがこう言っています。
 「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である。』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」(ピリピ2:6-11)
 ここに「しもべ・遣わされた者」の真の姿が浮かび上がっているではありませんか。パウロ神学との接触が認められると現代の聖書学者たちから指摘されるヨハネですが、パウロとは違った感性ながら、十字架の死にまで御父に従われたイエスさま、そのお方を主と崇めつつ従おうではないかと、ヨハネは、クリスティアノスへの信仰告白を勧めたのです。そこに立つ人はさいわいである。その人は御父・天にお住まいの神さまから祝福されるのだと。


3、信仰の危機の中で

 「わたしは、あなたがた全部の者について言っているのではありません。わたしは、わたしが選んだ者を知っています。しかし聖書に『わたしのパンを食べている者が、わたしに向かってかかとを上げた。』と書いてあることは成就するのです。わたしは、そのことが起こる前に、今あなたがたに話しておきます。そのことが起こったときに、わたしがその人であることをあなたがたが信じるためです。まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしの遣わす者を受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。わたしを受け入れる者は、わたしを遣わした方を受け入れるのです。」(18-20)

 「わたしのパンを食べている者が……」と、これは詩篇四十一篇9節からの引用です。
 これは、ダビデが息子アブサロムの反逆に遭ったとき、信頼していた部下で知謀の将アヒトフェルが裏切ってアブサロムに加担したことを指しているのですが(Ⅱサムエル15~16章)、これを、反逆の徒イスカリオテ・ユダに重ねているのです。
 サタンの手中に陥っていたユダ(マタイ26:8)に取り込まれ、懐疑に陥っていた弟子たちの信仰は、もう一度新たにされて確信へと踏み入らねばならないと、これはイエスさまの宣言なのでしょう。しかし、そんな状況は、六十数年後のエペソ教会にも、そして、現代の教会にも重なります。ヨハネは、そんな懐疑に陥ったキリスト者たちが、イエスさまのものへと回復するために、彼らが見失った信仰の原則を示す必要がありました。

 そのためには、「イエスさまはどなたなのか」をはっきりさせなければなりません。

 新改訳では「わたしがその人であること」と奇妙な翻訳になっていますが、これは、出エジプト記が証言した神さまのお名前「エゴー・エイミイ」(3:13-14)であって、新共同訳は正確に「わたしはある」と訳しています。イエスさまは今、十字架という舞台に上がろうとする時に、ご自分が「エゴー・エイミイ」であると証言しました。それはイエスさまの証言でもあり、そしてまた、ヨハネの証言・メッセージでもあるのです。
 なぜなら、弟子たちの、そして私たちの信仰は、「エゴー・エイミイ、神さまご自身」であるお方への告白に導かれて行くからです。
 ヨハネは、現代にまで続いて来た「イエスさまはどなたなのか?」という疑問に答えました。この福音書を締め括ろうとするときに、使徒の一人トマスがよみがえりのイエスさまに向かってひれ伏し、そして告白したのです。「わが主、わが神」(21:28)と。この単純な告白がヨハネの回答なのでしょう。いや、ヨハネは、答えただけでなく、ローマ・ギリシャ世界に建てられた教会の人たちのために、信仰の告白へとその道筋を整えたのです。十字架の主の前に膝をかがめ、その恵みを感謝し、賛美する「礼拝」という道筋です。
 私たち、その道筋に立って歩みたいものです。

 また、そこには、福音の証しに遣わされる者たちへの配慮も見られます。
 イエスさまに倣う者「クリスティアノス」は誰であっても、原則、イエスさまの福音を証しするために遣わされる者なのです。が、ヨハネは、イエスさまを天に送った後に、イエスさまを見失った幾人もの人たちを見て来たのでしょう。ヨハネがこの福音書を執筆している紀元一世紀末は、ローマ皇帝によるキリスト教徒迫害と殉教が常態化して行くその最初期にあたります。ヨハネ自身、教会指導者とマークされていたためパトモス島に流罪となり、温和なネルヴァが束の間の帝位(約一年)に就いた九十六年、赦免されてエペソ教会へと帰って来たばかりでした。そんな迫害と殉教の時代を迎えて、イエスさまを信じる信仰が苦難の様相を呈し始めている。多くの人たちが信仰の危機に陥っているのです。その人たちに、是非とも、ヨハネから聞いてほしいことがあるのでしょう。よみがえりのイエスさまが天に上られたように、あなたがたもまた、天の御父に覚えられているのだよと。

 現代の私たちとて例外ではありません。
 明確な迫害や殉教があるわけではありませんが、現代の価値観がイエスさまを信じる信仰、イエスさまの教会に属することを蝕んでいる。信仰の危機の時代と言ってもいい。天に国籍のある者として(ピリピ書3:20)、イエスさまを信じる信仰に堅く立とうではありませんか。



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