ヨハネによる福音書・補

Aiming over one step

57
神さまのことばに


<ヨハネ 12:36b-50>
36bイエスは、これらのことをお話しになると、立ち去って、彼らから身を隠された。37イエスが彼らの目の前でこのように多くのしるしを行われたのに、彼らはイエスを信じなかった。38それは、「主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか。また主の御腕はだれに現わされましたたか。」と言った預言者イザヤのことばが成就するためであった。39彼らが信じることができなかったのは、イザヤがまた次のように言ったからである。40「主は彼らの目を盲目にされた。また、彼らの心をかたくなにされた。それは、彼らが目で見、心で理解し、回心し、そしてわたしが彼らをいやす、ということがないためである。」41イザヤがこう言ったのは、イザヤがイエスの栄光を見たからで、イエスをさして言ったのである。42しかし、それにもかかわらず、指導者たちの中にもイエスを信じる者がたくさんいた。ただ、パリサイ人たちをはばかって告白はしなかった。会堂から追放されないためであった。43彼らは、神からの栄誉よりも、人の栄誉を愛したからである。44またイエスは大声で言われた。「わたしを信じる者は、わたしではなく、わたしを遣わした方を信じるのです。45また、わたしを見る者は、わたしを遣わした方を見るのです。46わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれもやみの中にとどまることのないためです。47だれかが、わたしの言うことを聞いてそれを守らなくても、わたしはその人をさばきません。わたしは世をさばくために来たのではなく、世を救うために来たからです。48わたしを拒み、わたしの言うことを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことばが、終わりの日にその人をさばくのです。49わたしは、自分から話したのではありません。わたしを遣わした父ご自身が、わたしが何を言い、何を話すべきかをお命じになりました。50わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています。それゆえ、わたしが話していることは、父がわたしに言われたとおりを、そのままに話しているのです。」

<詩篇 119:105-112>
105あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。106私は誓い、そして果たしてきました。あなたの義のさばきを守ることを。107私はひどく悩んでいます。主よ。みことばのとおりに、私を生かしてください。108どうか、私の口の進んでささげるささげ物を受け入れてください。主よ。あなたのさばきを私に教えてください。109私は、いつもいのちがけでいなければなりません。しかし私は、あなたのみおしえを忘れません。110悪者は私に対してわなを設けました。しかし私は、あなたの戒めから迷い出ませんでした。111私は、あなたのさとしを、永遠のゆずりとして受け継ぎました。これこそ、私の心の喜びです。112私は、あなたのおきてを行なうことに、心を傾けます。いつまでも、終わりまでも。


1、信じた者たちは?

 「イエスは、これらのことをお話しになると、立ち去って、彼らから身を隠された」(36b)と、今朝のテキストが始まります。これまでにもしばしばそんなことがありました。それは、「隠れた神」(イザヤ45:15)ということで、古くからイスラエル国家神学の重要な一面でしたが(ヨハネ講解説教30参照)、ご自身を隠されるのもこれが最後で、次に姿を現わされるのは、十字架の前夜に持たれた過越の晩餐(13:1)の席なのです。
 十字架のイエスさまは、もはや「隠れた神」ではなく、現代、いや、終末にまでも人々の前にご自身を顕わにされる神さまと言えましょう。
 ですから、この箇所は、ご自身を隠されたことで、ヨハネ福音書第一部とも言うべき公生涯三年間のお働きが36a節で終了したことを指そうとしているのだと聞こえます。
 ところが、実際に第一部は、12章50節をもって締め括くられているのです。
 その最後を飾る今朝のテキスト(36b-50)は、恐らく、補足として付加されたものと考えていいのではないでしょうか。近現代の批評的註解者は、あちこちに散らばっていたヨハネの折々の説話を、後代の誰かがここにひとまとめにしたのであろうと推察しています。しかし、そうだとしても、もともとの原形を回復することはもはやできませんので、このテキストを、第一部締めくくりのメッセージとしたヨハネの意図とメッセージとを、そのあるがままの形のままで探ってみたいと思います。初期教会の時代からヨハネのものとして大切に聞かれて来たメッセージなのですから。


その説話、二つに分けられるであろうと思われますが、まず43節までの一つ目です。
「イエスが彼らの目の前でこのように多くのしるしを行われたのに、彼らはイエスを信じなかった」(37)とある。これは、疑いもなく、イエスさま三年間の公生涯を通し、ガリラヤ地方やエルサレムなどで「民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された」(マタイ4:23)ことを指しており、多くの人たちがイエスさまの回りに集まっていました。
 その様子を、最初期からの弟子であるヨハネは、イエスさまの間近でずっと見ていたのです。

 ここには「イエスを信じなかった」とありますが、共観福音書によれば、多くの人たちがイエスさまをメシアではあるまいかと期待しつつ、「信じた」のです。ですから、パリサイ人たちがイエスさまを目の敵にしていたにもかかわらず、地方から来た人たちも、エルサレムの市民たちも、まるで、イエスさまに危機が訪れることはあり得ないとばかりに、大ぜいの人たちがイエスさまを取り囲んでいました。
 しかし、「イエスさまの行われたしるしを見て、御名を信じた」(2:23)とする人々に対しても、その大半は、イエスさまを、ローマ支配から脱却するための反乱軍司令官に担ぎ上げようとするものであると、ヨハネは異議の申し立てをしているのでしょう。ヨハネは「しかし、イエスは、ご自身を彼らにお任せにはならなかった。なぜなら、イエスはすべての人を知っておられたからである」(2:24)と記しています。ヨハネがこのように記した時点は、二章のことで、恐らく、一年も前の過越の祭りでのことでした。
 が、一年経っても状況は変わりません。
 いや、むしろ、ユダヤ人たちのイエスさまに対する期待はしぼんでいました。
 「信じた」とする人たちの本意はことごとく裏返しであって、「彼らはイエスを信じなかった」と同義でしたし、それは、すでに七百年以上も前にイザヤが預言していたことでした。


2、神さまよりも人の栄誉を

 ヨハネはイザヤ書から二箇所引用しました。
 一つ目の、「主よ。だれが私たちの知らせを信じたか。また主の御腕はだれに現わされたか。」(38)というのは、「苦難の僕」(53:1)からの引用です。「主の御腕」は、神さまの力を現わす象徴であって、イエスさまがなさった数々の奇跡を指し示している。つまり、イエスさまが行われた多くのしるしは、神さまの力に起因しているのだと言っているのです。「苦難の僕」の章は、その神さまの力を、イエスさまが啓示者ご自身として行使なさったのだと語っているのに、人々はそのことが分からないと嘆いている。苦難の僕を描きながら、イザヤは人々の不信仰に焦点を当てているようです。
 イザヤ書、特に五十三章「苦難の僕」の章はユダヤ人に良く読まれていました。
 ヨハネは、それにもかかわらず、人々は、イエスさまを「苦難の僕」とは認めず、信じようとはしないと嘆いているのでしょう。そのことは、「彼らが信じることができなかったのは、イザヤがまた次のように言ったからである」(39)として、イザヤ書から二つ目の引用をし、「主は彼らの目を盲目にされた。また、彼らの心をかたくなにされた。それは、彼らが目で見、心で理解し、回心し、そしてわたしが彼らをいやす、ということがないためである」(40)と、彼らの不信仰が神さまに起因することを明らかにしました。

 これは、ヘブル語原典(マソラ本文)によれば、「……悟るな。……遠くせよ。……堅く閉ざせ」(イザヤ6:9-10)と命令形なのですが、ここではそれが直接形に変えられて、神さまの意志がユダヤ人たちの上に成就したのだと捉えられている。ヨハネは、イエスさまを信じることも、また信じないことも、神さまのなさることであると言っているのでしょう。しかし、「神さまに敵対することを意志した者」は、その「罪」を問われることとなります。その「罪」は、耳を閉ざした彼が意志したことなのですから。
 彼は、神さまの力が、イエスさまによって実現して来たし、これからも実現するのだとは、断じて認めることはないのでしょうか。もし、聞く耳を開かなければ。

 ヨハネはこの部分を、「イザヤがこう言ったのは、イザヤがイエスの栄光を見たからで、イエスをさして言ったのである」(41)と閉じますが、イザヤ召命の記事である六章は、イザヤが神殿内で神さまの栄光を目撃したことから始まる。
 それをヨハネは、イエスさまの栄光に重ねました。

 「しかし、それにもかかわらず、指導者たちの中にもイエスを信じる者がたくさんいた。ただ、パリサイ人たちをはばかって告白はしなかった。会堂から追放されないためであった。彼らは、神からの栄誉よりも、人の栄誉を愛したからである。」(42-43)
 会堂からの追放令は、エルサレム陥落後、紀元八十五年ヤブネにおいてのことですから(ヨハネ講解説教42)、これは、紀元一世紀末のローマ・ギリシャ世界の人たちへのヨハネのメッセージなのですが、これが、「信じた」とするユダヤ人をも含めて、彼らに異議を唱えたヨハネの結論なのです。ユダヤ人ばかりでなく、ギリシャ人もローマ人もイエスさまを信じる信仰の心変わりが始まっていたのでしょう。
 「神さまの栄誉よりも、人の栄誉を愛した」と、現代の私たちもその立ち位置を考えてみたいではありませんか。


3、神さまのことばに

 もう一つの説話が語られます。
 第一部の最後を彩るヨハネのメッセージは、これまでにイエスさまが語られたことを繰り返した要約なのです。「大声で」とありますから、これは「大切な教え」なのだよと、彼の意識なのでしょう。

 四つのことがここにまとめられている。見ていきたい。
(1)「わたしを信じる者は、わたしではなく、わたしを遣わした方を信じるのです。また、わたしを見る者は、わたしを遣わした方を見るのです。」(44-45)これはヨハネがこれまでにもずっと拘って来た命題でした。八章には「神がわたしを遣わしたのである」(42)とある。初期教会から現代まで続いて来た、「イエス・キリストは何者なのか?」という議論に、父君から遣わされて世に来られた「先在のロゴス・神さまの愛するひとり子・人の子・地上を歩まれた神」であると、ヨハネが答えたものと言えましょう。すべてのものを創造なさり、いのちの主であって、神さまの救いのご計画を完遂されたお方であると加えてもいい。神さまご自身であることを、「わたしはある」者であると、神さまが主張されたお名前を名乗り、宣言なさいました。
(2)こうある。「わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれもやみの中にとどまることのないためです。だれかが、わたしの言うことを聞いてそれを守らなくても、わたしはその人をさばきません。わたしは世をさばくために来たのではなく、世を救うために来たからです。」(46-47)ヨハネ神学のエッセンスと目される三章には、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(16)とあります。イエスさまは「光」として、また、「救い主」として来られたのであると、これ以上の説明はいりませんでしょう。
(3)残りの部分、先に49~50節のところを取り上げる。
 「わたしは、自分から話したのではありません。わたしを遣わした父ご自身が、わたしが何を言い、何を話すべきかをお命じになりました。わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています。それゆえ、わたしが話していることは、父がわたしに言われたとおりを、そのままに話しているのです。」これが三章では、「神がお遣わしになった方は、神のことばを話される。神が御霊を無限に与えられるからである。……御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる」(34-36)とあって、ヨハネは、永遠のいのちと神さまのさばきが、「神さまのことば」によって確定していくのだと強調しています。宗教改革者たちによって、歴史に福音主義という名を刻まれた「聖書信仰」の萌芽が見られます。当時のユダヤ人たちは聖書そのものよりも、その解釈であるラビたちの言葉を重んじてその研究に打ち込み、タルムッドやミシュナといった「聖典」を作製していました。ヨハネは、そのことに異を唱えているのでしょう。
(4)「わたしを拒み、わたしの言うことを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことばが、終わりの日にその人をさばくのです。」(48)イエスさまを世に遣わされたのは、「裁き」のためでもあると、ヨハネは、不信仰な人たちへの警告を、福音の裏面として語ります。これに、もともと結語であった前項49~50節を重ねますと、人を罪に定めるのも、また、人を永遠のいのちに定め、招いてくださるのも、十字架におかかりになった「神さまのことば・イエスさま」であると聞かなければなりません。「わたしが話したことば」と言われたのは、まさにその意味においてなのです。先にイザヤ書から引用されたことは、「聖書から聞きなさい」というヨハネの思いでもあるのでしょう。

 ヨハネは、「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたし(イエスさま)について証言しているのです」(5:39)と証言しました。「神さまのロゴス(ことば)」であるイエスさまを指し示してやまない聖書そのものに聞きたいではありませんか。



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