ヨハネによる福音書・補

Aiming over one step

51
愛と賛美と礼拝とを
  (ラザロのよみがえり)


<ヨハネ 11:38-44>
38そこでイエスは、またも心のうちに憤りを覚えながら、墓に来られた。墓はほら穴であって、石がそこに立てかけてあった。39イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだ人の姉妹マルタは言った。「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」40イエスは彼女に言われた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」41そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて、言われた。「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。42わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。」43そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。「ラザロよ。出て来なさい。」44すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」

<詩篇 100:1-5>
1全地よ。主に向かって喜びの声をあげよ。2喜びをもって主に仕えよ。喜び歌いつつ御前に来たれ。3知れ。主こそ神。主が、私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である。4感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に、はいれ。主に感謝し、御名をほめたたえよ。5主はいつくしみ深く、その恵みはとこしえまで。その真実は代々に至る。


1、もしあなたが信じるなら

 「そこでイエスは、またも心のうちに憤りを覚えながら、墓に来られた。墓はほら穴であって、石がそこに立てかけてあった」(38)と場面が変わりました。

「ラザロが危篤です」と、姉妹のマルタ、マリヤからの報せを聞いて、その時にはもうラザロは亡くなっていたのですが、イエスさまご自身が出発を遅らせたこともあって、ベタニヤに到着された時には、民間俗信で魂が離れてしまったと言われる四日目の夕方近くになっています。
 みんなはラザロの死を悲しんではいますが、「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです」(4)と、イエスさまが言われたことが分からない。
 恐らく、イエスさまが死んだ人を生き返らせたという奇跡のことを聞いていて、ラザロも……と期待した人たちもいたのではと思われます。ですから、亡くなってすぐのことであればどうにかしてくださったかも知れない。が、もう四日も経っている。そんな死の力の前に人は如何ともし難いのだと、「死」は、その絶対的な力を誇示していました。きっと、ラザロの墓の前に来た人たちは、その絶対的な死の力の前では、さまざまな奇跡を行使されて来たイエスさまでさえもあがらうことはできまいと思っていたのではないでしょうか。マルタが「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから」(39)と言ったのは、そんな人々の気持ちを代弁しているようです。
 イエスさまの憤りは、死の力を行使する者に対してであると聞きましたが、イエスさまの絶対性を、人の常識という型枠に押し込めたことへの、これは、ヨハネの憤りでもあったのではないでしょうか。

 イエスさまが葬られた墓でも同じでしたが、ラザロが葬られた洞穴にも扉のように大きな石が立てかけてありました。「(石は)その上に置かれていた」という表現ですが、縦穴の上に蓋のように大きな石を置いたのでは、動かすのが大変です。一人や二人ではびくともしないほどの石です。山の斜面に横穴を掘って、その入り口に溝を刻んで、扉のように平たくて円形の石を転がし立てかけてあったと見るのが自然でしょう。

 墓の前に立たれたイエスさまは「その石を取りのけなさい」と言われました。

 きっと、ぞろぞろとついて来た人たちは、イエスさまが何をなさろうとしているのかと違和感を覚えたのではないでしょうか。
 洞穴の墓は村の共同墓地ですので、たくさんの遺体が葬られていましたし、この大きな石の扉は埋葬のとき以外には取り除かれたことはないからです。ラザロの遺体を見たからといって、どうにかなるものでもあるまいに。
 ですから、イエスさまはもう一度言い足されました。
 「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか」(40)と。
 これはマルタに言われたものですが、「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか」(25-26)と先に言われたことばが意識されている。
 その意味は分からないながらも、人々はイエスさまがそこまでおっしゃるのならと、石の扉を取り除きました。地元の男たちもいましたから、手慣れたものです。
 洞穴の、墓の口が開きました。


2、愛の教会を

 イエスさまは天を仰いで言われました。
 「父よ。わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」(41-42・新共同訳)

 これは、イエスさまの祈りでした。
 今、イエスさまがなさろうとしているラザロのよみがえりに、人々が死と向き合いつつ、どう受け止めようとするのか、これは、ある意味、イエスさまの戦いでもありました。

 祈りというものを、しばしば私たちは、願いごとと勘違いしているようです。が、「ああしてください」「こうしてください」と願うのは、安っぽい欲求を神々に強制する、民間俗信の「祈願」のたぐいでしかありません。神さまへの祈りは、そんな「祈願」とは違うのだと、明確に一線を引いておかなければならないでしょう。なぜなら、神さまは、私たちの祈りに潜む全容をご存じだからです。私たちの祈りはそんなお方への前に立つものなのです。
 パウロはこう言っています。
 「御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちはどのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。」(ロマ8:26)と。
 祈りは、聖霊なる神さまが内住された信仰者の全人格を、神さまの前に持ち出すことなのです。それはしばしば言葉にならず、うめきにも似た哀しみであったり、また、沸き立つような喜びであるのかも知れません。言葉ではなく、時には賛美になることもあるでしょう。しかし、神さまの前で、大声を出す必要もなく、言葉を飾り立てる必要はない。むしろ、飾った言葉、形式張った表現などは祈りを妨げるものでしかありません。神さまは、私たちの消え入りそうな小さな祈りも聞き取ってくださいますし、私たちの内面を何もかもご存じなのですから。もっとも、信仰者たちが一堂に会して祈る祈りもありますので、その祈りは、「アーメン」と同意できるほどに、聞く人たちに分かりやすいものでなければなりませんが。

 ここでは、イエスさまと父なる神さまとは一つであると、そのことが強調されていますから、ことさらに願う必要はありません。御子の願いは、願う前から御父の思いの中にあり、御子が願うときには、いつも、同時に叶えられているのだと、それが、この祈りを公開したヨハネの信仰でした。
 いつもイエスさまのすぐ近くにいた弟子たちは(ヨハネも)、イエスさまのこのような祈りをしばしば聞いていました。
 十七章にはイエスさまの長い祈りが記されていますが、それは、ヨハネが渾身の力を込めて再現し、書き上げたものなのでしょう。
 そこにはこうあります。
 「わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて(完全な者とされて)一つとなるためです。それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたことを、この世が知るためです。」(17:23)

 「彼ら」とは弟子たちであり、マルタであり、マリヤであり、墓の前に集まったベタニヤの親しき人たちであり、ラザロでもさえある。そして、それはまた私たちでもあるのだと聞かなければなりません。
 イエスさまは、なさろうとするすべての恵みと不思議において、いや、ご自身の存在すべてにおいて、父なる神さまにその栄光を帰しました。その栄光は、私たちが、神さまを覚え、イエスさまを信じ、愛することでもあります。そしてまた、私たちが一つ心となって「愛の教会」を築き上げていくということなのだと覚えて頂きたい。イエスさまの名が冠せられる教会は、イエスさまの愛によって立つところであり、神さまが住まわれる聖なる宮、祈りの家なのですから。
 「愛と感謝の教会」であること、それが私たちの祈りなのではないでしょうか。
 それが「父よ。わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します……」という、ヨハネや私たちの思いまでもがぎっしりと詰まったイエスさまの祈りとなりました。


3、愛と賛美と礼拝とを

 それからイエスさまは、大声で叫ばれました。
 「ラザロよ。出て来なさい」(43)と。
 「すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。『ほどいてやって、帰らせなさい。』」(44)

 このヨハネの描写には奇妙なところがいくつかあります。
 大切なところですので、丁寧に見ていきたい。

 第一に、ラザロの頭部は幅広の布で包まれていますが、身体を手といっしょに包帯状の長い布で巻かれ、もちろん、二本の足はまとめてぐるぐる巻きにされています。そんな恰好で出て来ました。まるで古代エジプトのミイラのようではありませんか。そんな恰好でどうやって歩けたのでしょうか。果たしてイエスさまの声が聞こえたのかと疑問が膨らみます。イエスさまが大声で叫ばれたから? 
 いや、「大声」はそこにいた人々の注意を喚起するためではなかったでしょうか。
 いいえ、遥かに隔たった二千年という時間を超えて現代の私たちにまで聞こえよと張り上げた大声だったのかも知れません。見るとか聞くという人間の次元を超えたことが行われたのでしょう。ラザロが普通の状態に戻ったのは、イエスさまから「ほどいてやって、帰らせなさい」と言われた時のことでした。

 第二に、そこは村の共同墓地だったのに、他の遺体は何も反応しておらず、名前を呼ばれたラザロだけが出て来たという点にも、奇妙さを感じます。エゼキエル書三十七章には「枯れた骨にいのちが吹き込まれた」不思議が語られていますから、たとえ、他の遺体が骨だけになっていたとしても、ラザロのよみがえりに加えられてもおかしくはないのですが。しばしば、ラザロのよみがえりは、五章で言われたイエスさまのことばに関連づけられますが、そこには、「墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来る時が来ます」(5:28)とあります。墓に葬られたすべての者がよみがえって、あるいはいのちに、あるいはさばきに……。それは終末の光景ですが、カレンダーの時間を一気に引き寄せたとしても、ラザロだけがというのはどうしたことなのでしょうか。
 ヨハネはその辺りの疑問には関心がないのか、何も答えようとはしていません。


 しかし、ヨハネの証言には、まだ触れていないところがありました。そこに回答が隠されているようです。
 ヨハネは、「ラザロ」とは言わず、「死んでいた人」と表現しました。これは、もっと正確に言うなら「死んでしまっていた人」がいい。完了形なのです。つまり生き返る可能性は百%ない死人であって、そこには、ものも言えず、聞くことも出来ず、話しかけられても答えることが出来ない、人とは言い難い丸太ん棒のような「物体」が想定されている。ラザロの人格などは全く考慮されていません。その「物体」がイエスさまの声に反応して「出て」来ました。
 何とも奇妙な光景ではありませんか。
 ラザロよみがえりの奇跡が、単なる蘇生ではないことがお分かりでしょう。人は単なる蘇生(息を吹き返した)であっても奇跡と言います。しかし、そんな次元ではない出来事が起こったのです。これはまさにいのちの創造でした。たとえラザロがもう一度死んだとしても、そして、その通りになるのでしょうが、彼は新しいいのちに創造されました。石に向かってもの言えとお命じになり、激しく荒れ狂うガリラヤの湖に「静まれ」とお命じになり、風も水もこれに聞き従うお方、天地万物を、そして人間をも創造されたお方でしたから、ラザロを新しいいのちに創造し得たのです。そして、これはサンプルに過ぎないのです。やがて、すべての死人が神さまの前に立つと、これは、ヨハネが幻のうちに見た神さまの約束でした(黙示録20:12)。
 マルタとマリヤ、そしてベタニヤの村人たちに、怖れと、しかし大きな喜びの声が沸きあがったであろうと想像します。

 これが、イエスさま福音の証人ヨハネの告知でした。
 「イエスさまはよみがえりであり、いのちである」と。
 いのちはそのお方に属するものなのです。迫害と殉教に直面したローマ・ギリシャ世界の聖徒たちは、そのことを覚えなければなりませんでした。現代の私たちもそうです。「死」は、現代に至るまで、その克服を願いながら果たせない人間の最も重い課題なのですから。ラザロの死とよみがえりは、イエスさまご自身の「十字架の死とよみがえり」を告知するものなのでしょう。その時が刻一刻と迫っていました。
 さて、「よみがえりといのちの主」に、私たち何を献げましょうか。
 愛と賛美と礼拝こそがふさわしいではありませんか。



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