ヨハネによる福音書・補

Aiming over one step

46
永遠の栄光に輝く都に


<ヨハネ 10:22−30>
22そのころ、エルサレムで、宮きよめの祭りがあった。23時は冬であった。イエスは、宮の中で、ソロモンの廊を歩いておられた。24それでユダヤ人たちは、イエスを取り囲んで言った。「あなたは、いつまで私たちに気をもませるのですか。もしあなたがキリストなら、はっきりそう言ってください。」25イエスは彼らに答えられた。「わたしは話しました。しかし、あなたがたは信じないのです。わたしが父の名によって行なうわざが、わたしについて証言しています。26しかし、あなたがたは信じません。それは、あなたがたがわたしの羊に属していないからです。27わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。28わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。29わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。30わたしと父とは一つです。」

<ダニエル 7:23−27>
23彼はこう言った。「第四の獸は地に起こる第四の国。これは、ほかのすべての国と異なり、全土を食い尽くし、これを踏みつけ、かみ砕く。24十本の角は、この国から立つ十人の王。彼らのあとに、もうひとりの王が立つ。彼は先の者たちとは異なり、三人の王を打ち倒す。25彼は、いと高き方に逆らうことばを吐き、いと高き方の聖徒たちを滅ぼし尽くそうとする。彼は時と法則を変えようとし、聖徒たちは、ひと時とふた時と半時の間、彼の手にゆだねられる。26しかし、、さばきが行われ、彼の主権は奪われて、彼は永久に絶やされ、滅ぼされる。27国と、主権と、天下の国々の権威とは、いと高き方の聖徒である民に与えられる。その御国は永遠の国、すべての主権は彼らに仕え、服従する。」


1、解放を願って

 「そのころ、エルサレムで、宮きよめの祭りがあった」(22)と、新しい段落に入ります。
 「宮きよめの祭り」は、何度か触れたように、第九の月(十二月)二十五日から八日間続くのですが、シリヤに生まれたギリシャ人のセレウコス王朝アンティオコス・エピファネスによって侵略・冒涜されたエルサレム神殿が、独立運動に立ち上がったユダ・マカバイオスにより奪還され、聖別浄化されて再奉献された(前164年12月25日)ことを記念して行われるようになったそうです。新共同訳は「神殿奉献記念祭」と訳しています。
 その日、一日分の油しかなかった神殿の灯火が、奇跡的に八日間も輝き続けたところから「ともしびの祭り」とも呼ばれ、ユダヤ人は自宅前にあかあかと灯火をともしていました。これは三ヶ月前の「仮庵の祭」とそっくりですので、「キスレウ月(十二月)の仮庵祭」と呼ばれているそうです。聖書にはここにしか出て来ませんので、あまり馴染みがありませんが、現代のイスラエルでも「ともしびの祭り」として祝われているそうです。


 その宮きよめの祭りに、イエスさまが神殿にいるのを見て、ユダヤ人たちが取り囲みました。ヘロデ大王が改築した時に「ソロモンの廊」と名づけた、神殿東側にある回廊でのことです。冬のことでもあって、オリーブ山から吹き下ろして来る冷たい風を、回廊の高い外壁(神殿内庭に面した壁はなかった)が、その風を遮っていましたから、この回廊は、人々が集まる絶好の場所になっていたのでしょう。

 この祭りは、わざわざ巡礼者となってエルサレムまで来ずとも、それぞれが自分の町で祝うのが通常の形だったそうですから、ここに集まった人たちは、イエスさまを付け狙っていたパリサイ人や律法学者といった人たちと考えていいようです。

 彼らがイエスさまに質問しました。
 「あなたは、いつまで私たちに気をもませるのですか。もしあなたがキリストなら、はっきりそう言ってください」(24)と、この問いかけには、「宮きよめの祭り」の起源となった、ユダ・マカバイオスとその一族の反乱が、ユダヤ民族に与えた勇気と希望という、その再現への期待が込められているようです。
 そのときに解放と独立を求めて戦った相手は、シリヤに建てられたセレウコス朝の王国でしたが、今、ユダヤには、ユダヤ人のマカバイオス一族が建てたハスモン朝(ハスモンはマカバイオスの先祖の名)の一員として、士官レベルで加わっていたイドマヤ人ヘロデが、策謀をもってハスモン王家を破滅に陥れ、ローマの後押しのもと王となっています。イドマヤ人は、ユダヤ教に改宗してはいましたが、もともと十二部族には数えられない、族長ヤコブの兄エサウを祖とする、イスラエルの敵対民族でした。そのヘロデは、彼をユダヤの王とした世界帝国ローマがその背後にいる、実質的支配者なのです。
 ユダヤ人たちは、ヘロデ王とその後継者たちからの搾取や、ローマ総督ピラト等の暴政に苦しみながら、かつてマカバイオスが剣をもって立ち上がり、独立を勝ち取ったのと同じに、武力を行使してローマの支配下から脱却する、反乱軍の司令官に、「キリスト(油注がれた者・メシア)」を望んでいました。


2、信仰の耳を持って

 彼らは、反発しながらも、もしかしたら、本当にメシアなのかも知れないと淡い期待を込めながら、イエスさまに「あなたはキリストなのか?」と尋ね、イエスさまが答えました。
 「わたしは話しました。しかし、あなたがたは信じないのです。わたしが父の御名によって行なうわざが、わたしについて証言しています。しかし、あなたがたは信じません。それは、あなたがたがわたしの羊に属していないからです」(25-26)と。

 ある聖書学者たちは、この部分(22-26節)が羊飼い説話の本来の導入部であって、1〜18節はこれに続いて語られたものであろうとしています。そうなのかも知れません。
 しかし、「羊と羊飼いの譬え話」で、イエスさまが本題としたところは、ユダヤ人との議論にあるのだと、ヨハネは、エペソ教会でのユダヤ人との対話議論に重ね合わせているようです。そこには、教会の指導者となったユダヤ人教師たちが、異邦人信徒を、「律法と割礼」を重視する我が陣営に引き込もうとして、ヨハネの主張する福音に断固反対し、イエスさまを、断じてメシアなどではないとする議論を展開しているのです。

 流罪先のパトモス島から戻って来たヨハネは、今、「イエスさまは本当にキリストなのか?」というエペソ教会の深刻な問いかけに直面していたと言えるでしょう。

 エペソ教会には、黙示録に「あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。」(2:4)と言われるように、イエスさまの福音から逸れてしまったという問題がありました。それが、「イエスさまは本当にキリストなのか?」と問いかけられた問題の本質なのです。「深刻な」という意味がお分かりでしょう。
 しかし、ユダヤ人が危機意識をもって教会に入り込んでいたというのは、ある意味、小アジアやギリシャ本土にまで広がって来たキリスト教会が教えるイエスさまの教えに、ディアスポラのコミニュティが引き込まれてしまうといった緊張感をユダヤ人にもたらしていたからではないでしょうか。
 ギリシャ世界でのキリスト教会の伸張は目を見張るものがあったということなのです。
 ユダヤ人たちがキリスト教会を目の敵にして、ヨハネの留守中に乗り込んで来たのもそんな背景があったためでした。彼らユダヤ人たちは、危機意識を持ちながら、キリスト教会を、我が陣営に引き込みつつあったと言えましょう。
 イエスさまとユダヤ人の間で議論されていた「羊と羊飼い」の問題が取り上げられたのも、ゆえ無きことではありません。

 「イエスさまの羊はイエスさまの声を聞き分けます。またイエスさまは彼らを知っています。そして彼らはイエスさまについて来ます」(27)と、ヨハネは議論を展開しました。イエスさまが羊飼い=キリストであることはもう何回も何回も話されていたことです。それなのに彼らは反発するばかりで信じようとはしません。それは、彼らがイエスさまの羊ではないからであると、それがヨハネの論点でした。
 彼らはイエスさまの声(福音)を聞き分けることができないのです。
 いや、逆に言ったほうがいいでしょう。
 イエスさまの声を聞き分けるなら、イエスさまに属する者であると認定されるのであって、ヨハネは、ぜひとも聞き分ける信仰の耳を持って欲しいと願っているのです。


3、永遠の栄光に輝く都に

 ヨハネの続くメッセージでは、イエスさまの深い本質にまで踏み込みます。
 それこそが、「羊と羊飼い」の教えを持ち出した真意でした。
 「イエスさまは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもイエスさまの手から彼らを奪い去るようなことはありません。イエスさまに彼らをお与えになった御父は、すべてにまさって偉大です。だれもイエスさまの御父の御手から彼らを奪い去ることはできません。イエスさまと御父とは一つです。」(28-30)

 ヨハネは、「だれもイエスさまの手から彼らを奪い去るようなことはない」「だれもイエスさまの御父の御手から彼らを奪い去ることはできない」と繰り返していますが、「羊と羊飼い」のところで語られた、門から入らない盗人や強盗のことが念頭にあっての言及なのでしょう。羊を奪おうとする者はユダヤ人であるとした、ヨハネの想定に触れました。そして、さらに、「イエスさまと御父とは一つである」と御父にまで言及したのは、ユダヤ人教師に向けた議論だったからなのでしょう。
 それは、彼らがエペソ教会で律法と割礼を中心にヤハウェの教えを教え、イエスさまのことはほとんど無視していたからです。

 彼らの言う「律法」とはヤブネの律法学者たちが教えたラビたちの口伝伝承であって、タルムッドやミシュナを意味しています。すでに彼らのヤハウェ信仰は、「ユダヤ教」に変身しており、人間中心の宗教に堕していました。
 イエスさまの福音など信じられるはずもありません。
 彼らは、密かにイエスさまをメシア(武力をもって立ち上がる指導者)かも知れないとは思っていましたが、だからといって、イエスさまが神さまご自身であると認めたわけではない。イエスさまの福音を否定し続けたのは、そのところに原因があるのではないでしょうか。紀元一世紀末の時点で、イエスさまが剣をとったマカバイオスのように支配者に立ち向かっては行かず、十字架刑に処刑されて死んだことは、ディアスポラのユダヤ人たちにも知られていました。ですから彼らは、イエスさまがメシアであると密かに思っていたことさえも苦々しく、そんな記憶を脳裏から消し去りたいと思っていたことでしょう。
 よみがえりなどもってのほか、彼らにとっては、弟子たちのでっち上げでしかないと思っていたのではないでしょうか。現代人と同じですね。


 しかし、イエスさまの神性なしには、福音そのものが成立しません。
 なぜなら、十字架の贖いも、よみがえりの意味も、聖徒たちに約束された永遠のいのちも、ヤハウェのひとり子としての権威と栄光の中で行われ、語られたことだからです。
 ヨハネはこの福音書の最初から、「ことばは人となって私たちの間に住まわれた。……この方は恵みとまことに満ちておられた」(1:14)と言って来ました。「(世に)住まわれた」とは、御父の啓示者として来られたという意味であって、それ故、イエスさまはご自分を「人の子」と呼ばれました。それは「地上を歩まれた神さま」という意味なのです。これは、ご自身の恵みとまこと(「十字架とよみがえり」を言っている)に人々を招くためであると、ヨハネは、自分もそこに招かれた者であるとして、イエスさまをこの地上に遣わされた、ヤハウェにして父なる神さまご自身がご計画なさった救いの出来事を証言したいと願ったのでしょう。

 その証言を聞くべきは、ヨハネと対話議論しているユダヤ人たちやエペソ教会の人たちだけでなく、現代の私たちでもあります。
 「あなた」はイエスさまにとって大切な羊なのです。
 その大切な羊を奪い取る者は、歴史上に数限りなく出現しましたし、現代という時代そのものもそんな怪物なのかも知れません。その現代という巨大な怪物に、今、世界中の教会が軒並み踏み荒らされている。それなのに、「奪い取る者はいない」と言われます。きっと、ヨハネは終末の日を見ているのではないでしょうか。私たちを待っている永遠の栄光に輝く都に、御父と御子に逆らう者は一人として招かれることはないのです。
 イエスさまの囲いに育まれる羊として、そんな都に招かれる光栄を、信仰の目を凝らして見つめ続けたいではありませんか。



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