ヨハネによる福音書・補

Aiming over one step

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羊のためにいのちを!


<ヨハネ 10:11−21>
11「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。12牧者でなく、また、羊の所有者でない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして、逃げて行きます。それで、狼は羊を奪い、また散らすのです。13それは、彼が雇い人であって、羊のことを心にかけていないからです。14わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。15それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同様です。また、わたしは羊のためにいのちを捨てます。16わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊があります。わたしはそれをも導かなければなりません。彼らはわたしの声に聞き従い、ひとりの牧者、一つの群れとなるのです。17わたしが自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。18だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。」19このみことばを聞いて、ユダヤ人たちの間にまた分裂が起こった。20彼らのうちの多くの者が言った。「あれは悪霊につかれて気が狂っている。どうしてあなたがたは、あの人の言うことに耳を貸すのか。」21ほかの者は言った。「これは悪霊につかれた者のことばではない。悪霊がどうして盲人の目をあけることができようか。」

<イザヤ 53:10−12>
10しかし、彼を砕いて、痛めることは、主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを、罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。11彼は、自分のいのちの、激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。12それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられるからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。


1、良い牧者とは

 「羊と羊飼い」に付随するヨハネの説話(7-10)から、先週、イエスさまは永遠のいのちに至る門である、イエスさまに信頼する羊の群れは、その門を通って入って来る牧羊者の声を聞き分け、ついて行くのだと聞きました。現代という道に迷う私たちも、その門を捜し、見極め、イエスさまの声を聞き分けたいものです。
 ところで、この説話には、もう一つの、「イエスさまは良い牧者である」とするヨハネのメッセージが残っていました。
 今朝は、そのメッセージを聞いていきたい。11〜21節のところからです。


 「イエスさまは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます」(11)と、ヨハネのメッセージ後半が語られます。

 漁業と農耕文化の日本では牧羊に馴染みがありませんから、良い牧者とか、悪い牧者などと聞いても理解できませんが、実は、羊という家畜は、賢いというにはほど遠い動物なのですね。崖や藪などの危険な場所を察知することができません。子どもの頃ですが、飼っていた羊を、裏の草むらにつないでおきました。羊は草を食むのに夢中だったのでしょうね。つないでいた棒のまわりをぐるぐる食べ歩いて、次第にひもが短くなっても後戻りすることができないまま、ついにはそのひもで自分の首を絞めて……。
 死んでいるのを見つけたときにはとてもショックでした。
 また、臆病ですから、群れで動くのですが、一匹が何かのトラブルに陥ると、群れ全体がパニックになって収拾がつかなくなります。当然のことですが、一匹一匹がそれぞれの性格を持っていますから、放牧していても、牧者は、その一匹ごとにどういった行動に走るかを判断しなければなりません。良い牧者とは、羊たちのことを総合的に的確に把握し、回りの状況に応じて安全に導いて行くことが第一の必須条件でした。羊は非常に大切な財産だったのですから。
 「安全に」というのは、ユダヤ人が住んでいたパレスティナ近辺には、崖や藪といった危険の他にも、ダビデがライオンと戦って羊を守ったと言及する記事(サムエル第一17:34-36)もあるくらいですし、12節には狼(アラビア狼)のことが出て来るように、アラビア豹や野生の犬などさまざまな外敵もいたようです。それに、強盗や盗人が羊を獲物にしていたのも、昔から羊産業の天敵だったことを指し示しているのでしょう。

 しかし、このメッセージ後半で、ヨハネは、強盗や盗人には言及せず、羊のことを大切にしていない雇い人のことに触れています。
 「牧者でなく、また、羊の所有者でない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして、逃げて行きます。それで、狼は羊を奪い、また散らすのです。それは、彼が雇い人であって、羊のことを心にかけていないからです」(12-13)と。
 当時、羊飼いは、その大半が近隣の外国人で(ベドウィン)、彼らはプロの牧羊者として放牧に携わっていたようです。今でも、その辺りでは、長い杖をもって見事に羊を束ねている、昔を思わせてくれるような羊飼いに出会うことができます。その大部分がプロとしての矜持を保っていたのでしょうが、中には、羊に対する愛着の薄い者たちもいたようで、「雇い人」と呼ばれてしまう。羊を自分の守るべき大切な財産という認識を持たない人を指しています。
 ここに言われる「雇い人」はそうした人たちのことであって、そんな、事に当たって逃げ出してしまう「雇い人」を前面に押し出したこの記事の書き方は、きっと、イエスさまが羊の真のオーナーであることを強調しているのでしょう。


2、主のものとされる恵みを

 ヨハネは更に踏み込みました。
 「イエスさまは良い牧者です。イエスさまはイエスさまのものを知っています。また、イエスさまのものは、イエスさまを知っています。それは、父がイエスさまを知っておられ、イエスさまが父を知っているのと同様です。また、イエスさまは羊のためにいのちを捨てます。」(14-15)

 「わたし」とあるところを「イエスさま」と言い変えましたが、ここでヨハネは、イエスさまがご自分の羊のことをご存じであるのと同様に、その羊もまた自分の飼い主であるイエスさまのことを知っているのだと、自分のことに重ね合わせながら語っているのです。
 「知っている」というギリシャ語は、経験に即して深く認識しているというニュアンスを有していますが、それ以上にヘブル的な意味では、体験そのものの中に入り込んでその事実を承認したのだとする信仰上の確信にまで踏み込んでいます。恐らく、「愛する」と言い換えてもいいほのニュアンスが込められているものと思われます。ここではそんなヘブル的な意味で言われていますから、ヨハネは、心底自分がイエスさまの羊とされたことを喜び、感謝しながら、「わたしは」とイエスさまご自身に言い換えて話したのでしょう。
 そして、そのことを神さまと羊の関係にまで拡大しました。

 それは、イエスさまと神さまの「子―父」の関係レベルにまで深められ、高められて行くのだと、羊たちが御国に招かれることが想定されています。「囲いにいる羊」、つまり、イエスさまのものである羊を飼うのは、牧者として召し出されたヨハネが、真の牧者イエスさまに倣うのであって、彼は、これまでに何度も繰り返して来た、「永遠の都に招くのだ」(3:16、5:24、6:24等)という約束のことを想起している。
 羊たちが導かれて行く行き先は、永遠の都なのです。

 恐らく、イエスさまは、「主よ、信じます」と言って、ご自分の前にひれ伏した盲目だった若者(9:38)も聞いていることを念頭に置いて話されたのでしょう。彼はかつて枠からはみ出していた者でしたが、もう「囲いの中に保護されたイエスさまの羊」でした。
 そしてある意味、イエスさまのお話を聞いているユダヤ人や、また、ヨハネのメッセージを聞いているディアスポラのユダヤ人もそんな「囲い」の中に守られ、イエスさまに牧される(必要のある)羊であると言われているのかも知れません。彼らはそのことを認めず、愚かにも19-21節にあるような反発や分裂を繰り返すばかりなのですが、もともと彼らは神さまの選びの民だったのですから。
 しかし、ヨハネのメッセージを聞いている人たちは他にもいました。
 ヨハネは、続けて、イエスさまのお働きが、ご自分の羊を守り、御国に招くと同時に、「囲いの外にいる羊」にまでその恵みを及ぼそうとしていることにも触れます。「イエスさまにはまた、この囲いに属さないほかの羊があります。イエスさまはそれをも導かなければなりません。彼らはイエスさまの声に聞き従い、ひとりの牧者、一つの群れとなるのです。」(16)
 エペソ教会の人たちは、自分たちが、主の恵みを頂いて御国に招かれた、そんな羊であると聞いたのではないでしょうか。


3、羊のためにいのちを!

 ここには「良い羊飼いは羊のためにいのちを捨てる」とあります。

 いのちを捨てると、そのことは「羊と羊飼い」の説話部分には二回(11、15)しか記されていませんが、恐らく、ヨハネは、エペソ教会の人たちに、このことを何度も繰り返し話していたのではないかと思われます。説話文の勢いからはそんなヨハネの思いが伝わって来るようです。
 ところが、ヨハネはその「羊と羊飼い」の説話形式を捨てて、イエスさまご自身のことに踏み込みます。これはイエスさまの十字架とよみがえりに関することであって、福音の心臓部なのであるという、ヨハネの証言なのでしょう。ですから、「羊と羊飼い」の説話から、イエスさまご自身のことへと踏み込みました。イエスさまご自身の証言として。
 「わたしが自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。」(17-18)

 言うまでもないことですが、十字架はイエスさまご自身の意志によるものでした。
 一見、それはユダヤ人に起因すると思われており、近代神学はそのことを強調しているのですが、断じてそうではありません。ユダヤ人がイエスさまを十字架につけたのだと、そのことだけが強調されるとき、よみがえりは否定され、イエスさまを単なる偉人に引き降ろして、人間イエス、あるいはキリスト教創設者という面だけが強調されてしまいます。
 「断じてそうではない」というのは、イエスさまが御父から遣わされた「地上を歩む神さま・人の子」なのだと、天上での御父と御子との関係が強調されているからです。
 ヨハネは、この福音書でそのことを基調にしていますし、それが彼の信仰であり、伝道者としての神学なのです。堅苦しい言い方なのですが、その辺りのことをいささかも妥協することなく強調し、展開している、ある註解者のことばを紹介しましょう。
 「人の姿をとった神は死に対して、とくに彼自身の、彼の意志による、死に対して、絶対に自由であり、支配力を持つ。彼の死は破滅ではなく、むしろ、命を捨て、命を取る至高の権利は、父の意志に基づく。神の子は自分の命を捨て、そして再びそれを取る全権を、父から与えられているのである。」(NTD・ヨハネによる福音書)
  ここには、「全世界の王」「天にも地にも王」であるイエスさまのお姿が、まるで見えるように浮かび上がって来るではありませんか。

 ヨハネはこの福音書で、他の文書に勝って、十字架のイエスさまを王として描きました。
 エルサレム入城の折りに、王の威厳をもってロバの子に乗られ、人々の歓呼の声をお受けになって嬉々として入城されたことも、ローマ総督ピラトとの問答と彼の宣言の中にも、十字架上のイエスさまを巡るユダヤ人たちの対応にも、そして、葬りの様子とその墓が王墓として描かれていることも、ヨハネは、そのお方の前に誰もが跪き、ひれ伏して信仰と真(マコト)とを献げなければならないお方であるとしているのです。よみがえりについても同じです。それは、まさしくイエスさまは、天上から遣わされて来た「全世界の王」なのだと、彼がパトモス島で幻のうちに見たお方に重ねながら、彼自身の告白として執筆したからなのでしょう。
 「苦難のしもべ」の姿を遺したイザヤ書五十三章に、「主のみこころは彼によって成し遂げられる。彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する」(10-11)とあることも、孤高の王イエスさまの、私たちへの愛を彷彿と感じさせてくれるではありませんか。

 ヨハネは、人種のるつぼのようなエペソで多くの民族に接しながら、確かにイエスさまはその人たちの中に王・救い主として来られた方なのだと、その方に愛されたことを実感しつつ、その孤高の愛を多くの人たちに伝えたいと願って、「良い羊飼いは羊のためにいのちを捨てる」と告白したのでしょう。
 私たちのために十字架におかかりになり、贖いとなってくださった牧者イエスさまの声を聞き分け、その愛に応える者となりたいではありませんか。



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