ヨハネによる福音書・補

Aiming over one step

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いのちへの門を通って


<ヨハネ 10:1−10>
1「まことに、まことに、あなたがたに告げます。羊の囲いに門からはいらないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。2しかし、門からはいる者は、その羊の牧者です。3門番は彼のために門を開き、羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。4彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。5しかし、ほかの人には決してついて行きません。かえって、その人から逃げ出します。その人の声を知らないからです。」6イエスはこのたとえを彼らにお話しになったが、彼らは、イエスの話されたことが何のことかよくわからなかった。7そこで、イエスはまた言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしは羊の門です。8わたしの前に来た者はみな、盗人で強盗です。羊は彼らの言うことを聞かなかったのです。9わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。10盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」

<詩篇 100:1−5>
1全地よ。主に向かって喜びの声をあげよ。2喜びをもって主に仕えよ。喜び歌いつつ御前に来たれ。3知れ。主こそ神。主が、私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である。4感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に、はいれ。主に感謝し、御名をほめたたえよ。5主はいつくしみ深く、その恵みはとこしえまで。その真実は代々に至る。


1、羊と羊飼いの世界で

 今朝のテキスト、その最初の「羊と羊飼い」(1-5)の譬え話は、鉤括弧で括られていますが、原典では1節最初の鉤括弧はなく、9章41節から十章5節までが一つの鉤括弧で括られています。つまり、今朝のテキストは九章の続きと考えていいのでしょう。
 22節に「宮きよめ」の祭り(12月25日〜1月1日)のことが記されていますので、あと三ヶ月ほどで、イエスさまが十字架におかかりになる過越の祭りを迎えます。ヨハネは、この三ヶ月に九〜十一章を当てており、イエスさまのたくさんの教えや奇跡、弟子たちの訓練などがぎっしりと詰まっている。十一章はもう過越の祭り直前の記事なのです。
 その一つ一つを丁寧に見ていきたいと思います。

 まず最初は羊と羊飼いのお話ですが、この記事は、9章41節は10章19〜21節に続き、その後に10章22〜26節、10章1〜18節、10章27〜39節が続くのであろうなど、かなり編集の手が加わっていると指摘されています。しかし、そういった痕跡はあるものの、もともとの原典を復元することはもはや不可能ですし、そういった不確かな作業をしなくても、ヨハネと編集者のメッセージは伝わって来ると思いますので、テキスト通りに見て行くこととします。


 「まことに(アーメン)、まことに(アーメン)、あなたがたに告げます」(1)と、これは、アテンションプリーズという注意をうながすことばでしたが、また、休止符のようでもあります。
 ヨハネは、このことばで一呼吸置き、「羊と羊飼いの譬え」を語りました。これは、もともとイエスさまが語られたものなのでしょう。
 「羊の囲いに門からはいらないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。しかし、門からはいる者は、その羊の牧者です。門番は彼のために門を開き、羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。しかし、ほかの人には決してついて行きません。かえって、その人から逃げ出します。その人の声を知らないからです。」(1-5)

 この時代、文明発生の地と言われた農業国のメソポタミヤやエジプトはさておいて―エジプトでは牧羊が汚れた職業に数えられ、行われていなかったようです―、牧羊の様子はユダヤでもギリシャ世界でも日常の風景でしたし、羊は民衆、羊飼いは王という古代オリエント世界の発想も広く行き渡っていました。
 ヨハネはガリラヤの漁師でしたから、牧羊には疎かったとは思いますが、専門家ではないというだけで、日常的に行われている牧羊のことは良く知っていたことでしょう。イエスさまが話してくれたこの譬えに、ヨハネは、ベツレヘムの野原で野宿をしながら放牧していた羊飼いたちが、天使のみ告げを聞いて駆けつけて来たイエスさまご降誕の時の様子(ルカ二章)を思い出していたのかも知れません。イエスさまご降誕の際にまで羊飼いが登場して来る。この譬え話は誰もが知っていることを前提にしているのです。

 ところが、6節には、「彼らは、イエスが話されたことが何のことかよく分からなかった」とある。つまり不同意が強調されているのですが、聞いた人たちが何に不同意だったのかを探ってみたい。そのことで、ヨハネがなぜイエスさまのこのような教えを持ち出したのか、その真意が明らかになると期待するからです。
 1〜5節の「羊と羊飼い」の譬えはイエスさまが語られたもの、しかし、7〜18節は、恐らく、イエスさまの断片的な説話をもとにしたヨハネによるメッセージなのでしょう。今朝は、そのヨハネのメッセージから10節のところまでを聞いていきたいと思います。


2、強盗であることが

 日本は農業と漁業の国ですので、酪農の歴史は短く、思い浮かべるのは、別棟の獣舎と広い牧場という欧米の近代的酪農型をイメージしてしまいます。それほどに管理されたものではありませんが、古代オリエント世界での牧羊にも、専門の羊飼いに委託した広大な地域を移動しながら放牧するという近代酪農にも似た牧羊もありましたが、そんな「ベドウィン」型の大規模牧羊を別にしますと、たいていはわずか数頭の羊を自宅中庭に、あるいは自宅内にカーテンなどで簡単な仕切りをして、人間と羊が同居している。
 ユダヤでは、まるで家族の一員でもあるかのような身近に羊がいるのです。

 しかし、この譬え話には、羊の囲いに通じる「門」や「門番」のことが語られていますから、かなりな規模の牧羊なのでしょう。

 このお話しを聞いていた人たちの中には、多数の羊を所有するパリサイ人、祭司、律法学者、長老といったユダヤ社会の貴族とか指導者階級に属する人々もいて、イエスさまはその人たちに向かって話していたのかも知れません。きっと、ヨハネも、エペソ教会に潜り込んで来たディアスポラの、そんなエリート階級のユダヤ人に語りかけようとしています。
 彼らは、ディアスポラのユダヤ人たちの中でも、事業に成功した、ある意味、金持ちだったのかも知れないと想像します。

 彼らは教会の指導者になっていましたし、彼ら自身が相当数の羊を所有していたと思われます。もっとも、彼らは羊の所有者というだけで、牧羊はプロに任せていましたから、羊を自分の家族と思ったこともなく、愛情を覚えるはずもありません。その囲いには、何人もの人たちが所有する羊もいっしょにいて、町の外に設けられていたのでしょう。彼らは滅多に自分の羊を見に行きませんし、どれが自分の羊なのかを見分けることもできません。羊が聞き分ける声は、門番の声であり、プロの牧羊者の声なのです。彼らエリートたちは、ある意味部外者であり、極端に言うならば、門を通らずに侵入して来る盗人であり、強盗になぞられている。いや、時には、貧しい人たちが所有している、一匹とか二匹の羊を我が物にしようと企てる盗人であり、強盗になってしまうのです。きっと、彼らが所有する羊の多くが、そのようにして強奪したものだった可能性さえ否定できません。
 「あなたたちは柵を乗り越えて他人の羊を盗みに来た泥棒なのだ」と告訴するヨハネの声が聞こえて来るようではありませんか。

 それなのに、彼らは自分たちが盗人や強盗であるとは全く認めていません。彼らが「分からない」というのは、一つには、自分たちが強盗であるというその意味においてでした。

 そんな「羊と羊飼い」の譬え話に、ヨハネは、もう二つの意味を加えました。イエスさまが牧者であると言われた一つのこと(11-18)は次回にしますが、今朝はもう一つの、イエスさまが「わたしは羊の門です」(7-10)と言われた、その意味を考えてみたい。


3、いのちへの門を通って

 「アーメン、アーメン、汝らに告ぐ」(7)と、今、ヨハネは一息入れて、新しい問題提起をしようとします。その新しい問題提起とはこうです。
 「わたしは羊の門です。わたしの前に来た者はみな、盗人で強盗です。羊は彼らの言うことを聞かなかったのです。わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」(7-10)

 他の福音書にこの記事はありませんから、イエスさまが語られたものを、ヨハネ自身が記録し、それを資料として保存していたのでしょう。

 「わたし(イエスさま)は羊の門です」「わたし(イエスさま)は門です」と二回も繰り返していますが、囲いの中にいる羊の群れに接触できるのは、正式な資格を持つ者、つまり「門」を通って中に入る者だけなのだと、そのことを強調しているわけです。門を通らない者は、どんなに正統を主張しても、盗人であり、強盗なのです。これは、イエスさまの前にたくさん現われた偽メシアを指していると思われます。
 ヨハネは、イエスさまを「羊の門」とすることで、ユダヤ人たちがどんなに否定しても、イエスさまはメシア・キリストなのだと言っているのです。


 そしてヨハネは、もう一つのことを強調します。
 彼は、教会に入り込んで来たユダヤ人を強盗や盗人に重ねました。
 10節には、盗人や強盗は、盗んだ羊を「殺す」と言われますが、これは、「いけにえに供える」という意味で、祭司が羊を殺してエルサレム神殿の祭壇に献げるユダヤ人の伝統のことを指しています。まさにヨハネは、そんな伝統に生きて来たユダヤ人に、「君たちは、いくら神殿で祭壇に犠牲を献げようとも、イエスさまという正式の門から入らなかった盗人であり、強盗である」と言っているのです。しかし、何としても彼らは、自分たちが強盗とか盗人と呼ばれることが何故なのか分かりませんし、そんなことを言うイエスさまに反発してやみません。九章で盲目の若者を会堂から追い出した(追放、破門)ことも、そんな彼らの、自分たちこそ神さまの正統な民であり、御国への道の門番なのだとする思い上がりであって、その思い上がりがイエスさまへの反発となったのでしょう。

 少し前の紀元八十五年、ユダヤ教はキリスト教徒たちを破門して、正式にユダヤ教とは切り離していました(参考‥ユダヤ教典礼文「シェモーネ・エスレー」=ヨハネ講解説教42)が、その通達は、ローマ・ギリシャ世界にまでは浸透してはおらず、キリスト教は依然としてユダヤ教の一派と見られていました。もちろん、ディアスポラのユダヤ人たちはその通達を承知していましたから、道に迷った羊をユダヤ教の律法という道に連れ戻そうと、牧者になって教会に入り込んでいたのでしょうが、羊である異邦人信徒に、彼らの問題点など分かるはずもありません。教会教師となったユダヤ人の教える律法・割礼といった「門」を通る道が、神さまの御国へと続くのだと、その教えの虜になっていたものと思われます。

 ヨハネは、そんな教会の人たちに語りかけました。「イエスさまこそいのちに至る門である」と。彼は、三ヶ月後に迫った十字架を念頭に置きながらこの記事を書いているのでしょう。十字架に死なれたイエスさまこそが神さまの定めた救いへの門であって、君たちの罪を贖って永遠の御国へと連れて行ってくださるのは、このお方をおいて他にはないのだよと、福音の中心を語っています。「だれでも、イエスさまを通ってはいるなら、救われる」と、それが単純なヨハネの神学でした。
 いのちに至る門と道とを見失っているのは、多くの現代人も同じでしょう。
 そんな中で、私たち、牧者イエスさまの声を聞き分ける者となって、永遠のいのちへの門を通る者になりたいではありませんか。



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