ヨハネによる福音書・補

Aiming over one step

主の恵みを頂いて


<ヨハネ 1:14−18>

14ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。15ヨハネはこの方について証言し、叫んで言った。「『私のあとから来る方は、私にまさる方である。私より先におられたからである。』と私が言ったのは、この方のことです。」16私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。17というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。18いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

<イザヤ 2:2−5>
2終わりの日に、主の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、すべての国々がそこに流れて来る。3多くの民が来て言う。「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。」それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから主のことばが出るからだ。4主は国々の間をさばき、多くの国々の民に判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。5来たれ。ヤコブの家よ。私たちも主の光に歩もう。


1、世に住まわれたロゴス

 10〜11節で、世は自分たちのところに来られたロゴスを、「知らなかった」「受け入れなかった」のだと、そんなヨハネの証言を聞きました。そのお方が世を造られたのに、世は「そんなことなど知らない」と嘯いている。現代ばかりではありません。すでにヨハネの時代、紀元一世紀末という昔に、世は創造主を無視していたのです。「世」というのは「人の世」という意味で、神さまに造られたにも関わらず、その神さまをを知らず、無視してやまないというニュアンスがついてまわって来たようです。
 しかしヨハネは、人がどんなに否定しようとも、ロゴスなるお方が私たちの世に来られた事実は変わらないのだと、バプテスマのヨハネを証人に立てて、人々に挑戦状を突きつけました。しかし彼は、それだけでは不十分と思ったのでしょうか。
 世に来られたロゴスを再度証言しようと、新しい証言文を練り上げます。

 ロゴス賛歌と呼ばれる序文(1:1-18)のクライマックスです。
 「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまこととに満ちておられた」(14)

 神学上、「ロゴスの受肉」と呼ばれる、非常にシンプルなヨハネの証言です。

 これは、現実的世界に生きているローマ人へのメッセージなのです。それは恐らく、今後も続いていくであろう異邦人の世界(現代も)も聞かなければならないことなのだとヨハネは考えていたことでしょう。そのような人たちに、「先在のロゴスが世に来られた」と主張しても、どうして納得し、受け入れられるでしょうか。

 百歳に近いヨハネの頭は柔軟でした。
 「ロゴスの受肉」と、それは、現代人にとっては、とても信じられない奇抜と言ってもいいほどの問題提起ですが、ロゴス=神さまが世に来られたという伏線につなげると、納得できないわけでもありません。神々の人間世界への降臨、或いは関与は、ギリシャ神話にも見られるもので、現実的と言われるローマ人の神話にも引き継がれていました。そんな背景があってのことなのでしょうか。当時、キリスト教系グノーシス主義などが主張していた「ドケティズム」という異端説が教会を惑わしていました。これは仮現説とでもいうべきもので、見せかけに過ぎないとイエスさまの神性を否定するものです。
 しかし、これをヨハネは、「私たちの間に住まわれた」と言って、ギリシャ神話やドケティズム説とは明確に一線を引きます。ヨハネの念頭には、異端説への反論とともに、正しくイエスさまのことを伝えなければという思いがあったのでしょう。イエスさまご降誕のことには触れませんが、それはマタイやルカの記事だけで事足りています。
 イエスさまが「私たちの間に住まわれた」というのは、紛れもない事実でした。

 ヨハネは、そのことよりも、世に住まわれたお方が神さまの栄光を纏っているのだと、彼の証言を展開し始めます。ヨハネの神学と言っていいでしょう。
 「私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」
 彼が何を「見た」のかは次第に明らかになって来るのですが、「栄光=神さまの輝き」に触れながら、ヨハネは、世に来られたロゴスの神性が、世にあってもいささかも損なわれず、神さまの光を輝かし続けているのだと主張しています。



2、ロゴスの証人として

 ヨハネは、再びバプテスマのヨハネを証言者に立てて、世に来られたロゴスの栄光を見たと証言します。バプテスマのヨハネの証言はこうです。
 「『私のあとから来られる方は、私にまさる方である。私より先におられたからである。』と私が言ったのは、この方のことです」(15)

 この証言は一章30節にもそっくり同じ文言で再現されますが、福音書記者ヨハネは、その部分を先取りすることで、14節の高らかな宣言を補足しようとしているようです。『』で括られた宣言は、「私(バプテスマ・ヨハネ)は水でバプテスマを授けているが、あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられます。その方は私のあとから来られる方で、私はその方のくつのひもを解く値打ちもありません」(26-27)とある、バプテスマのヨハネ自身のことばを受けてのものですが、すでに読まれていた共観福音書を意識してのことでしょう。そこでは「私より力のある方」(マタイ3:11)となっていますが、福音書記者ヨハネは、それを先在のロゴスに合わせて「私より先におられた」と言い換えている。しかし、「力」も「先在」も、それは明らかにロゴスの神性を指すものでした。
 もしかしたら、当時、世界の知識人たちの間で、「古さこそ価値あるもの」といった価値基準が流行していたことに影響されているのかも知れません。古さという点では、「初め」さえもご自分の支配下に置かれた先在のロゴスに勝る者はどこにもいないのですから。バプテスマのヨハネの引用証言には、かすかにですが、そんなニュアンスが感じられるようです。そのバプテスマ・ヨハネが、「神さまから遣わされた偉大なる預言者」として、「私より先におられた」と言ったのは、バプテスマ・ヨハネ自身が誰よりも先にいたことを前提にしていると聞こえるではありませんか。ただ先在のロゴスを除いて。

 バプテスマのヨハネがこう言ったのは、自分が神さまから遣わされた者であることを自覚していたからではないでしょうか。ただ、彼は、遣わされた者ではあっても、いかなる意味においてもロゴスと同格な神的存在ではありません。「光ではなかった」(8)とある通りです。しかし彼は、神さまが「人の光=ロゴス」の証人として立てた人でした。人でありながら神さまの側に立っている。そのことを自覚していたがゆえに、人間としての枠とか限界を超えて「人の光=先在のロゴス」を指し示すことが出来ました。
 なぜ? それは神さまのミステリーに属する事柄ですので、私たちが異議を差し挟む余地はないでしょう。ただここでは、彼は神さまから遣わされた目的を忠実に果たしたのであると言うにとどめなくてはなりません。


3、主の恵みを頂いて

 先在のロゴスが人となって私たちの間に住まわれたと語った、福音書記者ヨハネは、「私たちはこの方の栄光を見た」と、その方の栄光について語り始めます。
 先に、〈世に来られたロゴスの神性は、世にあってもいささかも損なわれない〉と触れましたが、その世にあるロゴスの栄光を、ヨハネを含めた弟子たちは、世に住まわれたイエスさまのお姿を拝し、そのお声を親しく聞くことで「見た」と言い得たのです。もう一度14節を読んでみましょう。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた」と、ここには、ロゴスの栄光が、世にあっては私たちへの恵みへと移行しているのだという彼らの意識が見られるようです。
 中心主題を栄光から恵みへと移行させ、先在のロゴスはイエス・キリストなのだとそのお名前を初めて明かしながら、ヨハネはいよいよ核心に触れていきます。
 「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。」(16-17)

 「恵みの上にさらに恵みを受けた」「恵みとまことはイエス・キリストによって実現した」とある。その恵みを「受けた」、「実現した」とは何を指しているのでしょうか。
 「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」と言われます。ここに用いられる「住まう」という言葉は「天幕に住む」(黙示録を除くとこの箇所だけに用いられる)を意味しています。それは神さまの啓示を表現する言い方であって、イスラエルの伝統的な祭儀様式が踏襲されていると言っていいでしょう。「ロゴスの地上以前・以後の存在と比べるなら、地上の時は間奏曲にすぎない」とある人が述べています。確かにその通りなのでしょう。が、その間奏曲は全力を込めて演奏されたのです。

 イエス・キリストは、神さまご自身としてのありったけの力を込めて、私たちにご自身本来の恵みを注いでくださいました。ご自身本来の恵み、それはご自身のいのちに他なりません。かつて創造主としてご自分の息を私たちに吹き込まれたお方が、今度は、「遣わされた者」としてご自分のいのちを私たちにお与えくださったのです。それが神さまご自身であるイエスさまが世に来られ、私たちの間に住まわれたことで示そうとなさった啓示でした。

 その啓示の中心は、端的に言いますが、十字架とよみがえりです。

 世に住まうことによっていささかもその神性が損なわれなかった永遠のロゴス・イエスさまは、私たちのために十字架に死なれ、新しいいのちによみがえられたのです。その本来のお住まいである天に戻られたのは、その啓示を更に確かなものとするためではなかったでしょうか。
 「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられたひとり子の神が、神を説き明かされたのである」(18)と言われる。十字架に死なれ、よみがえられた愛し子が父君のふところに抱かれるのです。この方を他にして私たちへの神さまのご愛を知ることは断じて出来ません。「受けた」、「実現した」「見た」とはその意味で言われました。

 先在のロゴスが世に住まわれ、その満ち満ちた恵みが十字架とよみがえりに凝縮された。それこそがヨハネのこの福音書を執筆した動機であり、この福音書の中心主題であると言わなければなりません。19節からいよいよ本文に取りかかりますが、父なる神さまも子なるお方も私たちを愛してくださる。学びつつ覚えたいではありませんか。



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