ヨハネによる福音書・補

Aiming over one step

39
十字架の主が


<ヨハネ 8:41b−47>
41b彼らは言った。「私たちは不品行によって生まれた者ではありません。私たちにはひとりの父、神があります。」42イエスは言われた。「神がもしあなたがたの父であるなら、あなたがたはわたしを愛するはずです。なぜなら、わたしは神から出て来てここにおられるからです。わたしは自分でここに来たのではなく、神がわたしを遣わしたのです。43あなたがたは、なぜわたしの話していることがわからないのでしょう。それは、あなたがたがわたしのことばに耳を傾けることができないからです。44あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。45しかし、このわたしは真理を話しているために、あなたがたはわたしを信じません。46あなたがたのうちだれか、わたしに罪があると責める者がいますか。わたしが真理を話しているなら、なぜわたしを信じないのですか。47神から出た者は、神のことばに聞き従います。ですから、あなたがたが聞き従わないのは、あなたがたが神から出た者ではないからです。」

<イザヤ 55:6−13>
6主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。悪者はおのれの道を捨て、7不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。8わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。―主の御告げ。―9天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。10雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。11そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。12まことに、あなたは喜びをもって出て行き、安らかに導かれて行く。山と丘は、あなたがたの前で喜びの歌声をあげ、野の木々もみな、手を打ち鳴らす。13いばらの代わりにもみの木が生え、おどろの代わりにミルトスが生える。これは主の記念となり、絶えることのない永遠のしるしとなる。


1、信仰の回復を願うヨハネに

 前回、ヨハネは、ユダヤ人たちが、律法と割礼を教会に持ち込んで来るのを、阻止しようとしているのだと聞きました。この場面の舞台は紀元一世紀末のエペソ教会です。

 ディアスポラのユダヤ人たちが、まるで凶暴な狼のように、「あなたは初めの愛から離れてしまった」(黙示録2:4)と言われるほどに、教会を混乱させたのは、エペソ教会の牧者であったヨハネが、ドミティアヌス帝迫害のもと、パトモス島に流罪となっていた時のことでした。
 ドミティアヌス帝の没後に赦免されて、エペソに戻って来たヨハネは、彼らに論争を挑み、教会の人たちの信仰回復を願います。
 「イエスがこれらのことを話しておられると、多くの者がイエスを信じた」(30)とヨハネの報告がありますが、それは、恐らく、そんな彼の願いに応えた教会の人たちの信仰回復のことを言っているのでしょう。しかし、そこには、イエスさまをメシア・救い主と信じながらも、まだ律法と割礼に拘る幾人かの頑固なユダヤ人たちもいました。ヨハネは、その人たちにもイエスさまの福音に根ざした信仰を堅く保持して欲しいと願っていますが、ユダヤ人たちは次第に信仰からそれて行きます。ヨハネとユダヤ人との会話を少しだけ再現してみましょう。その対話はだんだんと険しい論争へと移って行くようです。
 「もしあなたがたが、イエスさまのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにイエスさまの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」「私たちはアブラハムの子孫であって、決してだれの奴隷になったこともありません。あなたはどうして、『あなたがたは自由になる』と言われるのですか。」「わたしは、あなたがたがアブラハムの子孫であることを知っています。しかし、あなたがたはイエスさまを殺そうとしています。イエスさまのことばが、あなたがたにはいっていないからです。」(31-37)


 こんな対話論争が繰り広げられている中で、ユダヤ人たちは、唐突に「私たちは不品行によって生まれた者ではありません」(41)と申し立てました。
 今朝のテキスト、8章41b〜47節はそこから始まります。

 「あなたがたがアブラハムの子であると言うなら、そのわざを行なえ」(39)「アブラハムはそのようなことをしなかったのに、あなたがたはイエスさまを殺そうとしているではないか」(40)と指摘されての彼らの反発です。

 不品行云々は、ユダヤ人社会に根強く言い伝えられていた風説を念頭に置いてのことです。外典のピラト行伝(=ニコデモ行伝)には、大祭司のカヤパやアンナスがローマ総督のピラトに、「我々は皆、あの男(イエスさまのこと)は不倫の関係の生まれであり、魔法使いであると言っている」(2:4-5)と叫んだ裁判の様子が記されています。これは四世紀初頭ころに書かれたものだそうですが、紀元一世紀末というヨハネの当時に、すでにそんな風説が広がっていたための、「不品行の生まれ」云々という彼らの言い方になったものと思われます。
 これは、あなたがたが信じているイエスこそ、不品行の中で生まれた者ではないかという告発であって、自分たちの正当性の主張でした。「私たちはアブラハムの子孫である」「自由の子である」「不品行から生まれた者ではない」「私たちにはひとりの父、神がある」と、彼らは主張していましたが、神さまの選びの民イスラエルに属する者であると、それが彼らユダヤ人たちの正当性の何にも勝る拠り所なのでしょう。


2、みことばに聞くことを

 そんな彼らの「おれたちは神さまの選びの民、イスラエルの末裔であって、おれたちには神さまの正義がある」という主張には、前回一つの反論を述べました。
 ここではさらに踏み込んだヨハネの反論を取り上げましょう。

 「あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです」(44)

 君たちは悪魔の子である。人殺しであり、偽りにまみれて、神さまの真理など持ち合わせてはいないのだと、強烈な罵倒を浴びせかけられて、彼らは、つい今しがたイエスさまを「信じます」と言ったことなどどこかに吹き飛んでしまいました。
 もう彼らはイエスさまに敵対することしか念頭にありません。
 48節では、「イエスはサマリヤ人で、悪霊につかれていると言うのは当然であろう」と言い、八章最後には、ついにイエスさまに向かって石を投げつけました(59)。
 これはエペソ教会での対決ですから、「イエスさまを殺そうとしている」とか「イエスさまに向かって」というのは、イエスさまとユダヤ人とが対決していた時の状況に重ね合わせているのでしょうが、信ずべきお方に背信の手を上げ、無き者とすることなのだと、ヨハネの憤りが伝わって来るではありませんか。人は、聞きたいことだけを聞き、見たいことだけを見る。しかし、本当に大切なことは、見たくない、聞きたくないことの中にあるのではないでしょうか。
 聞きたい異だけを聞くという意味では、現代がまさにそんな時代と思われますが、どうか、心を開いて、イエスさまに聞いて欲しいと願います。

 「神さまがもしあなたがたの父であるなら、あなたがたはイエスさまを愛するはずです。なぜなら、イエスさまは神さまから出て来てここにおられるからです。イエスさまはご自分でここに来たのではなく、神さまから遣わされて来たのです。」(42)

 これは、ヨハネが何度も繰り返して来たメッセージであって、ユダヤ人との論争で彼が見つめて来た問題の中心主題でした。「人の子」という、これまでイエスさまが用いられた呼称は、このテキストでは、8章28節に一回しか出て来ませんが、それは、神さまから遣わされて私たちの世に来られ、地上での歩みを全ご人格をもって力闘されたお方を指しており、それは十字架に凝縮されています。「あなたがたが人の子を上げてしまう……」(28)とは、その意味で語られている。そして、「イエスさまを愛する」とは、十字架に死んで罪を贖ったイエスさまの愛に、「信じます」と応えることなのです。
 それなのに、どんなにことばを尽くしても彼らは耳を塞いでいます。まさに「悪魔の子」と呼ばれても仕方がないほどに、「悪」や「罪」と手を結んでしまっている。いや、彼らだけでない。現代人の私たちこそ、何度もイエスさまのことを耳にしながらも、頑固に聞かない者の代表格とも言える存在なのではないでしょうか。
 「あなたがたは、なぜわたしの話していることがわからないのでしょう。それは、あなたがたがわたしのことばに耳を傾けることができないからです」(43)と言われる。
 正しさに拘っているならば、イエスさまの十字架が私の罪の赦しであるなど、耳に届いて来ない。覚えて頂きたいものです。


3、十字架の主が

 ヨハネは言いました。
 「イエスさまは真理を話しているために、あなたがたはイエスさまを信じません」(45)と。

 「真理」ということばを、ヨハネは、論争相手のユダヤ人の感覚に合わせて、旧約聖書的な意味で用いたのでしょう。それは「過誤も虚偽もなく、確かな真実の事実として認められる」(旧新約聖書神学事典・新教出版)というニュアンスを持ちます。しかもこれは、法的な意味合いの強いものであって、神さまのことばとか裁きに関して用いられますので、一層、その「真理」は、絶対的なものであると受け止められているのです。ですから、これを神さまの「正しさ」と聞きますと、この言い方は腑に落ちて来るのではないでしょうか。
 ヨハネは、「神さまの真理・正しさ」を語っているのです。

 ところが、イエスさまを「わたしはある。エゴー・エイミー」神さまご自身であるとは認めないユダヤ人たちは、当然のように、「イエスさまが真理を語っている」と聞きますと、本能的に疑い、拒否して、イエスさまは神さまを冒涜する者だと思ってしまうわけです。ヨハネとユダヤ人の議論がかみ合わない原因もそこにありました。
 もともと、人は、自分以外の「正しさ」など絶対に認めない。それが人間の悲しい性(さが)なのかも知れません。イエスさまがいい加減な宗教的教理を話したのであれば、人は信じやすいのですが、それが絶対的な「真理」となると、本能的に拒否してしまう。この場合も彼らには、そんな人間の本能が働いてしまったのでしょう。

 「あなたがたのうち、いったいだれが、イエスさまに罪があると責めることができるのか。」(46・新共同訳)と、ヨハネは、イエスさまには罪がないと断じました。それは、ヨハネが、イエスさまを神さまから遣わされた方であると信じた、その告白の、重要な一翼を担うものではないでしょうか。共観福音書では、ユダヤ人たちは、イエスさまに、やれ安息日違反を犯したとか、食事の前にきよめの水で手を洗わないとか、暴動を引き起こすなど、いろいろと難癖をつけていますが、一度たりとも、その告発が成立したことはないのです。
 結局彼らは、偽証を積み重ねて、イエスさまを十字架につけてしまうのですが、イエスさま十字架のことを聖書に聞いて、改めて、罪なきお方が十字架におかかりになったのだと、そのことを心に刻みながら、イエスさまの前に立つならば、イエスさまの救いが私たちの心に届いて来るでしょう。ところが、聖書のことを誰よりも良く知っていると自負するユダヤ人は、そんな単純な立ち方をすることが出来ない。「真理を話しているイエスさまをなぜ信じないのか」(46)と、ヨハネの嘆きが伝わって来るようです。
 「神から出た者は、神のことばに聞き従います。ですから、あなたがたが聞き従わないのは、あなたがたが神から出た者ではないからです」(47)とヨハネは一つの結論を出しました。

 そうなのです。自分の知識や拘りや正しさなどを捨てて神さまの前に立つ。ヨハネは私たちにそんな単純なことを求めている。「罪を認めて」といったほうがいいのかも知れません。
 神さまの前に立つとは、イエスさまの十字架の前に出ることなのですから。
 そうすれば、十字架の主が「あなたの罪をわたしが背負った」と言ってくださるでしょう。罪の赦しなくして、神さまの御国の民となることは出来ないのですから。

 預言者イザヤが、「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ」(イザヤ55:6)と、同胞の民にメッセージを送りました。心を開くなら、きっと、十字架の主が、すぐ近くであなたを見つめておられることがお分かりになる。十字架の主が、「信じます」と心を開くあなたを待っていらっしゃることも。



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