ヨハネによる福音書・補

Aiming over one step

37
主とともに歩む姿に


<ヨハネ 8:21−29>
21イエスはまた彼らに言われた。「わたしは去って行きます。あなたがたはわたしを捜すけれども、自分の罪の中で死にます。わたしが行く所に、あなたがたは来ることはできません。」22そこでユダヤ人たちは言った。「あの人は、『わたしが行く所に、あなたがたは来ることができない』と言うが、自殺するつもりなのか。」23それでイエスは彼らに言われた。「あなたがたが来たのは下からであり、わたしが来たのは上からです。あなたがたはこの世の者であり、わたしはこの世の者ではありません。24それでわたしは、あなたがたが自分の罪の中で死ぬと、あなたがたに言ったのです。もしあなたがたが、わたしのことを信じなければ、あなたがたは自分の罪の中で死ぬのです。」25そこで彼らはイエスに言った。「あなたはだれですか。」イエスは言われた。「それは初めからわたしがあなたがたに話そうとしていることです。26わたしは、あなたがたについて言うべきこと、さばくべきことがたくさんあります。しかし、わたしを遣わした方は真実であって、わたしはその方から聞いたことをそのまま世に告げるのです。」27彼らは、イエスが父のことを語っておられたことを悟らなかった。28イエスは言われた。「あなたがたが人の子を上げてしまうと、その時、あなたがたは、わたしがそれであることを、また、わたしがわたし自身からは何事もせず、ただ父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話していることを、知るようになります。29わたしを遣わした方はわたしとともにおられます。わたしをひとり残されることはありません。わたしがいつも、そのみこころにかなうことを行なうからです。」

<エゼキエル 33:7−9>
7人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの家の見張り人とした。あなたは、わたしの口からことばを聞くとき、わたしに代わって彼らに警告を与えよ。8わたしが悪者に、「悪者よ。あなたは必ず死ぬ。」と言うとき、もし、あなたがその悪者にその道から離れるように語って警告しないなら、その悪者は自分の咎のために死ぬ。そしてわたしは彼の血の責任をあなたに問う。9あなたが、悪者にその道から立ち返るように警告しても、彼がその道から立ち返らないなら、彼は自分の咎のために死ななければならない。しかし、あなたは自分のいのちを救うことになる。


1、罪の実の刈り取りを

 八章にあるイエスさまとユダヤ人との対話論争、三つありますが、先週、その最初の対話12〜20節を取り上げましたから、今朝はその二番目、21〜30節のところです。


イエスさまが言われました。
 「わたしは去って行きます。あなたがたはわたしを捜すけれども、自分の罪の中で死にます。わたしが行く所に、あなたがたは来ることはできません」(21)

 これがどういう状況下で語られたかと言いますと、間もなく日没で、最終日を迎えた仮庵の祭も終えようとしています。大燭台に灯がともされ、その淡い光に照らされながら人々がキャンピングしていた仮小屋をたたんで帰り支度をしている。そんな慌ただしい中で、なおもイエスさまのまわりには多くの人たちが集まっていました。そこにはパリサイ人や律法学者といったユダヤ人たちも混じっています。その人たちにイエスさまは「わたしは去って行く」と言われたのです。八章の最後に、「(論争相手のユダヤ人は)石を取ってイエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、宮から出て行かれた」(59)とある。ヨハネはそこにこのイエスさまのことばを重ね合わせたのでしょう。

 しかし、奇妙なことにイエスさまは、「あなたがたはわたしを捜すけれども、自分の罪の中で死ぬ」と言われます。「あなたがたが捜しても、わたしを見つけられない」と言うのなら、「身を隠して宮から出て行かれた」と、七章のテーマであった「隠れた神」の余韻が感じられて分かるのですが、「あなたがたはわたしを捜すけれども」と言われ、そこに続けられた「自分の罪の中で死ぬ」とはどんなことなのでしょうか。

 エゼキエル書にこんな神さまのことばがあります。
 「人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの家の見張り人とした。あなたは、わたしの口からことばを聞くとき、わたしに代わって彼らに警告を与えよ。わたしが悪者に、『悪者よ。あなたは必ず死ぬ。』と言うとき、もし、あなたがその悪者にその道から離れるように語って警告しないなら、その悪者は自分の咎のために死ぬ。そしてわたしは彼の血の責任をあなたに問う。あなたが、悪者にその道から立ち返るように警告しても、彼がその道から立ち返らないなら、彼は自分の咎のために死ななければならない。しかし、あなたは自分のいのちを救うことになる。」(33:7-9)

 イエスさまは警告したのです。何度も何度も丁寧に。
 しかし、神さまは、彼らユダヤ人が死に追いやった、イエスさまの、その血の責任を、他ならぬイエスさまに負わせました。イエスさまが「去る」というのは、十字架の死を意味しているとお分かりでしょう。ある意味、これは彼らへの断罪でもあるのです。しかし、人々は、自分の好むメシアを捜し求めて右往左往し、十字架のイエスさまを理解できません。「あなたがたは来ることはできない」とはそのことを意味しています。十字架を単に「死ぬ」ことと聞くならば、「来ることができない」とは言えないでしょう。人は必ず死ぬのですから。
 これは、頑固にイエスさまの贖罪を否定し、正しい自分たちには、そんなものなど必要ないのだと嘯いている者たちが、断固、神さまの救いから排除されていることを指しているのでしょう。彼らは、人の子・贖い主が目の前にいるというのに、見ようとしないから見えない。
 イエスさまが「隠れた神」というのは、罪によって人々の目に見えなくなったことをも含んでいるのでしょうか。彼らは、結局、十字架の赦しに出会うことなく、自分の罪の実=死を刈り取ることとなるのです。


2、十字架の主への信仰を

 ユダヤ人たちは言います。
 「あの人は、『わたしが行く所に、あなたがたは来ることができない』と言うが、自殺するつもりなのか」(22)
 七章では「ギリシャにでも行くつもりなのか」と思ったのに、ここでは「自殺するつもりなのか」となっている。彼らはイエスさまを今一歩のところまで追い詰めたと自負しているのでしょう。自殺を咎めているのは、自分たちの手で……と思っていたからです。
 そして、その通りにイエスさまは十字架につけられました。

 しかしそれは、彼らに追い詰められてのことではなく、彼らの罪が贖罪者イエスさまを十字架につけたのです。ここでヨハネが問題にしているのは、「啓示者と、啓示者を理解しないこの世との対決」であると、ある註解者が指摘していますが、その通りなのでしょう。イエスさまが語っているかのように、「あなたがたが来たのは下からであり、わたしが来たのは上からです。あなたがたはこの世の者であり、わたしはこの世の者ではありません」(23)と書き進めながら、ヨハネは、啓示者と啓示者に敵対する者、あるいは上と下、あるいはこの世に属する者と属さない者というヨハネ独特の二元論において(これは当時流行していた異端・キリスト教グノーシスの二元論などでは断じてない)、先在のロゴス・イエスさまの強烈な意志を浮き上がらせているのです。「下」とは地の上・この世を意味し、「上」とは神さまが住まう天を指しています。
 それは何も、ギリシャ的な別々の世界を思惟し、強調するためではなく、「上」に属するお方が「下」に属する者たちのために、この世に下って来たのだと、イエスさまの意志が強調されているのです。
 十字架の死は、イエスさまが意志するところから実現したのだと、聞かなくてはなりません。それは、ヨハネの「私のために」という信仰告白ではなかったでしょうか。これは、エペソ教会でのヨハネのメッセージなのです。

 ヨハネはこのメッセージを聞く人たちに、イエスさまを信じる信仰を求めました。
 「それでわたしは、あなたがたが自分の罪の中で死ぬと、あなたがたに言ったのです。もしあなたがたが、わたしのことを信じなければ、あなたがたは自分の罪の中で死ぬのです」(24)

 ヨハネが、エペソ教会でのメッセージで、エゼキエル書のことばを引用しながら、この「罪の中で死ぬ」ことの意味を説明したかどうかは分かりません。が、これまでにも何度も繰り返していましたから、福音書執筆の時にこんな表現になったのでしょう。
 イエスさま十字架のことは、いつもヨハネのメッセージの中心主題でした。
 「わたしのことを信じなければ」とある。これは、岩波訳が「私が(それ)であることを信じないなら」(24)と訳しているように、「わたしがそれである」というもので、イザヤはこう言っています。「わたしに聞け。ヤコブよ。わたしが呼び出したイスラエルよ。わたしがそれだ。わたしは初めであり、また、終わりである」(48:12)と。これは、「エゴー・エイミイ、わたしはある」なのです。
 私たちは、十字架におかかりになったそのお方の前で跪かなければなりません。
 それが信じることであり、罪を赦されて生きるということだったのです。


3、主とともに歩む姿に

 人々はイエスさまにこう問いかけます。「あなたはだれですか」(25)と。
 このところを新共同訳は、「あなたは、いったい、どなたですか」と訳し、岩波訳は、「お前は何者なのだ」と訳しています。丁寧な言い方と乱暴な言い方と、両極端の訳ですが、私たちは、どちらの訳にも軍配を上げることは出来ません。
 というのは、これはヨハネの信仰から出たことであって、イエスさまがどなたなのか、いつまでも理解しない者たちとは、啓示者のことも、そして、その啓示を聞いた教会のことも、議論する必要はない!と言っていると聞くからです。
 そうです。彼らユダヤ人たちは、議論を吹っかけているのかも知れませんが、その議論に乗っかることは何の益も産み出さないでしょう。しかし、この問いかけは、現代、さらにずっと先の世にまで至る、思い上がった人間の永遠の問いかけと聞かなくてはなりません。ですから、ここの問いかけは、丁寧にでもなく、乱暴にでもなく、「あなたはだれですか」(新改訳)と訳すのがいいと思うのです。
 それは、イエスさまが神さまご自身である、啓示者である、救い主である、贖い主である、と聞いて来た人たちと、聞きたくないと耳を塞いだ人たちとの、不毛な議論をして来た歴史を思い出させてくれるようです。イエスさまは神さまご自身であるなどと、そんなことはあり得ないと思った人たち、特に、近代批評学の影響下にある人たち(神学者たちでさえも)は、人間イエスという観点に凝り固まって、イエスさまが十字架に私たちの罪を贖ってくださったという救いのメッセージには耳を貸しません。
 ヨハネがこの福音書を執筆した紀元一世紀末にもそんな人たちが多かったのでしょう。
 「彼らは、イエスが父のことを語っておられることを悟らなかった」(27)とヨハネが言ったのは、当然の帰結であることがお分かりと思います。

 ですから、ヨハネはさらに踏み込みました。
 「それは初めからわたし(ヨハネ?)があなたがたに話そうとしていることです。わたしは、あなたがたについて言うべきこと、さばくべきことがたくさんあります。しかし、イエスさまを遣わした方は真実であって、イエスさまはその方から聞いたことをそのまま世に告げるのです。」(25-26)

 「あなたがたが人の子を上げてしまうと、その時、あなたがたは、イエスさまがそれであることを、また、イエスさまがご自身からは何事もせず、ただ父がイエスさまに教えられたとおりに、これらのことを話していることを、知るようになります。イエスさまを遣わした方はイエスさまとともにおられます。イエスさまをひとり残されることはありません。イエスさまがいつも、そのみこころにかなうことを行なうからです」(28-29)

 この二つの証言は、婉曲にではありますが、十字架上のイエスさまと、そのすぐ下にいてことばを交わしたヨハネの信仰から溢れ出た証言と聞こえます。ですから、「わたし」となっているところを、一部「イエスさま」に変えました。そのしたほうがヨハネの証言として自然と感じられたからです。
 十字架の出来事から六十年を経て、ヨハネは、その十字架のイエスさまが、先在のロゴスであり、「エゴー・エイミイ」であるお方、父君から遣わされ地上を歩み通した「人の子」、十字架に私の罪を贖ってくださった「救い主」であると、その信仰に辿り着いていたのです。

 その時、ペテロもヤコブも、イエスさま当時の弟子たちはすでにみんな逝ってしまって、ユダヤを遠く離れた異邦人の世界で、一人奮闘しているヨハネですが、父君がイエスさまとともに歩まれたように、イエスさまが私とともにいてくださるのだと、その信仰は揺るぎません。百歳近くになっているその老齢さえも、ヨハネの、十字架の赦しに招いてくださった主の深い愛への思いを奪い取ることはありません。主とともに歩むそのヨハネの姿に、私たちをも重ねたいと願わされるではありませんか。



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