ヨハネによる福音書・補

Aiming over one step

36
大きな光のもとに


<ヨハネ 8:12−20>
12イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」13そこで、パリサイ人はイエスに言った。「あなたは自分のことを自分で証言しています。だから、あなたの証言は真実ではありません。」14イエスは答えて、彼らに言われた。「もしこのわたしが自分のことを証言するなら、その証言は真実です。わたしは、わたしがどこから来たか、また、どこへ行くかを知っているからです。しかしあなたがたは、わたしがどこから来たのか、またどこへ行くのか知りません。15あなたがたは肉によってさばきます。わたしはだれをもさばきません。16しかし、もしわたしがさばくなら、そのさばきは正しいのです。なぜなら、わたしひとりではなく、わたしと、わたしを遣わした方とがさばくのだからです。17あなたがたの律法にも、ふたりの証言は真実であると書かれています。18わたしが自分の証人であり、また、わたしを遣わした父が、わたしについてあかしされます。」19すると、彼らはイエスに言った。「あなたの父はどこにいるのですか。」イエスは答えられた。「あなたがたは、わたしをも、わたしの父をも知りません。もし、あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知っていたでしょう。」20イエスは宮で教えられたとき、献金箱のある所でこのことを話された。しかし、だれもイエスを捕らえなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。

<イザヤ 9:2−7>
2やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。3あなたはその国民をふやし、その喜びを増し加えられた。彼らは刈り入れ時に喜ぶように、分捕り物を分けるときに楽しむように、あなたの御前で喜んだ。4あなたが彼の重荷のくびきと、肩のむち、彼をしいたげる者の杖を、ミデヤンの日になされたように、粉々に砕かれたからだ。5戦場ではいたすべてのくつ、血にまみれた着物は、焼かれて、火のえじきとなる。
6ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は、「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。7その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。


1、信仰者の立つべきところを

 八章には、イエスさまとユダヤ人との対話論争が取り上げられています。
 共観福音書には、「論争の一日」というところがあるのですが(マタイ21〜22章、マルコ12章、ルカ20章)、ヨハネはそこにこの八章を重ねているようです。もっとも、共観福音書はイエスさまとパレスティナ・ユダヤ人との論争を、ヨハネは教会とディアスポラのユダヤ人との葛藤を、と論争の中心点は違うのですが。

 「イエスはまた彼らに語って言われた」(12)とヨハネは、主題ごとにいくつかの段落を設定しました。
 彼らとはパリサイ人を中心とするユダヤ人たち(13)で、彼らとの論争が始まります。

 今朝はその第一段落、12〜20節のところからです。

 ヨハネが描くこの記事は、イエスさまが神殿の庭で人々に教えていますと、やって来た律法学者たちが、「お前はどのような権能をもってこれらのことをするのか。それに、このような権能をいったい誰がお前に与えたのか」(マタイ21:23・岩波訳)と詰問した、共観福音書の記事に重なっているようです。「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです」(12)と、このイエスさま第一声は、「何の権能(権威)によって?」というその問いかけに答えられたものでした。

 この共観福音書の問いかけは、ここでは隠されているのですが、ヨハネが、イエスさまの答えをもってこの論争の口火を切ったのは、ディアスポラのユダヤ人がエペソ教会に持ち込んで来た、「権威」の問題が、極めて重要な案件になっていたからでしょう。

 というのは、ユダヤ人が教会に持ち込んで来たのは、モーセの律法であり、ヨハネが教えていたのは、イエスさまの福音だったからです。
 ユダヤ人にとって、イエスさまの福音などモーセの律法に比べますと、どこかの馬の骨と思われたのでしょう。しかし、「わたしは世の光である」と、これはヨハネ文書の特徴である「わたしはある」の宣言です。
 それは、イエスさまが神さまご自身であるというものでした。
 ヨハネはイエスさまを神さまご自身であると証言することで、ユダヤ人ばかりでなく、論争を聞いていた異邦人クリスチャンたちへの回答としています。


 エゴー・エイミーに「世の光」を纏わせる。
 それは、教会の人たちへのヨハネの配慮だったのではないでしょうか。
 マタイが「あなたがたは世の光です」(5:14)と、イエスさまの回りに群がって来た人たちへの励ましを語っているのと、同じ状況が、ヨハネがエペソ教会で働いていた、紀元一世紀末のローマ・ギリシャ世界にも起こっていました。「わたしはある」は、イエスさまの神さまご自身であるという宣言ですが、そこには人の子として「地の上を歩まれる神さま」という意味が込められている。ヨハネは、暗やみにも似た迫害と殉教に追い込まれた人たちに、ただ逃げ回るのではなくて、光なるお方を輝かすように歩みなさいと勧めているのでしょう。

 仮庵の祭には、夜、献金箱のある内庭(婦人の庭)に四本の大燭台が立てられ、その光は煌々と辺りを照らしていたそうですから、ヨハネはその光景を思い出しているのかも知れません。そのお方は隠れているようではあるが、煌々と輝いてあなたがたとともに歩んでくださっている、とヨハネの力強いメッセージが聞こえてくるではありませんか。
 そのお方とともにあるならば、暗やみはあなたがたに何の危害も加えることはない。あなたがたはいのちの光を持つのだと。ロゴス賛歌(一章)にはこうある。
 「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中で輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった」(1:4-5)と。
 ヨハネはこの主題をもう一度取り上げ、信仰者の立つべきところを強調しました。


2、あなたは信じるか

 ここには、論争相手としてパリサイ人たちが登場して来ます。

 「お前はお前自身について自分が証している。お前の証は真実ではない。」(13・岩波訳)
 古代社会の法廷では、自己証言は偽りであるとして退けられていたと、5章31節のところで触れました。古代社会は支配者の意志が最高法規と思われがちですが、意外にも、古代ローマは「法」によって立っていたのです。その法は皇帝をも拘束するほどでした。そのころの「ローマ法」は現代にも、優れたものとして良く知られています。

 きっと、このパリサイ人は、その世界に登場して来た福音論争の相手なのでしょう。

 ところが、彼らユダヤ人はヤハウェの啓示の世界に生きて来ましたから、メシアの自己証言がギリシャ世界の常識外であって、それは正当な主張であると知っていたはずです。が、彼らはローマ世界の常識で異議の申し立てをしています。律法や割礼を権威のしるしとして持ち出しながら、彼らはすでにユダヤ人としての常識を失っており、ローマ・ギリシャ的価値観の世界にどっぷりと漬かっていました。
 ヨハネは、再度、その規定はイエスさまには通用しないのだと言わなければなりません。五章のときよりも、一層踏み込んで答えているようです。

 「イエスは答えて彼らに言われた。『もしこのわたしが自分のことを証言するなら、その証言は真実です。わたしは、わたしがどこから来たか、また、どこへ行くかを知っているからです。しかしあなたがたは、わたしがどこから来たのか、またどこへ行くのか知りません』」(14)

 まず、前半の部分です。
 メシアである方の証言は、本来、必然的に自己証言なのです。
 「イエスさまがご自分のことを証言するなら、その証言は真実である」と、ヨハネは、そのことをいささかも減じず、堂々とその論戦を展開します。なぜなら、メシアはご自分が「どこから来たか(先在のロゴスであり)」「どこへ行くのか(栄光のキリストである)」ことをご存じであり、そのことを知っているイエスさまは紛れもなくメシアご自身であると、これがヨハネの主張してやまない論点なのです。

 ヨハネはイエスさまを啓示者として語らせているのでしょう。

 それは、聞く者にとっての現在的なお方であるとともに、終末的なお方でした。
 「現在的」とは、人の子として地の上を歩まれる神さまのことであり、「終末的」とは、恵みも裁きも手中に治められる主ご自身として、それゆえ、ユダヤ人もギリシャ人をも、その行き着く先は啓示者の意志決定にかかっていることを指しています。それが、「あなたがたは、イエスさまがどこから来たのか、またどこへ行くのか知らない」ということばになりました。ご存じなのは唯一イエスさまだけなのです。「わたしは世の光である」はその意味で聞かれなければなりません。つまり、「あなたたちはわたしをあなたたちの主として受け入れるか」と、その信仰の決断を問いかけているのです。
 そのことは、現代人の私たちにも!
 私たちは、パリサイ人と同様、イエスさまがどこから来たのか、どこへ行くのかを知らない者ですので、唯一、「信じるか」と、そのことが問われている。
 そして「信じます。あなたは私の主です」と、応答することが求められているのだと聞かなければなりません。


3、大きな光のもとに

 続いて、自己証言を排除するパリサイ人に対する反論が別の視点から語られます。
 「あなたたちは肉に従って裁くが、わたしはだれをも裁かない。しかし、もしわたしが裁くとすれば、わたしの裁きは真実である。なぜならわたしひとりではなく、わたしをお遣わしになった父と共にいるからである。あなたたちの律法には、二人が行う証しは真実であると書いてある。わたしは自分について証しをしており、わたしをお遣わしになった父もわたしについて証しをしてくださる。」(15-18・新共同訳)
 新共同訳を引用しました。意訳ですがこのほうが分かりやすいでしょう。

「裁き」を持ち出したのは、パリサイ人たちが法廷を意識して自己証言は偽りであると論じたからと思われます。そして、また、「裁き」が当時、ユダヤ教の極めて重要な神学上のモチーフになっていたからでもあったのでしょう。彼らが律法遵守を持ち出すとき、「裁き」は、当然ながら、律法の裏に張り付いていたわけです。「あなたたちは肉に従って裁く」とはそのことを意味しており、それはイエスさまの福音とは相容れないことでした。そう聞きますと、「わたしはだれをも裁かない」と、イエスさまが言われたことも頷けるではありませんか。その真意は、イエスさまがパリサイ人の言う律法には断じて与しないというものなのです。

 ですから、「もしわたしが裁くとすれば」と仮定に立ってのことですが、イエスさまは御父といっしょに「裁く」のであるというところも、「証し」に代えて言い直しているのです。
 自己証言がだめで、一人の証言が受け入れられないのであれば、イエスさまご自身のほかに、御父を証人に立てようではないか。イエスさまのことはイエスさまご自身と父なる神さまが証しされる。それで証人は二人となる。それならば文句はあるまい、とヨハネが声を張り上げた論陣が浮かんで来ます。

 ところが、奇妙なことに、ユダヤ人の自己証言を否とする告発に対して、ヨハネの論点はずれていると感じられませんか。イエスさまを証人のうちに加えたら、それは自己証言であって、二人という証人は成立しないのです。他に証人がいないわけではない。「聖霊」ならば立派な証人ではありませんか。ユダヤ人にとっても「聖霊」は神さまのご人格を纏った方であると承知していました。それなのに、聖霊を引っ張り出さないで、イエスさまご自身と父なる神さまとで二人の証人としている。なぜなのでしょうか。

 ヨハネはパリサイ人の律法遵守という同じ土俵の上に立つことを避けたのです。

 ですから、彼らが返答に窮して「あなたの父はどこにいるのか」(19)と尋ねたときに、「あなたがたは、わたしをも、わたしの父をも知りません。もし、あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知っていたでしょう」(19)と返答しました。彼らがどんなに律法遵守に拘ろうとも、イエスさまと同じ土俵に立つことは出来ないのだと。それほどにヨハネはイエスさまの神性を強調している。イエスさまが「わたしはある、エゴー・エイミー」というお方であることが、どんなに人間とはかけ離れていることか。そう聞きますと、もはやユダヤ人が問題にした「権威」のことなど論ずるに価しません。
 ユダヤ人との論争という形を取りながら、もはやヨハネは、これを、ユダヤのパリサイ人にでもなく、ディアスポラのユダヤ人にでもなく、迫害と殉教のさ中にあるキリスト者たちへのメッセージとしたのです。
 もはや自己証言云々などどうでもいい。イエスさまは、暗やみにあえぐ私たちに寄り添うように、「わたしは世の光である」と言われたのです。
 生きることがだんだんと重くなって来るような、状況が、現代、進行している中で、その大きな光を輝かせたお方にこそ、私たちが目を留め、そして、その福音に聞かなければならないのではないでしょうか。


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